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暗闘  作者: 伊藤むねお
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大学駅伝競走

 その二日後の日曜日―― 

 東京では大学駅伝競走が行われていた。二、三日降り続いた冷たい雨が止んで、雲の合間には青空も見えレースにはまずまずのコンディションだった。

 レースは予想通り埼南大学が他を寄せつけずに終始リードを保ち、最終走者は完全な独走になっていた。ランナーは青山通りを東進し、外苑前交差点を素晴らしいスピードで走り抜けた。左折すべき青山一丁目の交差点がランナーの搖れる視界に入って来た。そこを曲がればゴールの国立競技場は遠くない。

 ――楽勝だな。これで親父はまた金が入るんだろうか。ほ、あの黒いビルはえらく大きいな。そうか、杉電器の新ビルというのがあれか。しかし週刊誌にも書いてあったが妙なビルだな。あ、昔のSF映画にああいうのがあったがなんと言ったけかな。なんとかリスじゃなかったかな・・・何階まであるんだろ。窓が見えないからよく分からないが、五十、いや六十はあるなあ。窓も看板もなんにも見えないけど。


 ランナーがアーサー・C・クラークの創出になるモノリスを思い出せずにいた時、辰巳は自宅の書斎にいた。月曜日の会議の資料を見ておこうと思ったのである。

 ITの分野は興亡が激しく、次から次へと新しい技術や用語が産まれてくる。先月専門誌が特集を組んだものが今月はもう流行遅れということさえある。おまけにやたらにローマ字略語が多く、同じ略で実はまったくちがった意味になっている。そのことに腹立たしい思いをするたび、辰巳は身の退き時を思う昨今だった。

 資料を出そうと手を鞄に触れた時、ティッシュパックなどを入れる外側の薄いポケットに硬い物が入っているのに気がついた。取り出してみると、厚みのある正四角形の茶色の封筒だったが、中身はサイズから想像したとおりプラスチックケースに収まったCDコンパクトディスクだった。

 辰巳の勤務する会社はIT業界では名の知られた商社で、自身、SEシステムエンジニアとして長いキャリアがありこの手の物は熟知していた。ラベルにはなんの記述もなかったが、ただひとつサインペンで書かれた柿の種に似た小さなイラストがあった。

 虫か?

 辰巳は二十年来の口髭に手をやり少しの間考えたが、PCを立ち上げるとそれをドライバに差し込んだ。

 それは職場の誰かが、多分若い部下が鞄に入れてくれた物だと思った。

 おおまかなところだけでも、休みの日に見て下さいと。

 もしも辰巳がそう思いこんでなければ差し込まなかったはずだった。なぜならばコンピュータ・ウィルスの存在である。次々と新種が現れるそれはワクチンソフトを常時更新していてさえ全く油断が出来ない。辰巳のように会社のサーバーに外部からアクセスを許されている者はとりわけ注意が必要だった。

 最初に出た画面はパスワードを要求する定型のものだった。辰巳は手慣れた素早いタッチでパスワードを叩いたが、叩いてから苦笑した。それは娘の誕生日から採ったもので、ここ数年、会社でも自宅でも低レベル用に使っているものだった。そのために反射的に指が動いてしまったのだが、意外にも画面は次の画面に移った。

 ――なんだ、ダミーか。

 このことが辰巳の警戒心を取り去った。やはり試作品なのだという思いこみが補強されたのである。

 ――誰だろう。

 こういうことをやりそうな何人かの部下の顔を思い浮かべたのだが、そこに現れた画面を見て辰巳はもう一度首をひねった。

 ――ほう。これは地図のようだが土木用かな。それをやっていたチームがあったが・・・

 辰巳の所属する部に、G県の水道局から依頼された地理情報専用ソフトの開発を担当するチームがあった。水道や下水を敷設する際の工数や工費を割り出すためのものである。

 ――しかしあれは検収が済んだはずだが・・・手直しでも要求されたのかな・・・だとしたら、これは地図が相当細かすぎる。こんなにしないで必要なものだけに絞った方がいいのだがな。

 ――ん? これは神宮外苑付近じゃないか・・・ここが国立でここが野球場だ、第一と第二・・・ということは、これはラグビー場だ・・・ほう? なんでこんなところを。しかし、そうだとして俺になにを見ろというのだ。

 辰巳が製作者の意図を計りかねていると、ツールバーの中の[ONーLine]ボタンが点滅を始め、いつのまにか棚の上のモデムのサインが点滅していた。何処かのサーバーに接続しようとしているのだが、高レベルのパスワードの要求がなかったのだから自社のものでないのは確かだ。辰巳の会社のSEなら自宅にサーバーを置いている者は少なくない。ひと世代古いサーバーなら会社ではただ同然で払い下げてくれた。

 ――誰だろ?

