1.少年少女
【忘れじの行く末まではかたければ 今日をかぎりの命ともがな】儀同三司母
夏のうだる暑さが目前に迫った、初夏の夕暮れ。貴子は教室の隅の椅子に座り、頬杖をついてぼんやりと外を眺めていた。赤紫に染まっていく空を眺めて紺色がやってくるのを、貴子は待っていた。髪に隠れたうなじを汗が流れていく。それを気にもしない様子で、彼女は時間が過ぎるのをただ待っていたのだ。
校内に大きなチャイムが鳴り響き、下校を促すアナウンスが流れる。貴子はゆっくりと外から視線を逸らし、次に教室の黒板を眺めた。日直が雑巾がけも済まし、すでに明日の日付や曜日が書かれている綺麗な黒板が、じっと静かに貴子を見据えている。
貴子は緩慢な動作で、机の横にかけていた鞄を手に取って立ち上がった。
「貴子」
ふと名を呼ばれ、そちらを向けば長い髪を一つに結い上げた少女が、微笑みを浮かべて立っていた。安心したような表情を浮かべた貴子は彼女の元へ寄る。肩につく程度の貴子の髪を風が撫でていく。少女は笑みを深めて貴子を見つめる。
「ごめん、待たせちゃった。帰ろっか」
サラリ、と結い上げた髪が貴子の頬をくすぐった。それに笑みを浮かべた貴子は一つ頷いて歩き出す。この少女と帰路を共にすることが、貴子の唯一の楽しみだった。
貴子の友人、薫は、高く結い上げた髪を風に靡かせていた。誰もが振り返るような美貌を持ち、すらりと伸びた白い手足を、惜しげもなくセーラー服から出している薫の右隣に並ぶのは、彼女よりも背の高い少年だった。白いシャツを身に纏い、黒いスラックスを穿いた少年、樹は薫の左隣に並ぶ貴子を横目で見つめた。頬を薄らと朱に染めながら薫と親し気に話す貴子を見て、樹は微笑ましい気持ちを抱いていた。ちらりと、貴子が樹に視線を遣ると、薫を挟んで目が合う。お互いに笑みを浮かべ合い、自然に視線を逸らす。
どうしてこの三人で帰路についているのか、ふと貴子は考えた。
大切な友人である美しい薫には、双子の兄がいる。それが樹だ。この双子はいつでも仲が良く、貴子には入る隙もないほどであった。しかし気さくな性格である二人は貴子という存在を事もなげに受け入れた。いつしか三人は親友と言う関係を作り上げていた。美しい双子は貴子をとても気に入っており、登下校は必ず三人で、と決めているほどだ。
「今日はうちに寄っていくでしょ」
熱の籠った薫の視線に見つめられ、貴子は小さく頷いた。貴子が家へ寄ることを期待している、その意思を孕んだ視線は貴子の脳を溶かしていくようだ。樹はそんな二人を見て笑う。
「貴子ちゃんが来てくれるの、嬉しい。母さんも喜ぶよ」
「あら、わたしが一番嬉しいわよ」
樹の言葉に薫が反論する。そのやり取りに、今度は貴子が笑う。何を笑ってるの、と薫が貴子を小突くも、笑いは止まらない。薫がいて、樹がいて、二人と過ごす。そんな時間が貴子は大好きだった。
学校から数十分歩いた先に、双子の家はある。大きな門を開けて薫は家の中へと駆け込んで行く。
「ただいま! お母さん、貴子も一緒よ!」大きな声を聞きながら樹と貴子も彼女の後に続いた。
「薫は元気だなぁ。貴子ちゃん、どうぞ」
来客用のスリッパを出しながら樹が中に促した。貴子は何度も訪ねたこの家の玄関で、未だに慣れぬ様子でスリッパを履いた。樹はそれを眺めながら自分の短く切った襟足を触る。
「貴子ちゃんが来てくれて嬉しいの、本当だよ。薫にだって負けないくらい、嬉しいんだから」
脱いだ靴を揃えていた貴子はピタリと動きを止める。ゆっくりと樹を振り返ると、穏やかな笑みで彼は視線を遣っていた。気さくな彼はたまに、こういった冗談か本気かわからない発言をする。貴子はいつもそれに動揺してしまう。本気かわからないからこそ、動揺してしまうのだ。顔が熱くなっていることを無視し、頬にかかる髪を耳にかけて貴子は笑顔で動揺を誤魔化した。
「貴子」
