4.夏休み
その日は朝から暑い日だった。試験も無事に終わり、夏休みに入って数日。貴子は家の中で涼を取っていた。お昼ご飯に母親が作った素麺を啜り、数分後には机に向かって宿題を消化する。そんな毎日を送りながら、今日もその算段で用事のない午前を過ごしていた。
双子とは変わらずだった。いつか爆発してしまいそうな気持ちを押さえ付けて、その爆弾の所在を彼らに気付かれないように隠し、傍にいた。顔を合わせれば楽しく話をするし、互いの家に遊びに行くことだってある。受験勉強をしようと共に勉強することも増えた。そのまま夏休みに入ったが、電話をすることもあり、直接会うことも度々あった。初夏の頃よりすっかり伸びた髪を後ろで一つに括り、小さな庭にあるししおどしを眺めながら双子のことを考えていると、玄関のチャイムが静かな家に鳴り渡る。
ごめんください。聞き慣れた声がして玄関へ行くと、白いワンピースを身に纏い、青いリボンが一本巻かれた麦わら帽子を被った薫が立っていた。その後ろには青いチェックのシャツを着て黒い膝丈のズボンを穿き、薫とおそろいの麦わら帽子を被った樹が笑って立っている。
「こんにちは、貴子」
貴子の姿を捉えた薫は嬉しそうに笑い、長い髪を揺らした。川に行きましょ、と言った薫に、貴子は慌てて家の中へと駆け込んだ。驚いた母親に双子と共に川へ行くことを告げると、母も慌てて彼女を引き留めた。
「あなたご飯も食べてないじゃない、せめてご飯を食べてからにしなさいな。……薫ちゃんと樹くんには上がってもらいなさい」
呆れたように言った母に対して、はっとして頷き、玄関へ戻る。昼食を取っていないことと上がってほしい旨を伝えると、双子は目を丸くした後、大きな声を上げて笑った。
「お昼前に来たわたし達が悪かったわ。……お邪魔するわね」
薫に引き続き、「ごめんね、お邪魔します」と告げ家に上がり込む樹。そんな二人に胸を撫で下ろしながら家の中へと戻る。すでに二人は母親と挨拶を交わしていて、母親は笑顔で台所へと入っていった。
「お昼ご飯は素麺ですって。わたし達もご馳走になることになったわ」
毎日の昼食が素麺であることを知らない双子は、嬉しそうに縁側へと腰かけた。今日もまた素麺であることに若干うんざりした貴子も薫の隣に腰かける。三人で並んでししおどしの緩慢な動きを眺めていると、樹が口を開いた。
「宿題は、捗ってる?」
貴子はその言葉が自分に向けられているものだと感じ、薫を挟んだ隣にいる樹を見て頷いた。自室の机の上に置いてある宿題の山を思い出しながら、今までに済ませた分とこれから済ませる分のことを考える。
「毎日やっているから、そこそこは。この調子なら八月に入る頃には終わるかな」
さすがね、と薫が声を上げる。そう言う薫も八月に入る頃には全て済ませてしまうことを貴子は知っている。貴子は曖昧に笑みを浮かべた。
容量の良い双子は夏休みの前半には完全に宿題を片してしまう。毎年のことだ。対して貴子は元々、容量は良くなかった。双子と出会うまでは宿題は後回しで朝から日が暮れる頃まで遊んで、夏休み終盤に泣きを見るほどであった。しかし双子と出会ってからは樹に「宿題は捗ってるか」と聞かれることが多くなり、休みに入ればすぐに手を付けるようになったのだ。その結果、貴子も夏休みが始まって数週間で宿題を全て済ませられるようになった。
「ぼく達の叔父さんがね、キュウリをくれたんだ。今朝それをかごに入れてね、川で冷してきたんだ」
樹がそう言って川で冷やしているというキュウリの話を始めた。叔父さんのキュウリは美味しいのよ、と薫も笑ってキュウリに思いを馳せている。貴子だけは、へぇ、と気の抜けた声を出す。貴子の知らない双子の世界が、彼女の前には広がっていた。二人だけが知っていて、自分だけが知らない世界。急に二人を見ることができなくなった貴子は、慌てて二人から視線を逸らし、庭のししおどしを見つめた。そんな貴子の様子に二人は気付かない。
できたわよ、と母親の声が聞こえて貴子はすぐに立ち上がった。待ってました、とばかりに笑顔を見せた薫と樹も立ち上がり、貴子の後をついていく。
大きなガラス皿に盛られた白く細い麺。小ぶりな椀に注がれた黒いつゆ。傍の小皿には茶色い椎茸の甘煮。それに添えられた薄く切られたキュウリが彩りを豊かにしていた。キュウリを見た貴子はなんとも言えない気持ちになりながら箸を持った。いただきますと声を上げれば双子もいただきます、と箸をつけていく。
