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『……て…… ……きて…… 』
声が聞こえる……。
『来て…… …わたしの……なかに……』
女の子の声、どこからだろうか。
『……来て……』
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「……きて…… 起き……て…… ……起きて……」
耳元で囁く声に頭が覚醒していく。
「ほら、早く起きて……」
段々と覚醒していく頭で考える、この優しく囁く 声が朝、可愛い女の子が優しく起こしてくれる声だというなら良かったのにと。
だが、ここは教室で今は授業中、そして今耳元で囁く声は可愛い女の子などでは無いという現実も、頭の覚醒と共に知覚していく。
「ほらほら、早く起きないと、先生に叱られちゃうよ」
尚も囁く声の主。
「……おい……」
「あ、起きた」
「一樹、お前なにやってるんだよ」
「何って、授業中に寝ちゃった幼馴染を優しく起こしてるんだけど」
幼馴染なんて言ってるが、こいつは男で自分も男、小柄で声は可愛いが男に起こされても嬉しくはないな。
「普段真面目なお前が珍しいな、ぐっすり眠っていたけど徹夜でもしたのか?」
「いや、昨日はちゃんと寝たんだけど、いつのまにか寝てたんだよ……」
「……小柳、植田、二人とも今が授業中だというのは分かってるよな?」
背後からかけられる教師の呆れた声。
その声に二人とも慌てて会話を打ち切る。
授業が再開され、教師の声と、黒板に板書するチョークの音、ノートに書き写すペンの音が聴こえる中で先程眠っている時に聞こえた声について考える。もちろん残念な幼馴染の声ではなく、どこからか聞こえてきた女の子の声だ。
あの『私の中に来て』とはどういう意味なのだろうか。
女の子の中にだなんてそんなエロい幻聴が授業中に聞こえてしまうほど自分の中の若い衝動が溜まっているというのだろうか。
そんなくだらない事を考えながら上の空で授業を受けていると、だんだんと……、また……、眠くなって……、ま……た……。
『……さぁ、私の中に、来てっ!』
・ ・ ・
水中を漂っているような感覚、これは夢なのだろうか、あの女の子の声はなんだったのだろうか。
ゆっくりと覚醒する意識、だんだんと意識がはっきりしていく内にこの水中を漂うような感覚は夢ではなく現実なのだと……、現実⁉︎
現実?なんで水中に?俺は学校で授業を受けてて授業中に寝てしまってそれから……。
なぜ水の中にいるんだ?目を開けて辺りを見回す。どの方角を見ても水の中だ。
いや、よく見るとガラスの水槽の……、違うこれは円筒形のガラスの菅の中に居るのか?とにかくここから出ないと窒息してしまう。
上も下も分厚い岩のようなものに阻まれて出られそうにない、目の前のガラスを叩いてみるが、ゴンゴンと鈍い音がするだけで割れそうにない、それでも必死に叩き続けるとやがて鈍い音とともにガラスが割れる。
「はぁ、はぁ、割れた……出られた……」
ガラス管から這い出し辺りを見渡す。うっすらと明かりの灯る室内は、四方を剥き出しの岩肌に囲まれている。
全く見覚えの無い場所なんだが、ここは何処だ?
薄明かりの中、部屋を見回し歩き出そうとすると身体に違和感が……。視点が低い、手が細い、肌が白い、そして……。
「胸が、ある……?」
男であればおそらく一生見る事のできない視点から見る女の子の胸。
「なんで胸が……、って言うか裸なんだ……?」
よく聞くと声も女の子らしい声に変わっている。自分の身体と周囲の状況が一気に変わりすぎて全くついていけない。
『ねぇ』
思考停止状態で固まっていると、何処からか声が聞こえてくる。
『ねぇってば、いつまで裸でいるつもりなの?』
辺りを見回しても声の主は見当たらない。
「えっと、誰?」
『貴方こそ誰よ?って言うか私の身体返してよ』
問いかけに答える声は頭の中に直接響いてきているようだ。
そして、この声は『私の中に来て』と俺に言ってきた声と同じだった。
「君の身体?」
『そうよ、貴方が動かしているこの身体は私の身体よ』
つまり気がついたら女の子になっていた、と言うわけではなく、俺の精神が誰かの身体の中に入ってしまったという事らしい。
『とりあえず早く服を着させてよね』
どうやら彼女は身体を動かすことが出来ないようだ。
「服って何処にあるの?」
『はぁ、場所を教えるから着させてよね』
彼女の指示に従い服のある所へ移動する。この岩肌剥き出しの部屋は地下に掘られたもので、上は木造の、しかし日本では見かけない作りの家になっていた。
俺は服を着ながら今に至るまでの流れを彼女に説明する。
『つまり、眠ってたら私の声が聞こえてきて、気がついたら私の身体の中に居たって事なのね』
とりあえずこちらの状況を理解してもらう事には成功したようだ。
『でも、私は貴方を呼んだ覚えはないんだけど……、それで、貴方の名前は?』
名前?そうか、お互い名前も聞いていなかったんだった。
「俺の名前は植田百合人だよ」
声が女の子なので自分の名前なのに物凄い違和感を感じるな。
『ウエダユリト……変な名前ね、この辺りに住んでる人ではないみたいね』
変わった名前、という事はここは日本では無いという事なのか?