耳に馴染んだ静かな声が聞こえて、貴子は樹の後ろに視線を向ける。先程までの笑顔など知らなかったかのような冷たい表情の薫が佇んでいた。そんな表情を見たことがなかった貴子は、驚きながら薫に声をかける。すると薫は打って変わったように、笑顔を浮かべて貴子の傍へ寄り、手を引いた。ゆらゆらと長い髪が揺れるのをぼんやりと眺めた。樹は二人の様子を窺いながら後ろをついて行く。居間で双子の母が貴子を出迎えてくれた。貴子が家を訪ねたことを大層喜んで手を合わせて笑顔を浮かべている。お夕飯は食べていってね、と言われ貴子はすぐに首を横に振った。すぐにお暇します、貴子はそう言ったが薫がそれを許さなかった。しまいには樹までもが貴子を引き留めるので、貴子は首を縦に振らざるを得ない状況に陥ってしまう。
友人の家で、居心地が悪いわけではない。それこそ何度も訪れているので、慣れたものである。しかし、だからこそ申し訳なさが際立ってしまう。来る度にお夕飯も、と誘われるのだ。果てには泊まることもしばしばある。そこまでしてもらうことに気が引けてしまう貴子はいつも家へ寄るものの、誘いを断るのだ。そのうちの大半が今のように薫や樹に押されてしまうのだが。
薫は貴子が家に来ると機嫌がよく、樹もいつも以上に笑みを深くする。二人を見ていると、貴子も嬉しさで胸がいっぱいになる。三人でいることが心地よく、まどろみの中にいるような感覚をもたらしていた。
双子の家で夕飯をご馳走になった貴子は早々に家を出た。途中まで送ると樹が言い出して、薫もついてくる。飽きもせずに三人で話し尽くし、また明日と別れると、貴子は少し歩いた先で双子を振り返った。まるで恋人のように仲睦まじく肩を並べて歩く二人を見て胸が苦しくなる。自分の胸の内に秘めた恋心が叫び出しそうになるのを、押さえ付けるように貴子は二人から目を逸らし家路に着いた。
「今日は百人一首についてやるぞ」
教師が大きな声でそう告げるのを、貴子は教科書を眺めながら聞いていた。教科書に目を通しつつも、頭には入ってこない。貴子の意識は他の所にあった。貴子の頭の中はもっぱら双子のことである。授業中でさえ二人のことを考えてしまうほど、貴子は二人に夢中と言っても過言ではない。ふと隣に座るクラスメイトが貴子を小突いた。貴子がはっとしてそちらを見ると、クラスメイトは苦笑しながら黒板を指さした。つられて黒板を見遣ると教師が呆れたような顔で貴子を見つめている。
「ぼんやりするな、教科書に書いてある和歌を詠んでみろ」
教師がそう告げたことで、自分が当てられていたことに気付き、貴子はすぐに立ち上がった。隣に座るクラスメイトがここだよ、と教科書の一行に収まっている和歌を指さす。ありがとう、と貴子は笑って教科書に視線を移す。
「忘れじの行く末まではかたければ 今日をかぎりの命ともがな」
しんと静まった教室内に、貴子の声が響く。教師はよし、座っていいぞ、と言いながら和歌の説明を始めた。貴子は椅子に腰かけながら教師の話に耳を傾ける。
「この歌は恋の歌で、男性の心が変わることに不安になった女性の、優しい言葉をもらった今日のうちに死ねたらいいのに、という気持ちが込められている」
貴子は教科書の一部に目を通していた。当時の貴族の哀しい恋を詠っている、と教師は告げる。貴子はこの歌が、自分の気持ちと繋がっているような気がしてならなかった。
自分の恋は決して叶わない。そう思っていたからこそ、貴子はこの気持ちを隠して、友達としての優しい言葉をもらってその心地良さに浸っていた。しかしこの和歌を詠んで初めて気付いてしまったのだ。もらった優しい言葉が、相手の気持ちが変わってしまうかもしれないということを。
突然目の前が真っ暗になったような気がした。いや、そんなはずはない。ずっと、友人のままで傍にいられるはずだ。貴子はそう自分に言い聞かせる。それでも明るい気持ちにはならず、気が付けば放課後にまでなっていた。
