6.告白
はぁ、と白い息が霧散する。まだまだ雪が降るには程遠いが、冷たい風はもう冬に足を踏み入れていた。
貴子と双子。三人の関係は今までのようにはいかず、共に過ごすもののよそよそしいものを抱いている状態だった。それでも受験は待ってはくれず、三人はそれぞれ勉強に身を入れていた。しかし三人で放課後勉強をする機会は徐々に減っていき、以前は毎日と言っていいほど三人で勉強していたが、今では一週間に一度あるかないかだ。
下校時間にはすっかり姿を隠すようになった太陽に思いを馳せながら、貴子は一人昇降口から出て校舎を見上げていた。
まだ灯りのついている校舎の中から、ふと見慣れた影を見つけた貴子は、昇降口へと戻り、靴を履き替えて校舎の中へと駆けていく。廊下で誰かとぶつかり、おざなりに謝罪を述べ教室へと向かう。そんな貴子の背中をぶつかった生徒はじっと見つめていた。
目的の教室へ着いた時には、貴子はもう肩で息をしていて、熱い息が空気を白く染めていた。少しだけ開いた教室の扉に手をつけ、中を覗く。まるで見てはいけないものをこっそりと盗み見るような気持ちに、貴子の胸は早鐘を打っている。
息を潜めるようにして覗いた明るい教室の中には、寒くなってきたからとまとめなくなった長い黒髪を肩に垂らした薫がひっそりと存在していた。他に誰かがいるような気配はなく、薫はただ一人、椅子に座ってじっとしていた。貴子は彼女の姿を見て、小さく息を吐く。声をかけるべきか否か。貴子は逡巡するが、すぐに扉に手をかけることを決意した。
ガララッ、思いの外大きな音を立てた扉に、貴子も薫も肩を跳ねさせた。貴子の存在を認めた薫は目を丸くする。
「貴子……?」
薫が首を傾げると、長い髪が揺れ、彼女の顔に影を落とす。貴子は体を強張らせ、窓の暗闇に映る自分と薫の後姿を見た。暗闇の中の自分は不安げな表情をしていて、心の不安が煽られる。更に薫の黒髪が闇と紛れていて、溶けて消えてしまいそうだと思った。
「どうしたの、こんな時間に」
髪を揺らした彼女が立ち上がる。貴子と向き合った薫は冷たく光る瞳を彼女に向けた。
「……薫こそ、こんな時間まで何をしてたの?」
窓から薫に視線を移した貴子は一呼吸置いてから彼女に問いかける。薫はその問いかけに少しだけ目を伏せた。貴子はそれに気付き、胸にざわつきが広がっていくのを感じた。
「人と、会ってたの」
窓の方を向いた薫が、呟くように吐息と共に言葉を出した。彼女が誰と会っていようと、貴子には関係ない。そう思っていても、貴子の心はざわざわと騒ぎ立て、仄暗い闇が端から侵食していくような気持ちに陥ってしまう。誰と会っていたのか、と聞いてしまいたい。しかし聞いてしまえば、それが最後のような気もしていた。貴子は何も言えず、薫と同じように窓の方を見る。すると窓越しに薫と目が合う。闇と同じ色をした瞳が光を宿し、貴子の瞳を見つめていた。薫は何も言わない貴子に苦笑を漏らし、窓に近付いた。
「放課後に、話があるって呼び出されてたの」
自分の顔を撫でるようにガラスの上を彼女の指が滑る。貴子は息を呑んだ。放課後に話があると言われて、大抵の用事は決まっている。
「告白、されたの……?」
自分の中で何かどす黒いものが渦巻いているような感覚だった。なぜこのような気持ちを抱いているのかさえ分からなくなってしまうほど、貴子の心は闇に蝕まれていく。
「そうね、……告白だったわ」
薫の静かな声が教室に響き、貴子の目の前が真っ暗になった。
「そ、そう……」
何も言えず、貴子は薫から視線を逸らす。薫はそんな貴子の姿を見ながら、ガラスの中にいる貴子に手を伸ばした。しかし彼女に触れることは叶わず、彼女はひんやりとした窓ガラスから指をそっと外す。
「誰にって、聞かないの?」
意地悪を言うように薫は振り返り笑った。貴子は居心地の悪そうに数回、唇を開いては閉じ、再度薫を見遣る。
「誰に、告白されたの?」
本当に聞いていいことなのか。貴子は誘われるがままに疑問を口にしていた。
「ゆき子ちゃん」
毛先を指で弄りながら、薫はすぐさま答えた。整えられた毛先を見つめる薫に、貴子は呆然とする。念を押すように、彼女は「貴子のクラスメイトの、ゆき子ちゃんよ」と告げた。ゆき子ちゃん、と貴子は反復する。ゆき子と言う名の少女は確かに貴子のクラスメイトであった。クラスでは仲の良い方であり、大人しい部類に入る人物だ、貴子の知る限りでは、薫との接点はほとんどなかったはず。貴子はいつも優しく笑うゆき子のことを思い出していた。