「えっと、君の名前は?」
『私の名前はレイニア、レイニア・アンクレイブよ』
「レイニア……、それであの水槽の中で眠っていたのは何故?」
『それは……』
レイニアの話によると、彼女は徐々に身体が衰弱していく原因不明の病にかかり、段々と衰弱し、動けなくなり、死を覚悟しながら意識を失い、目が覚めたら水槽の中でしかも身体を乗っ取られていたとの事だった。
「つまりお互いこの状況になっている明確な理由が分からないって事か……」
『そうね、水槽の中に入ってたのは多分魔術師をやってるお兄ちゃんが魔術で私を治そうとしてたからだと思うんだけど』
成る程、レイニアにはお兄さんがいるのか、しかも魔術師の……、魔術?
「魔術って、何……?」
『貴方魔術を知らないの?魔術も知らずによく生活出来るわね』
レイニアが言うには魔術とは生活に欠かせないもので、日本での電気のようなものらしい。
『この部屋を照らしてる灯りは魔術によるもので、他にも料理や暖をとる時に使う火種や、トイレにも魔術が使われてるわ』
魔術なんてものがあるという事はここは日本ではないどころか全く別の世界、異世界という事になるのだろうか。
ファンタジー作品などでは良く見る異世界転生が、まさか自分の身に降りかかるとは。しかも女の子の姿になってしまうオマケ付きだ。
そんな事を考えていると、ふと気になることが。
「ところでこの家に鏡ってあるの?」
レイニアの指示に従い服を着終わったところで聞いてみる。
『鏡なら別の部屋にあるわよ』
彼女に案内されて鏡のある部屋へ移動する。そして鏡に写った姿を見て思わず息を飲む。
美少女だ、美少女が写っている。
大きな目、筋の通った鼻、薄く小さい口が形の整った輪郭の中にバランスよく配置されている。
鏡に写った美少女の姿に戸惑いつつ自分の頬に手を触れる。鏡の中の美少女も同じ動きをするので、この美少女は間違いなく自分(の精神が入ってしまったレイニア)だ。
鏡の前に立ち、元の世界の自分とは変わり果てた姿を眺めていると、ふと疑問が湧いてくる。
「そう言えばレイニアは病気で衰弱して、気がついたらあの水槽の中にいたって言ってたよな?」
『そうよ、それがどうかしたの?』
鏡に写ったレイニアの姿はガリガリに痩せているわけでもなく、肌も血色のいい健康そのものといった姿だ。
「見た感じ健康そのものだけど、病気は治ったってことなのか?」
『そうみたいね、お兄ちゃんが治療法を見つけたって事なのかしら』
自分の身体の事のはずなのに随分と関心が薄いような……。
その話の流れからもう一つ気なる事を確認する為、最初の地下室へ移動する。魔術による薄明かりの中、床に散らばる水槽のガラスの破片を見る。
水槽内の水圧に耐えるために分厚く作られたそのガラスは、到底水の中から叩いただけで割れるような物とは思えない。
「さっきは慌ててたから気づかなかったけど、レイニアってこの分厚いガラスを割れるほど馬鹿力なのか?」
『そんな訳あるわけないでしょ、私はいたって普通の女の子よ』
「じゃあ、このガラスを割ったのは無意識に魔術を使ったからとか?」
『いや、私にそんな魔術は使えないわよ、それに今私の身体を動かしているのはユリトでしょ』
レイリアの言う通り、今彼女の身体を動かしているのは自分で、魔術なんて物の存在しない日本からやってきた自分に魔術が使えるとは思えない。
「じゃあ、あのガラスが脆かったのか、レイニアが眠ってる間に身体能力が高くなったのか」
『どちらも考えにくい仮定だけど、病気が治るついでに強くなる、なんて事があるのかしら』
ガラスは見た感じ厚みが5cmくらいあり、叩いただけで簡単に割れるとは思えない。そうなるとやはりレイニアの身体に変化があったと考えた方が良さそうだ。身体を乗っ取られた上に身体能力まで変わってしまうとは、彼女の兄は一体どんな治療を施したのだろうか。
「お兄さんか……」
レイニアのお兄さんならこの状況について何か知っているかもしれないが、今この家の中には自分達以外の人間は居ないようだ。
何かお兄さんに繋がる手がかりでも無いものかと部屋を見回すと、部屋の端に机があるのに気づいた。机の上には大量のメモやノートが散乱している。
「これは……、読めないな」
異世界ではあるけど言葉は通じるので、文字も読めるかと思ったら全く読めそうにない。
『あら、読めないの?なら私が読んであげるわよ』
レイニアからの有難い提案。
