杉ビル
つい最近までは内装工事の関係者や引っ越し関係者の下見などで賑わっていたこのビルも、オープニングを一週間後に控えた日曜日は暗く静かだった。
大山茂は緊張した面もちで顔見知りの守衛に挨拶を返し、エレベータで二十五階まで昇った。塗料の匂いがまだ漂う廊下を独特の肩幅を揺するような歩きで進むと、ひとつの窓のない扉についている小箱に掌を当てた。
室の中にはふたりの男性とひとりの女性がいた。みな大山の部下で、男は次長石井と主任小野田、女はシニアSE森だった。三人はひとつの端末の前で頭を寄せて何かを語り合っていたが、大山の姿を見ると一斉に立ち上がって頭を下げた。
「部長。折角の休日をすみません」
「いや、構わない。緊急事態だ。みんな、こっちで話そうじゃないか」
大山はコートを脱ぎながら、打ち合わせ用のテーブルが置かれているコーナーに三人を誘った。
大山は中央に腰を降ろすと、真向いに座った小野田に電話の話をもう一度頼むと言った。
「TAROが何物かにアタックを受けました。今、三人で改めて確認したところです」
「どう反応したんだね」
「それがよくわからないのです。ということは、われわれの管理外のアプリが働いたということになります。わかるのはその時間だけで、午後二時二分十秒から八分十五秒までの六分五秒です」
「最初に知ったのは森さんだって?」
「はい。そうです」
長い髪をピンで留めている森が緊張した面もちで肯いた。
「あの時刻は森君がモニターしてました」
「そうか。で?」
「あの独特の低い振動音が聞こえたんです。最初は気のせいかと思いましたが、まちがいなくSXVがドライブされた音でした。休みの日でなければ聞き逃してしまうところでした。すぐコンソールでログを照会しましたが、結果は今、主任が説明された通りです」
「そうか。これは悪い予感が当たったようだ」
「と、いわれますと?」
石井が問い返した。
「みんな、ついて来たまえ」
大山は部屋を出て廊下を通り別の部屋に三人を導いた。
その部屋は北に面した部屋で直下は青山通りだった。ランナーがモノリスと思ったように外部からは黒曜石の巨大な立方体としか見えないこのビルも内部からみればそうではない。まだ机や備品が置かれていないために広々としているその部屋には窓が規則正しい間隔で配置されていた。
「ここから見えるはずだ」
大山は北側に面した窓際に皆を集めると壁のコントロールパネルを操作して、窓の透過度を上げた。そして吹きこんできた強い光線にいくぶん目を細めながら遙か下方にある一点を指さした。そこには手で掻き集めたように多種多様の車両が固まっていて、赤く点滅するランプがいくつも交じっていた。
「事故ですか」
「みんなは忙しくて知るひまもなかっただろうが、今日大学駅伝競走があった。わたしも見なかったのだが、娘の話では最終ランナーが絵画館のゴールを目指して走っている最中に、背中から蒸気のようなものを吹き出して倒れたらしい。まだあのとおりの騒ぎだ。小野田君から電話を受けた時、丁度臨時ニュースが流れていたのだが場所を知って、はっとした」
「え・・・まさか」
小野田が呻くように言った。
「そうだ。そのまさかを案じている。時刻が合うのだよ」
「背中から蒸気がですって。じゃ、いや待ってくださいよ。それじゃテミスは」*法と掟を守るギリシャ神話の女神。
小野田と森は弾かれたように窓から離れると、走るように部屋を出ていった。
大山と石井があとを追ってもとの部屋にもどると、ふたりはコンソールの前の椅子で放心したかのようになっていた。
「どうだ」
「テミスがやられてます。ということは部長のいわれたとおり、TAROがSXVを誤作動させた可能性が大です。テミスは十月の最後の金曜日に元木さんたちの立会いの下で最終バージョンをロックしたのですが、そこがこじあけられてスカスカになってしまってます」
「・・・ハッカーか・・・やられたな。仕方がない。テミスも含めてもう一度ソースからオブジェクトを作り直そう」