「彼女、地元を離れるらしいの」
薫の声が響き、貴子を思考の海から引き揚げる。浜に打ち上げられた魚のように、呼吸が苦しくなる感覚に陥りそうになる。
「だから、卒業してしまう前にって」
窓から一歩、また一歩と離れていく薫。その足取りは重く、床の軋む音がする。煌々と光る電気にどこから迷い込んできたのか、一匹の蛾が近付いては離れて、を繰り返していた。
貴子はざわつく胸が先程とは違う意味でざわついていることに気が付いた。友人が地元を離れるということに愕然としながらも、薫の何でもないような態度に安心している自分の存在を、貴子は認めていた。安心してしまったのは、なぜだろうか。
「ね、この話はもういいわ。久しぶりに一緒に帰らない?」
鞄を手に取った薫が、突如明るい声を出してにこりと笑う。貴子はぼんやりとその一連の動作を眺め、知らず知らずのうちに頷いていた。嬉しそうに笑った薫はさり気なく貴子の手を掴み、彼女の手の温度を確かめるようにぎゅっと握った。どきりと胸が大きく鳴ったものの、貴子は平静を装いながら彼女の手を握り返す。二人で並んで教室を出て、今ではしんと静まっている廊下を薫は軽やかな足取りで歩いていた。
しかし貴子の頭にあるのは、ゆき子のことだった。仲の良い彼女が薫を好いていたことなど、知りもしなかった。そして、地元を離れるということなど、一言も聞いていない。どうして、と思った瞬間、脳内を過ぎったのは大好きな双子のことだった。
鼻歌でも歌いだしそうな薫を横目で見てから、貴子は彼女と繋いだ手を見る。ずっと一緒だと約束したのは、いつだっただろうか。随分と、遥か昔のことのように思えた。約束を反故にしたのは、約束を破ったのは、誰だったのか。貴子はそんな問いかけに自嘲した。
友人のあの子を責める資格など、自分にはありもしない。自分だって、大切な友人である双子に隠していることがたくさんある。それなのに、どうして誰かを責めることができるだろう。
「ゆき子ちゃん、離れちゃうのね」
自分と一緒。その言葉は音にせず飲み込んだ。薫はその言葉に貴子を見たが、何も言わなかった。しんみりとした空気が二人の間を漂う。昇降口に着き、靴を履き替えるために離した手が冷たい空気に触れて身震いをした。靴を履き替えるとまた薫の手が伸びてきて、手の熱を欲するかのように握られる。
二人で並んで校門を潜り、電灯のついた夜色の道を歩いていく。少し歩いた先で薫が口を開いた。
「前に、貴子はずっと一緒だよねってわたしと樹に聞いたわね」
突然話題に上がった内容に、貴子は内心首を傾げながらも頷いた。
「わたしは貴子が望むのなら、あなたが望む形で、ずっと傍にいるわ」
薫の言葉に、貴子はどう答えるべきか考えあぐねる。
「約束するわ」
温かくなった手を、意思を伝えるように更に握り込み、薫は笑った。その笑みを見た貴子が何も言えないまま、口をもごもごと動かしていると、握り込まれていた手がするりと離された。突然なくなった熱に驚けば、いつの間にか薫の家の近くまで来ていたようだった。
「じゃあまた」
手を振った薫に、結局何も言えず、貴子は小さく手を振り返す。玄関へ入っていった彼女を見送ってから貴子は一人歩き出した。数分歩いたところで、貴子はふと足を止めて振り返る。
(また明日って言わなかったな……)
今までなら別れ際に言っていた言葉を、最近言っていないことに気が付いた。意図せずして言わないわけではない。だが自然と言うことが少なくなっていた。そのことに気付いてしまい、貴子は目を伏せる。いつかは言わなくなってしまう言葉を、今すぐ言いに行きたい気持ちになるが、貴子はすぐに帰路に着いた。
「遅かったね、薫」
玄関の扉を開けた薫を待っていたのは、私服に着替えた樹だった。樹とは目を合わせずに、靴を脱いだ薫は彼の横をすり抜ける。
「貴子ちゃんと一緒だったの?」
その一言に、薫は彼を振り返った。
「だったら何?」
問いを返す薫に何も言わず、樹は夕飯の用意がされている居間へと向かう。それを見た薫は深く息を吐き出してスカートを揺らし居間とは違う方向にある自室へと向かった。
自室へ入るとすぐに鞄を置いて椅子に座り込む。
「貴子……」
つい先ほど別れた女の子のことを思い、薫は居た堪れない気持ちになった。机の上に腕を乗せ、更にその上にうつ伏せるように額を乗せる。