毎日食べる変わらない味の素麺をつるつると喉に通していくと、あっという間に素麺はなくなった。数分も経たないうちに満腹になり、三人は箸を置く。その後、少しだけ寝転がり静かな正午を過ごすと、貴子は双子に連れられて外へ出て行った。
「ここから近いのよ」
貴子の手を引いて薫がそう言った。白いワンピースが風に揺られる。爽やかな青い風が三人の背中を押していく。家の近くにある山に入っていった三人はすぐに涼やかな日陰に入り、冷たい空気を探して歩いた。
「ほら、あそこだよ」
樹が指をさした方を見れば、木々の合間から注ぎ込む光の帯がキラキラと輝く場所がそこにはあった。透き通った水が流れる川は浅いものであるが、水遊びをするには程よい場所である。よく見れば岸に近い位置には籠に入ったキュウリが水にさらされている。後で三人で食べましょ、と笑った薫に貴子は頷いた。
薫は笑みを深くして、貴子を置いて川へ駆ける。ぱしゃんっ、大きな音を立てて水しぶきを上げた川の中心には薫が立っている。水しぶきが飛んできたのか、顔をシャツの袖で拭った樹は苦笑を漏らし、ゆっくりと川の中へ足を踏み入れた。それを見つめていた貴子も二人に呼ばれて川へ入る。ひんやりとした水が足にまとわりつき、体の芯から冷やしていく。水の掛け合いをしたり、小さなカニや川魚を探したりと、ひとしきり遊び満足した頃、岸辺の大きな石に腰かけて三人は冷やしていたキュウリを食べることにした。
「ねぇ貴子」
薫がキュウリに噛り付きながら貴子を見た。半分まで食べきったキュウリに更に噛り付こうとしていた貴子は動きを止めて隣に座る薫を見遣る。
「前に授業でやった百人一首、覚えてる?」
静かに木々を揺らす声にどきりとする。思わず樹を見れば、彼はこちらの様子を気にした素振りもなく、川を見つめていた。それが逆に不審に感じてしまい、心がざわついた。再度薫を見ると、彼女はじっと貴子を見つめていて、心臓が跳ねる。
「忘れじの行く末までは……ってやつ。覚えてる?」
薫の口から出てくる言葉に瞠目する。なぜ彼女がその和歌をわざわざ出してくるのか。自分にとって似ていると感じた和歌だからこそ、彼女がその和歌のことを口にすることが信じられなかった。貴子は口を開こうとするも声が出ず、頷くようにキュウリに噛り付いた。
「わたしね、あの和歌が好きなの」
ぽりぽりと噛む度に鳴るキュウリに、さわさわと互いを擦り合わせる木々の葉に、ちゃぷりと音を立てる川。それらが合わさって不思議な音を奏でている空間が出来上がる。
「わたしもね、死んでしまいたいと思ったわ」
突然の激白に、貴子は短くなったキュウリを噛み砕いた。樹を見れば、やはり彼は川を見つめている。薫の心を知っていたのだろうか。
「……違うわね」
首を振った薫は貴子から視線を逸らし、残り一口、二口ほどのキュウリの断面を見ながら静かに言った。
「今でも、……今すぐにでも、死んでしまいたいの」
どこか違う世界にいるような、捕まえておかなければどこかへ消えてしまいそうな、そんな感覚に襲われて、貴子は思わず薫の腕を掴んだ。驚いたような薫の表情に、自分の表情が歪むのを、貴子は感じた。
「どうして、」
その先は言えなかった。何を言いたかったのかも、貴子にはわからなかった。なぜそういうことを言い出したのかと問いたいのか、それとは違うような気がしていた。胸のざわつきがザラザラと心の表面を擦り荒らしていく。ささくれた心が薫を傷つけてしまいそうな予感がした。
「わたし、好きな人がいるの」
貴子の心に気付くはずもなく、薫は言葉を紡いだ。やめて、と貴子は叫び出したくなった。薫の腕を掴む手に力が加わる。しかし薫はそれをものともせずに貴子の目を見据える。樹もいつの間にか二人の様子を窺うように、息を潜めて川から視線を外して二人を見ていた。
「その人が、本当に好きなの。だけど叶わないの」
でもね、と続いた言葉に貴子は耳を貸す気にはなれなかった。やめてほしい気持ちでいっぱいになる。信じたくない、信じない、と心の中で繰り返す。
「好きって、言ってもらえたのよ」
全ての音が消えたような気がした。あんなに音を奏でていた木々や川でさえ、鳴りを潜めたように感じられる。
薫に好きな人がいたとは、知らなかった。薫自身が貴子に知られまいとしていたのか、そのような素振りは一切なかったはずだ。薫は確かに美しい。世の少年が彼女を放っておくわけがない。しかし薫自身にその気があったかというと、話は別だ。常に樹と共にいて、貴子とも、べったりと言っていいほどだ。それが、どうして。貴子は今までの薫の言動を思い出す。そこではたと気が付いた。
「あの時なの……?」
どう言おうか考えあぐねている様子の薫の話を切り、貴子は声を出した。