石井が呻くように言った。
「ちょっと待って」
大山が言った。
「ソースもやられているということはないのか」
「それは大丈夫でしょう。見ただろう、森君」
「はい。昼前ですが」
ハッカーはオブジェクト・プログラムと呼ばれる機械語を改竄することはあっても、熟練したプログラマーなら容易に目視判定ができるソース・プログラムにまで手を伸ばすことは普通はない。しかし、
「わ!」
森が叫んだ。
「やられてる」
「本当か!」
「ほら、見てください。お化けがびっしりです」
画面にソースが流されたが、ざっと見て半分ほどに意味不明の文字列が混じっていた。森は狂ったようにキーを叩いた。
「これも・・・これも! これもだわ! テミスだけじゃなくTARO全体が汚染されてる。ひどいー」
森は泣きそうな声でそう言った。
「JIROはどうだ」
小野田ははっとして大山の顔を見た。それを失念するほど動揺していた自分が信じられない、という表情だった。
「森君。JIROだ」
「はい」
森が激しくキーをたたくと、一瞬の間があって画面がJIROに切り替わった。そこで更にキーを叩いたが・・・
う・・・
誰かが小さなうめき声をあげた。
「全く同じようにやられてる・・・」
JIROというのはTAROのバックアップシステムで、浜松町にある杉電器東京本社の地下三階にある同型サーバーにあった。JIROは専用線でTAROに接続されていて、毎日定まった時刻に担当SEの手で内容が更新される仕組みになっていた。
「糞! なにからなにまで。一体何処の誰がどうやって」
小野田は涙を流さんばかりに悔しがった。大山は太い息をひとつ洩らすとゆっくりと口を開いた。
「それを突き止めるのはあとでもいい。われわれが今やらなければならないのは、システムを元にもどすことだ。ここはあくまでもクールにいこうじゃないか。テープからもどそう」
「そうですね。やむを得ません」
大山の言葉に石井は気を取り直してうなずいた。
「アーカイブセンターに連絡をして至急テープを取り寄せます」
「うん。持ってくるときは必ず護衛を同乗させるようにとつけ加えてくれ。もちろんこのことを口にしてはいけないよ」
「わかりました」
「われわれは最悪の事態に陥っている。考えられるだけの手を打とう。まず、ここにいる四人の理解を合わせよう。石井君、なにはおいてもテミスをロック前の姿に復帰させなければTAROは稼働が出来ない。そうだね」
「はい。技術的にも法的にも出来ません」
「そして、TAROを完全に復元するまでは、このビルと下で起きている事件を関連づけられるのは絶対に避けなければならない」
「そのとおりです。絶対にです」
「従って、XデイまでにはなにがなんでもTAROとその守り神であるテミスを完全復元させなければならない」
「はい」
「よろしい。テミスの最終担当は柴田と堺の二人だったな」
「そうです。柴田は国内のどこかを旅行中ですが連絡は携帯でつくはずです。堺は自宅待機ですので、わたしがすぐに招集をかけます」
「頼む」
小野田は自分のブースに走っていった。
「石井君、森君。すべてのソースを入れ替えてオブジェクトを生成し直すという非常事態だ。よほど慎重にやらないといけないのだが、メンバーはここにいるわれわれと柴田、堺だけでやる。石井君は小野田君とふたりで全員の明日からの作業スケジュールの組替えをしてくれ。秘密を守るということを全てに優先させる。われわれとプロジェクト幹部以外はここには立ち入ることのないように部屋と作業機材の割当てを変更してくれ。できるか?」
「やります。しかし口実が要りますね」
「こうしよう。知っての通り、この部屋とさっきの北側の部屋は、Xデイにはプレゼンテーションの会場となる。その設営日程が早まったというのがいいだろう。それを裏付けるため早めに設営に入るという情報を出すように、わたしがこれから遠山さんに報告をし、併せて善後策を購じることにする」