「……ごめんなさい、ゆき子ちゃん。やっぱりわたしは、あなたには譲れないわ」
放課後に会った貴子のクラスメイトのことを思い出してから、薫は顔を上げた。タンスから私服を取り出して制服から着替える。今すぐにでも貴子に会いに行きたいような気持に駆られるも抑え、私服に着替え終えた薫は自室を出た。
朝、昇降口で靴を履き替えていた貴子は、後ろから声をかけられて手を止めた。振り返ればそこにはクラスメイトのゆき子が立っていた。おはよう、と挨拶を交わし教室へ行く。貴子は彼女が薫に告白し、卒業と共に地元を離れることを思い出した。上手く言葉が出ず、どうすればいいのかわからないまま、彼女が話すことに相槌を打っていく。
「貴子ちゃん」
廊下を歩いていると、正面に樹が立っていて、貴子を見つけた瞬間手を振った。おはよう、と声をかけるとゆき子が先におはよう、と返す。少し驚いてゆき子を見たものの、彼女は樹を見ていた。遅れて樹に挨拶を返せば彼は満足したように笑って頷いた。
「じゃあまたね」
手を振って樹が去っていくと、貴子とゆき子は自分達の教室へ入った。貴子は自分の椅子に腰かけながら樹のことを考える。彼は昨日、薫がゆき子に告白されたことを知っているのだろうか。貴子の中で双子は何でも話し合っているという認識だ。二人と自分の間には隠し事があっても、彼らの間には隠し事はないのだと考えている。
机の中に教科書を入れると、くしゃりと中で何かが鳴った。机の中を覗いてみると奥にくしゃくしゃになった紙が入っている。手を伸ばして紙を見てみると、文字が書かれている。自分でいれた覚えのない紙に、貴子は慌てて紙の皺を引き延ばす。そして現れた文字を読んだ。
「話があります。放課後、教室にて」
呟くように声に出し読んだ文章に貴子は首を傾げた。いったい誰からのものか、字に見覚えがあるような気がするが、誰かはわからなかった。きっと大事な話なのだろう。誰からかもわからない手紙に、放課後教室に残ることを決めた貴子だった。
そして放課後、帰り支度を済ませて椅子に座ったままぼんやりと空を眺めていれば、教室の扉が静かに開かれる。そちらを向けば、手紙の差出人らしき人物が笑みを浮かべて立っていた。
「……樹、だったんだ」
道理で見覚えのある字だと思った、と貴子は苦笑を漏らす。樹はそれにいたずらが成功したような表情を見せて貴子の席の近くまで歩み寄った。
「ごめんね、こんなことして」
貴子の机の前で立ち止まった樹は、椅子に座る貴子よりも目線が下になるようにしゃがみ込む。貴子はただ黙って彼の動作を目で追っていた。
「でもこうでもしなきゃ、邪魔されそうだったから」
誰に、とは言わなかった。彼の表情を見ると、貴子は聞こうとも思えず、言葉の先を促した。
「貴子ちゃん、」
貴子から視線を外し、少しだけ目を伏せた樹は震えた声を出した。普段の彼からは想像もつかないほどの声で、貴子はきゅっと唇を噤む。数秒、二人の吐息の音だけが響き、空白の時間が訪れた。するとしゃがんだ樹が立ち上がり、机の上に乗せていた貴子の手を握る。
「ぼくは、貴子ちゃんのことが好きだよ」
真剣さを帯びた瞳が貴子を捉えた。貴子は突然のことに何も言えず、樹を見上げる。
「友達としてじゃない。一人の女の子として、きみが好きなんだ」
そんな言葉に、貴子の頬は熱くなっていく。自分の頬が赤くなっていることを気にする余裕も貴子にはなく、顔を赤くしたまま樹を見上げていた。
「いつから……?」
ようやく絞り出した声はそんなことを訊ねる。それを聞いてどうするのだろうと貴子は思いながらも樹の返事を待った。
「ずっと前から。もしかしたら、はじめて会った時からかもしれない」
困ったように眉を下げた樹に、貴子は胸が締め付けられる感覚になる。そんなにも前から自分のことを好きでいてくれたと嬉しい気持ちもありながら、ずっと彼は友達ではなかったのだという複雑な気持ちも貴子は抱えていた。
「薫は、知ってるの…?」
ふと気になったことを訊ねてみると、樹は眉を寄せ、口を尖らせる。そして樹は貴子から目をそらした。貴子が赤い頬を隠すように顔を伏せると、樹は彼女から手を離す。
「知ってるよ。だって薫も、」
言葉を続けようとしたその時、教室の扉が勢いよく開かれた。二人が視線を向けた先には、よく知っている人物。薫が立っていた。
「抜け駆けはなしって言ったでしょ」
彼女にしては冷たい声を出した薫は、つかつかと足早に二人の元へと近付いて樹の手を叩いた。