いつも放課後は違うクラスの薫が貴子を迎えに来て、途中で樹が加わる。下校時間ギリギリまで、彼女を待つのが日課だ。赤紫に変色していく空を眺めながら、今日も薫を待った。
「貴子ちゃん」
予想していた声よりも低い声が静かな教室に響く。弾かれたようにその声の主を見ると、そこには低い声の主である樹が立っていた。
「薫、どうしても外せない用があるみたいなんだ。だから今日は二人で帰ろう」
近付いてきた樹が貴子の肩を軽く叩く。呆然とその様を見ていた貴子は乾いた唇を少しだけ噛んだ。樹の言葉に頷いて立ち上がると、樹はホッとしたように微笑んで貴子の鞄を手に取った。貴子は慌てて荷物を取り返そうとするも、樹は返してくれない。
「ねぇ貴子ちゃん。アイスでも食べて帰らない?」
ふとそう言った樹に貴子は首を傾げた。いくら夏が始まるとは言え、薫がいた時にはそんなこと一度も言ったことがなかった。放課後はまっすぐに家へ向かうことがほとんどだ。だからこそ不思議に思うのだ。
「どうしたの、今までそんなこと…」
「ぼくが食べたいんだ。ね、いいでしょ」
奢るから、と懇願され、貴子は釈然としないまま、頷いた。樹は嬉しそうに笑い、貴子の手を引いた。
学校からさほど遠くない小さな店にアイスは売っていた。樹は言った通り、二人分のアイスを買って貴子に手渡した。棒のアイスはバニラ味で、真っ白な塊に二人は口をつけた。じんわりと額に浮かぶ汗が夏の暑さを促しているようで、体はアイスを欲していた。並んで木陰のベンチに座り、アイスを舐める。半分ほど食べきった貴子は隣に座る樹を見た。
「何かあったの、」
意を決して口を開いてみると、樹はアイスから口を離して貴子を見ずに前だけを見つめていた。貴子が再度口を開く前に、樹が口を開く。
「何があったと思う?」
貴子を見ない横顔がくしゃりと歪んだ。いつも笑みを浮かべている彼がこんな顔をすることは珍しく、貴子は少なからず驚いてしまった。彼がそんな顔をする原因がわからず、貴子は口を噤んだ。
樹はそれに気付いたのか、気付かなかったのか、小さく笑う。
「なんでもないよ。ただ、本当に、アイスが食べたかっただけなんだ」
そこで樹はようやく貴子を見遣った。貴子はその表情を見て胸が苦しくなる。この表情はきっと、薫が関係している。そう直感してしまったのだ。彼にこんな表情をさせたくない。その思いがどっと溢れてくる。
(薫、薫は今、何をしてるの。樹を放って、どこにいるの)
双子は常に一緒だった。どちらかに用事があったとしても、どちらかが付き合うことがいつもの彼らだった。それなのに今日はどうだろうか。初めからおかしかったのだ。用事があるという薫を置いたのか、はたまた薫が置いていったのか、どちらだって同じだ。この双子が、放課後に別行動をするなんて。貴子は胸が締め付けられるように息が出来なくなった。残ったバニラアイスが溶けて地面に落ちたことにも気付かない。制服の胸のあたりを握り締める。
貴子の様子に気付いた樹は、慌てて彼女の肩に手を置いた。
「大丈夫? ……そろそろ帰ろう」
樹が貴子の肩を支えながらベンチから立ち上がる。貴子は樹に身を任せて歩き始めた。今日は家まで送ると、静かに告げた樹に、貴子はただ頷いた。
残された地面に落ちたアイスの周辺には、蟻が集まって来ていて、白が黒に染まっていく。その様を横目で見た貴子は、まるで自分の心のようだと自嘲した。
「ありがとう」
家に着いた頃にはすっかり苦しさは治まっていて、貴子は樹に礼を言った。
「いいんだ。……貴子ちゃん、体調が悪いなら、ちゃんと医者に掛かりなよ」
心配気な表情を浮かべた樹に貴子は笑う。大丈夫だと言うと訝し気にも樹は納得し、帰って行った。
家に入った貴子はふと和歌を思い出した。なんとなく気になって、貴子はあの和歌のことを調べ始める。そして調べた結果に愕然としてしまう。
「何が、哀しい恋よ……」
哀しいことなんて、なにもないはずなのに。貴子はすぐに布団に潜り込んだ。忘れてしまうことが一番だと考えたのだった。