彼女が読んでくれたメモやノートの内容を要約すると、レイニアの病気を治す為に色々試行錯誤するも、段々と衰弱していく彼女を救えない兄の苦悩、そして意識を失うまで病気が進行するも、どうにかあの水槽で生命の維持には成功した事、情報を集めている内に世界各地に似たような病気で衰弱していく人がいる事を知り、治療法を見つける為に旅立つ決心をした事などが書かれていた。
「つまりお兄さんは旅に出ていてこの家には居ない訳か」
『そうみたいね』
メモの中にお兄さんの旅だった日の日付も書かれているが、今日が何月何日かも分からない自分達にはこのメモの日付からどれくらい時間が経っているのか分かりようがない。
『んー、街に行ってみる?そうすれば誰かに今日の日にちが聞けるだろうからお兄ちゃんが旅立ってからどれくらい経ってるか分かると思うわよ』
「街か、一応病み上がりだと思うけど大丈夫かな」
『大丈夫なんじゃないかしら、家のなかを普通に歩き回ってるけど今の所は全然平気だし』
「じゃあとりあえず外に出てみようか」
レイニアの案内に従い身支度を整え家の外に出る。俺はレイニアの家は街か村の郊外にあるものと思っていたのだが、目の前に広がるのは一面の森だった。
「なんでこんな森の中に住んでるんだ?」
『なんでって、魔術師には森の中の方が都合がいいからよ。
魔術の研究とか、魔力溜まりの浄化とかにね』
「魔力溜まり?」
『魔術を知らないかと思ったら魔力溜まりも知らないの?
魔力溜まりというのは本来世界中を循環しているはずの魔力が1箇所に留まり続ける事を言うのよ』
「留まり続けると何か困る事があるのか?」
『そうね、魔力は循環し続けるか、魔石に……』
レイニアが魔力溜まりについて説明しようとした矢先に……。
「キャアアアァッ‼︎」
森の中から女性の物と思われる悲鳴が聞こえてきた!
「悲鳴だ!」
『行ってみましょう!』
悲鳴の聞こえた方角に向けて走り出す。
レイニアの身体は みるみる内に加速していき、車と変わらないくらいの速度で森の中を走る。
木々の間をとんでもない速度で走っているが、自分には周りの光景がスローモーションのように見え、木にぶつかる事なく走っていられる。
『ちょっと、なにこの速度、私ってこんなに速く走れたの?』
レイニアも驚いているという事は、元からこんなに速く走れたわけではないようだ。
水槽の分厚いガラスを割った事といい、走る速さといい、何より自分の精神が乗り移ってる事といい、レイニアの身体には何か大きな変化が起きているようだ。
そのまま少し走ると悲鳴の主と思しき女の子と、その女の子に襲いかかろうと構える車並みの大きさのタヌキの様な生き物が見えてきた。
『あれはモンスターね』
モンスターが徘徊してるような世界なのか、魔術なんてものもあるし、自分はゲームのようなファンタジーの世界にやって来たという事なのだろうか。
『随分大きなモンスターだけど、駆けつけてどうするつもりなの?』
「このまま突撃する!」
『え?ちょっと人の身体で何をするつもりよ⁉︎』
俺はレイニアの悲鳴じみた問いかけを無視して巨大なタヌキのモンスターに体当たりをぶちかました。
車並みの速度が乗った体当たりはレイニアの華奢な体格でも相当な威力があるらしく、タヌキのモンスターは木々をなぎ倒しつつ吹っ飛んでいく。
タヌキの方を警戒しつつ襲われていた女の子の様子を伺うと、突然現れてタヌキを吹っ飛ばした謎の人物に驚いているようで、へたり込んだまま無言でこちらを見ている。
何か声をかけた方が良いだろうか、かけるならどう声をかけたものか、と悩んでいるとこちらの体当たりから立ち直ったタヌキが逆襲とばかりに猛然と突進を仕掛けてきた。
しかし、先程走っていた時と同じように、突進してくるタヌキの動きはスローモーションのようにゆっくりとした動きに見え、こちらは突進を簡単にかわしつつ、逆にタヌキの横っ腹に強烈な蹴りを放つ。
再び木々をなぎ倒しながら吹っ飛ぶタヌキ。
そして、タヌキの突進をあっさり返り討ちにした謎の人物に声もなく固まってしまう女の子。
そりゃあ車程もある大きさのタヌキを蹴り飛ばす女の子がいきなり現れたら怯えさせるだろう。これ以上怖がらせないようになるべく優しい言葉をかけないと……。
そうして恐怖に固まる女の子と、どう声をかけたらいいか分からず固まる自分と、2人が暫く無言で見つめあった後、どうにかかけるべき言葉を思いついた俺はようやく女の子に向かって声を発した。
「えっと、今日って何月何日か分かるかな……?」
それは、ものすごく残念な問いかけだった。