「ほら、やっぱり。ぼくは邪魔されたくなかったんだよ」
叩かれた手をちらりと見遣ってから、樹は肩を竦めた。先程彼が言っていた邪魔をされたくないという言葉は、薫に対してのものだったのかと貴子は認識する。薫は口を一文字に噤んで樹を睨みつけるようにして見つめていた。貴子は彼女の表情に何も言えず、ただ二人の様子を見守ることしかできずにいる。薫が樹の手を叩くことにも驚いたが、それに対して落ち着いた態度を取る樹にも驚いていた。貴子の知る二人は言い合いをしても手を出すことはなかった。しかし樹の態度では、手を出すことも想定内だと言うのだろうか。
二人の様子に戸惑っていると、薫はにこりと笑みを作り貴子を見た。そして昨日の放課後のように、するりと手を取って両手で握り締める。
「好きよ、貴子」
手を握った薫の口から紡がれる言葉に、貴子は呆然とするだけで何も言えなかった。まさか彼女が。夏に言っていた好きな人とは、自分のことだったのか、と貴子は漠然と思った。彼女が自分に対しての思いで、死んでしまいたいと望んでいるとは思いもしなかった。しかし彼女の恋の正体を知ってしまった今、貴子は応援することなどできやしないのだ。
「薫、」
咎めるような声を出す樹の目は冷ややかで、貴子はごくりと喉を鳴らす。樹は薫の行いを良く思っておらず、貴子をちらりと見遣ってからすぐに薫の手を引いた。
「邪魔しないで」
今度は薫が咎めるような声を出す。彼女もまた、冷ややかな目をしていた。二人は貴子を置いて睨み合い、貴子は薫に手を握られたまま二人の様子を見ていた。
「最初に邪魔をしたのは薫だろ」
「それでも樹がわたしを邪魔していい理由にはならないわ」
外が暗くなっていくことも気にせず、二人は言い合う。不穏な空気に貴子は外へ目を遣り、真っ暗になった外に焦燥感を得た。
「ずるい、」
数秒あけて、薫が振り絞るように声を出し、貴子の手を握る両手に力を込めた。少しの痛みに貴子は密かに眉をしかめるが、二人はそれに気付かない。
「ずるいのよ…!」
貴子には何のことかわからなかった。薫の言葉は樹に向いているようで、貴子は二人の様子を見守ることしかできない。樹を見ると、彼もまた苦々しい表情を見せていた。
「ぼくは言ったよね、」
樹がいつもよりも低い声を出すと、薫の力は少しだけ緩んだが、この手を離してはいけないと貴子はどこかで感じ、逆に手を握った。
「薫の方が、ずるいよ」
見計らったように放たれた彼の一言に、薫はきゅっと口を噤む。貴子が再度彼を見ると、彼は世界を拒絶するかのように瞼をしっかりと閉じていた。薫の黒々とした瞳が蛍光灯の光に反射して輝いたと同時に、ぽろりと真珠のような涙を零す。薫が涙を零すところを見たことがない貴子は瞠目して薫の手をさする。
「わたしは…っ、わたしは、ただ貴子のことが、好きなだけなのに…‼」
真珠を量産していく薫に貴子はどうすることもできず、ただ彼女を見つめていた。
「ぼくだって、好きだよ…!」
珍しく大きな声を出した樹にも驚き、そちらを見ると彼も嗚咽を堪えるように唇を噛み、瞳を潤ませていた。二人の変化に貴子はどうすればいいのかと視線を右往左往させる。
突然の二人の気持ちの吐露に、貴子は右往左往させていた視線を足元へ落とした。
「ねぇ、」
片手を外した貴子はその手を樹に伸ばす。そして樹の手を取り、きゅっと握った。声をかけられた二人が貴子を見ると、貴子は眉を下げて笑っていた。
「わたし達、ずっと一緒だよね」
あの約束は今でも残っているだろうか。もし残っているのならば。貴子は薫と問題になった和歌のことを思い出した。この約束がある今のうちに死んでしまいたい。今はそこまで強く思ってはいないが、似た感覚は持ち合わせている。そのことに、一体誰が気付けるだろうか。
貴子は二人の返事を待たずして口を開く。
「わたしもね、二人のことが好きだよ。だけど、わたしは二人の気持ちには応えない」
自分の中の恋心は綺麗なものではない。きっと二人の気持ちはキラキラと宝石のように輝いているのだろう。自分の恋心がある限り、誰も幸せに離れないような気がしていた。
「でも、ずっと一緒だよ」
だって約束だもの。そう言って貴子はこれ以上ないくらいの微笑みを浮かべた。薫と樹はその表情を見て、何も言うことができなかったが、返事をするかのように薫の真珠が一粒、貴子の手の上に落ちた。