「あの日、薫がいなかった、あの時に?」
双子が隠し事をしたあの日。あの時しかない。
「だから死んでしまいたいだなんて、言うの?」
川魚がぱちゃん、と音を立てて飛び跳ねた。水しぶきが太陽の光に照らされ、不思議な光彩を放つ。そんな中、貴子は自分の中に黒く渦巻く感情が芽生えていくのを感じた。
彼女の心を占める誰かが恨めしい気持ちと、誰かもわからない相手のために、和歌のように死んでしまいたいと望む彼女が憎い気持ちが溢れる。自分はこの三人の関係を守るために、恋心を隠しているというのに、なぜ彼女だけが。
ひどく自分が醜い存在のように思えた。貴子の胸は締め付けられ、息苦しくなる。
「わたし、」
貴子の掠れた声が双子の耳に入る。薫も樹も、貴子を見つめた。
「わたし、死んでしまえばよかった」
薫の腕に縋り付くように額を寄せた。小さく振り絞った声は二人に聞こえただろうか。貴子の絞り出した小さな声は双子にもしっかり届いており、彼らは小さく息を呑んだ。
薫に好きな人がいて、彼女がその人のために死んでしまいたいと望むのなら、ずっと一緒だという約束は反故にされてしまう。それなら自分が先に、約束が消えてしまう前に死んでしまえばよかったと、貴子は感じた。
「貴子?」
自分の腕に縋り付く貴子の様子に驚いた薫が、戸惑ったように彼女の名前を呼んだ。樹も身を乗り出して彼女の様子を窺っている。
貴子は何も言わなかった。自分の胸の内を曝け出してしまいたいと思えば思うほど、何も言えなくなる。何が言っていいことなのかもうわからないのだ。
「ごめん、貴子。わたしが変なことを言ったからね」
貴子を抱きしめて薫がそう言った。貴子は首を振ったが、やはり何も言わなかった。最後のキュウリを口に放り込んだ薫はヘタの部分を近くに捨てて、樹を見た。
樹は頷いてキュウリの入っていた籠を持ち、立ち上がった。
「貴子ちゃん、そろそろ冷えるから、帰ろうか」
優しく声をかけた樹に、貴子は頷いた。薫はそんな彼女をそっと離して笑みを浮かべた。
それから、誰もがこの話がなかったかのように振舞った。樹はもちろん、話を振った薫や、大きく反応してしまった貴子でさえ。濡れた足先がなぜか滑稽に見えて貴子はやりきれない気持ちになった。
無言で三人が歩く。とうとう貴子の家に着くまで、三人は口を開くことはなかった。それぞれが言い知れぬ気まずさを抱いていたのだ。視線を右往左往させてから、それじゃあ、と双子が手を上げたところで、貴子は二人を見て口を開いた。
「わたしも、」
彼女の声に二人は動きを止める。言葉を促すように彼女を見ると、貴子は強い意志を持った瞳で二人を見つめていた。
「わたしにも、好きな人がいるの」
だから、と言葉を続けると、意図せず詰まってしまう。嗚咽が込み上げるように、しゃくりあげ、視界も滲む。しかし貴子は口を動かし続けた。薫と樹も、その様子に何も言えず、ただじっと彼女を見守っている。
「……だからっ、薫の言ってたこと、わかるよ! わたしも、すきって言ってもらったの!」
嗚咽を堪えるように絞り出した声に、二人は瞠目した。体が石になってしまったかのように動かなくなる。貴子に、薫の好きな人物がわからないように、二人にも彼女の好きな人物のことがわからなかった。自分達以外に貴子に近い人物などいなかったはずだ。双子は貴子の言葉に少なからずショックを受けていた。水を打ったような静けさの中、貴子の嗚咽だけが聞こえる。そんな彼女から再度、だから、と声が聞こえて二人は我に返った。
「わたし、死んでしまいたい」
切実な声だった。二人が閉口してしまうほどに、切なる願いを込めたような声だった。それから貴子は二人に笑いかける。
「ねぇ、約束は、ずっとあるよね」
眉尻を下げ、困ったように問いかけた。薫と樹は一瞬首を傾げた後、すぐに約束というものが何を指すのか思い出し、大きく頷く。
「ぼく達が、貴子ちゃんと一緒にいたいんだよ」
樹がそう告げると、貴子は更に困ったように笑みを深めた。
「わたし、貴子が大好きよ。本当に、誰よりも、大好きなの」
薫が貴子に近付き、彼女の手を握った。貴子はじんわり伝わってくる彼女の熱に鼓動を早める。
「約束は、消えないよ。……ずっと」
樹の力強い声と言葉に貴子は涙を流しながら頷いた。ありがとう、と呟くと薫も樹も笑みを浮かべた。
「いつか、話してちょうだいね」
薫が貴子の手を握り締めたまま告げると、貴子はそっちこそ、と小さな声で言った。
双子と貴子。お互いの隠し事の存在が、同時に明らかになった日だった。