 辰己は少し緊張して画面を見守った。

 先方への接続が完了したらしい。だがそこでPCは動かなくなった。

 ――待機? いやエラーを食らったかな。

 そう思っていると急に何かが変わった。どこが変わったのかと眺めると、中央を左右に走る広い道路に無数の点が現れ、それが蟻のように連なって動いている。

 ――地図から動画になった?・・・これは・・・え? 車か? 動いているじゃないか・・なんのために動かすのだ・・・。

 他の道路も同様だった。

 辰巳は眉間に皺を寄せて暫くそれに見入ったが、ポインターを画面上に這わせてみると、中央の大きな交差点の所でクリッカブルのサインが出た。誘われたようにクリックしてみた。すると、ひとつのクリックごとに拡大されてゆき、道路を走る点が車を表しているのだということがはっきりとしてきた。ネット上に公開されている地図情報と同じやり口である。

 ――これは凄い。

 辰巳は車の動きの精緻さに総毛立つほどの興奮を覚えた。ついで先ほどからあったもうひとつの違和感の正体がわかった。拡大して分かったのだが、それぞれの建物の屋上に付加造作、つまり給水塔や広告塔までが現れたのである。

 ――これは実写をCG化したものか? どうして屋上の造作などを入れる必要があるのだ・・・としてもこれは相当に高い位置からの俯瞰だが・・・人工衛星からの映像か・・・まさかな・・・? どこかのサーバーからもらったのか気象庁や防衛省の・・・いやそれこそがまさかだ。それならもっと複雑なパスワードを要求をしてくるはずだ。

 辰巳の驚きはそれに留まらなかった。更によく見ると歩道にも動く点が有った。

 ――?・・・歩行者か?

 速いもの遅いもの立ち止まるものUターンするもの、衝突しそうになって慌てて左右に進路を変更するもの。動きはまさに人間のそれだった。

 ――なんなのだ、これは?

 ツールボタンの並びを見ると、いつのまにかFOCUS、SHOTという馴染みのないコマンドが現れていた。

 ――SHOT? 一体なんのソフトだ? それとも、ゲームなのか・・・いやそうじゃないな。

 中央の交差点が青山一丁目の交差点であることはわかっていた。その角に位置するひときわ大きな長方形がなによりの証拠だった。それは建設業界だけではなくIT業界でも話題となっている杉電器の新ビルで、十二月一日がオープンだと報じられていた。

 眺めている内に車の列が妙なのに気がついた。渋谷方面行きの片側は車が詰まっているのに対して、反対側は車が疎らだった。あたかも交通規制が為されているかのように。

 何かのパレードか?・・・

 辰巳は完全に心を奪われていた。

 パレードの先頭は交差点を左折し競技場の方に向かっていたが、その時、[FOCUS]の輝度が増した。辰巳が誘われたようにそれをクリックすると、+マークがポインタの先端に現れた。それをドラッグして、ほんの何気なくまさに何気なく先頭を行くふたつの点の左の方にマークを置くと点は赤変した。

 辰巳ははっとしてマウスから手を放した。そのとき、ほんのわずかにマークがうしろの点に移ったから・・・

 ――今マークがひとりでに動いた?・・・[SHOT]ボタンが点滅を始めてる。

 辰巳は接続を絶つべきか見守るべきか。加熱された好奇心と、このときになって漸く働きだした理性の狭間で辰巳は手をこまねいてしまった。[SHOT]は辰巳に決断を迫るように点滅の周期を短くしていった。


 先導の白バイに乗る笹山巡査長は明治絵画館の広場が見えて安堵した。国立競技場まではすぐだ。

 駅伝の先導は初めての経験だったが、要人の乗るリムジンの先導とちがって予め交通規制が敷かれている上に速度もエンジンのオーバーヒートが心配なほどに抑えている。狙撃者が飛び出してくるというようなことはありえないから、アテネオリンピックであったような熱狂的、狂信的なファンが飛び出してくるのを警戒していればよかった。犬好きの笹山巡査長が密かに期待をしていた犬が出てこなかった・・・

 ――案外なものだな。一緒に走り出した犬を白バイの警察官が手を伸ばして掬い上げました。これは珍しい微笑ましい光景です、なんてな・・・おっ、ここらでラストスパートに入るのかな。

 巡査長は右を走る同僚をちらりと見て、次にはうしろのランナーをミラーで見た。すると鏡面に奇妙な光景が映った。

 ランナーがたすきを外して苦しげに背をよじっている。

 ?

 巡査長が軽くブレーキを踏んで減速すると、ランナーは白バイに救いを求めるように両手を伸ばして接近し、前のめりに転倒しそうになった。

 ――どうした・・心臓発作か? うっ!

 自身が背部を撃たれたような衝撃を受けてのけぞってしまった。白バイは舗装道路のコンクリートを削りながら横に倒れ、巡査長はランナーを背負ったまま路上に転がり落ちた。うしろに続く関係者を乗せた車両が一斉に急ブレーキを踏んだ。

「黒木が倒れました! 先導の白バイの警察官もオートバイと共に倒れました。折り重なった黒木と警察官の体から煙のような、いや、蒸気のようなものが上っております」

 アナウンサーが絶叫し左右の小旗の壁が叫喚と共に崩れた。

 ランナーの父親でもある黒木雄吾監督は回りを囲む報道陣を意識して、タバコをこらえながら大スクリーンでその様子を見ていたがその光景に目を剥いた。やがて状況がわかると、目の前のカメラの存在も忘れ、拳を振り回しながら罵りの言葉を口から吐き出した。

「どこのアホが湯タンポを投げつけやがったんだ。警備はなにをやってるんだ。馬鹿野郎」

 この光景を見て驚いた怒った悲しんだという人は何十万といただろう。しかし、それを大喜びをした人間がひとりだけいた。

その男は心底愉快だったらしい。生まれてからこんなに愉快なことは初めてだというように、丸々とした掌を打ち合わせながら笑いに笑った。


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