⑥
那智はただ、くじらの背中を見ていた。
──嫌だ、行かないで。
数歩先のくじらが酷く遠くに感じられて、駆け寄ってくじらのTシャツを掴んだ。くじらは馬鹿みたいな声を出して振り向く。
「っぶねぇなぁ! もうっ……」
「…………やだ」
「はぁ? ……なにが」
「………………」
那智がくじらの質問に答えないのは、彼女自身自分の行動の理由をよくわかっていないから。
こんなの、小さな子供が駄々を捏ねてるようだ。恥ずかしい。
そう那智は思いながらも、ぐちゃぐちゃした気持ちを、そこからの衝動的なそれを止めることができず、掴んだくじらの服を離すことができない。
あぁ、もう、と溜め息を吐きながら、くじらは自転車を端に停めた。
「……少し、座る? そのへん」
話す?とは聞かない。
くじら自身、何かを話せる気がしなかった。
那智はくじらの事がわからなくなってしまった……そんな気分になっている。事実、彼女の認識していたくじらと、今ここにいるくじらは大きく違っている部分もある。ただ、くじらが他人に興味が薄かったから、皆と馴染めた……というのは正しかった。
だからくじらは今、那智に掛けられる言葉がない。
今口を開いたら、酷く傷付ける言葉を言ってしまうような気がしている。
傷付ける気はないけれど。
テトラポットのブロックを足下に、遊歩道の端の壁に腰をかける。砂浜の家族も花火が残り少ない様で、小さな打ち上げ花火にキャアキャア騒ぎながら火を着けているのが見える。
くじらは那智の方を見ず、ずっとそちらの方に顔を向けていた。
「……怒ってる?」
「……別に」
「怒ってるじゃない」
「……わかってんなら聞くなよ」
「わかんないもん……
くじらのこと……もう……全然わかんないもん。わかってたと思ってたのに、わかんないんだもん」
「……いいよ、わかんなくて」
「やだよ!」
ずっとそっぽを向いているくじらが、わからなくていい、と素っ気なく言うくじらが憎らしくて、那智は俯いたままくじらをばしばしと叩いた。本当に駄々っ子みたいで嫌だ、そう思ってるのに更に涙まで出そうになる。
「うわ、なにすん、やめ……っ! もうっ
………………那智!」
くじらが那智の腕を掴むと、ようやく目が合った。顔を上げた那智の目から、堪えきれずに溜まった大きな雫の塊が、ぽろっと零れる。
────どくん。
心臓が跳ねるように、一際大きく音を立てた。
目が離せない、とか、そんな言葉も出てこない程真っ白になった思考。全身を支配するように胸の鼓動が響く。
わからなくていいのに。
多分それは、その響きの中にある影のようななにか。でも……もう、気持ちの中心じゃない。
くじらより少しだけ遅れて那智の心臓も同じ様な動きをした。尤もその音は少し違うけれど。
見たことのないくじらの表情。知らないひと……のような、くじら。
那智の知らない、くじら。
心がざわつく。
波音みたいだ。
くじらは視線を那智から逸らすことができず、ただ手を緩めた。手をどうしたらいいのかがまるで判断できない。いつもなら自然に那智の目の端を拭っていただろうか。
(……なんだこれ)
──那智は普段、泣くことなんてない。
ようやく思考が戻ってきたくじらは手を引っ込め顔を逸らした。自分が何をしようとしたかを考えると、急激に恥ずかしくなる。
涙を拭ってやるとか、どこの少女漫画か。
(そういうの、俺には似合わない……っ! 断じて似合わない!)
恥ずかしくて仕方ないくじらは、心の中で色々否定した。
那智は似合うかもしれないけれど、自分は違う。……石戸ならまぁ、許せる。
那智がなにか言いたそうにしてるのはわかっていたが、今度こそくじらは振り向かず……花火に興じている家族が打ち上げた、安い仕掛け花火の落下傘がこちらの方に来たのをいいことに、立ち上がって拾いに行ってしまった。
「…………くじらの馬鹿」
そう小さく呟いて、少しだけふくれた那智だったが、その後は素直に戻ってきたくじらと歩いて帰った。
その間は二、三どうでもいい会話をしたくらいで、ほぼ無言。那智もくじらも互いに何も聞かなかった。ふたりは微妙な空気を払拭することもなく別れたが、那智にはそれが自然な気すらしていた。
那智はようやく気付いた気がしていたから。
くじらの言ったことの意味が、少しだけ。
大好きなあの方が新しいお話を載せてくださっているので、毎日楽しみでしかたありません。