遠山史郎
その時、室内に菫色のコールフラッシュが走った。周期は外線からのものだ。森を制して受話器を取り上げた大山は相手の声を聞くと、ゆっくりとうなずいた。
「実は今こちらからもお電話をしようと思っていたところです・・・はい。残念ながらおっしゃるとおりです。そうです。テミスがやられていますし、TARO全体にも毒虫が入り込んでいるようです・・・はい。実はソースもやられてますので・・・ええ、そうなんです。今バックアップテープをセンターから取り寄せる手配をしているところです。・・・ええ、JIROもです・・・はい、今のところは全くわかりません。え?」
大山の表情が複雑なものになった。
「ではその人が・・・そうですか。是非すぐに話を聞かせてもらいたいですね。そのPCも持参していただいて・・・わかりました。こちらでお待ちしております。はい? 榎本ですか。それは今は・・・いや、わかりました。ではお待ちしております」
大山が受話器をもどすと待ちかねたように石井が口を開いた。
「遠山さんでしたか」
「そうだ。すぐにこちらに来るそうだ」
「しかし、遠山さん、よく気がつきましたね。あの人たちは今テレビで駅伝どころじゃないでしょう」
「それがTAROにアタックして誤作動させた本人から直接電話があったのだそうだ」
「えっ、ハッカーですか」
三人はぎょっとしたように顔を強ばらせた。
「いや、それが少しちがうのだ。詳しくはこちらに来てから話すそうだが」
「そうでしたか。ところでさっき榎本のことをいわれたようでしたが」
「うん。遠山さんは榎本を呼んだらどうだというのだ」
石井の表情が微妙なものになった。大山が決定した榎本のチーム離脱に強く反対したという経緯があった。
テミスとコードネームで呼ばれるTAROのプロテクト・テミスの開発者が榎本だった。その新任先は会社にとってはTAROに匹敵する重要なプロジェクトで、なによりも榎本自身が参加したがっていた。それは石井も知っていた。しかしこっちのプロジェクトはどんなに大事を取ってもいい。石井は榎本を止め置くように執拗に大山に食い下がった。
しかし、大山は部長兼役員として経営全体をみなければならない、その苦渋の判断だと言われては石井も最後は妥協せざるを得なかった。
「榎本はテミスの最終バージョンが上がった時はもう抜けていたのですが、復元なら彼の力が絶対に必要です。この際ハッカーの手口なども突き止める必要がありますから」
「しかし、とりあえずはソースがあれば問題はないのだろう。念のためTAROのメインサーバーとの接続は断つことにして」
「接続はすでに断ちました。しかし全部を再生成するのは難事業です。部長。榎本を呼びましょう。今はどこか洋上にいるはずですが、自動繰船システムは順調に稼働していると聞いております。今なら彼も抜けられのではないかと思います」
「そうか。わかった。榎本を呼び戻す件は君に任す。社長にはわたしから承認を得ておく。彼の所在と現在の業務の進捗を確認したら、すぐに帰還の指示を出してくれたまえ。必要ならば外務省と国土交通省には遠山さんが手を打ってくれるだろう」
「はい」
その時、離れたブースから悲痛な叫びがあがった。
「どうしたんだ。小野田君」
ブースから小野田が出てきた。
「堺と柴田がふたりとも行方不明です」
十分もたたないうちに、遠山から電話がきた。
(辰巳の心配どおりだった。こうなったら辰巳にはとことん力を貸してもらうぞ。よく聞いてくれよ。これから二十分、いや十五分以内にそちらの警察が車で迎えに行く。あとは身柄を預けてくれ。使ったパソコンもCDもUSBなど全部持ってきてくれ。おそらく県警本部のヘリで桜田門まで飛んできてもらう。それからな辰巳。奥さんにも久君らにもこのことは絶対に洩らさないようにと言ってくれ。絶対にだ。こちらから改めて連絡するまでは外出も控えるんだ。いいか)
「危ないのか」
(可能性としてだ。詳しくはこちらに来てから言う)
「わかった。そうする」
そばの椅子にかけて父親の会話をじっと聞いていた久は落ち着いていた。電話が終わるなりこう言った。
「お父さん。お手柄かもしれないよ」
「どうしてだ」
「警官とランナーには気の毒だけれど、隠されたもっと大きな陰謀がこれで露見したのじゃないのかな」
辰己はそれがずばり当たっていたことを、その日のうちに知ることになる。