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暗闘  作者: 伊藤むねお
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エピローグ

 伊能は鴨原の手帳以外にも、じつは佐野たちが駆けつけるわずかな間にヒトマロから取り上げたリストの中身のすべてを携帯のカメラで写し撮っていた。そこに、あるいは奇妙な刺客の正体を知る手掛かりがあるかもしれず、鴨原に手帳を返す折に相談してみようと考えた。


 一方、遠山はなんらかの形で伊能に謝礼をしたいと申し出たが伊能は固辞した。伊能は、杉ビル内部でプログラム復元、堺、榎本の説明、官僚が聴取、再確認してGO。それを現場立ち会いで見たことが最大の謝礼だとした。遠山が父、敬一を訪れたことについては伊能は聞かなかったし遠山も触れなかった。


 しかし譲れない遠山の強い懇請で、伊能は食事を奢ってもらいましょう、ということになった。

 そう言ったあとで伊能は、こちらにもお願いがあるのですが、と悪戯っぽく笑ってこうつけ加えた。

(堺さんにはもう危険な仕事はさせないでください。また妹さんに朝駆けをされてはたまりませんから)

(ははは済まなかったね。でももうその心配はないよ)

 当然ながら面が割れた男を二度とGメンとして使うことはできない。堺公人は科捜研に異動しサイバー部署で技術を活かすことになっていた。


 その少し前、遠山は伊能の勤務先の本社を訪れていた。大学のテニス部の後輩だった人事担当役員と会うためにである。

 遠山はこれまで伊能との約束を忠実に守って、伊能のその後は一切追求せずにいた。しかし今回の一件での伊能の凄まじいまでの働きや、鴨原の受難に見せた激越ともいうべき反応などから、ひょっとして荒い世界に手を染めているのではないかという一抹の不安があった。


 その後輩役員の語るところによれば、伊能は職場の外では一切人との交わりを持たず、徹底した寡黙を通すことから同僚、上司からは〈神秘の男〉と称されているという。しかしながらその超伝導研究に対する情熱と実績はだれもが一目置くものだということだった。

(そうか。エレクトロニクスをやるといってたが立派に実現させていたのだ)


 担当役員がふと思い出したように顔をほころばせた。

(この前、なにかの用事で彼が本社に来たのですが廊下ですれちがったとき、彼の方から、『遠山史郎さんとは最近も一緒にプレーをなさってますか』と声をかけてきたんです。いやあ光栄でしたよ。彼から個人的な話しかけをもらうなんて、うちの社長だってないのじゃないですか)

 担当役員が笑いながら披露したエピソードに、遠山は首をすくめざるを得なかった。伊能は遠山の行動を読んで先手を打ったのである。これ以上自分を追求してくれるなと。


 ――スポーツは? ほう、バスケを。で、どの程度に? インターハイで優勝! それは凄いなあ。スポーツはいいよねえ。実は僕もね、自慢じゃないが、東大時代はテニスをやっていてね。三年先輩で今警察庁の刑事課長をやっている遠山史郎さんとはダブルスのペアを組んでてね、結構いいとこまでいったんだよ――。

 入社面接のときに聞かされた自慢話をしっかりと覚えていたことになるが、思いがけないところで遠山の名前を聞いた伊能が忘れるわけがない。



 会食は二人だけはなく堺公人、剛、静子をも加えた。これが伊能の要望だった。遠山は二人でと思ったのだが伊能の気持ちはよく分かった。

 遠山を前にした堺は少し堅くなっていたが、静子は、遠山さん、伊能のお兄さん、と屈託なく呼びかけ、学校のこと、近づいているバスケットの冬季大会の話をあれこれ面白く語った。伊能と堺はNBAの今期の各チームの活躍について花を咲かせ、楽しい弾んだディナーになった。

「伊能君は高校時代はマイケル・ジョーダンのような大スターでね。バードとまでいわれた凄いジャンプ力だったよ」

 遠山が昔の話を披露すると、堺兄妹は目を輝かせてそれに聞き入ったが、伊能が身の置き所がないほどに照れ、そこでまた楽しい笑いが生まれた。

 そんなこんなで楽しいディナーだったのだが、食事の中ほどでこういうひと幕があった。

 調味料に手を伸ばした剛と静子の手が交錯し、その弾みで静子の手が卓上のオレンジジュースのグラスに触れて倒れかかった。中の液体が白いテーブルクロスを黄色く染める運命はもはや誰にも変えがたかった。恐らく、ここから助かったグラスとテーブルクロスは史上ただの一個も一枚もなかったにちがいない。そう言い切っても異を唱える人はいないだろう。

 ここで歴史に新しい記録が刻まれた。液体が流れ出す一瞬前にグラスに手が現れた。それは文字通り、つまり辿り着く過程を省略して忽然と現れたのである。

「おっとっと」と、手の持ち主は少しおどけた調子で掬うようにグラスを持ち上げると、空中で巧みにスイングさせ波打つ小さな液面をたちまち宥めてしまった。

 ふた呼吸ほどおいて静子が、「すごおい」といいながら手を叩くと、伊能は、

「危ないな、と思って見ていたものだから」

 と恥ずかしそうにグラスを元の位置にもどした。

「気をつけなくちゃ」

 堺は弟妹をそうたしなめた。


 しかし堺と遠山にとってその夜のディナーは、それっきり料理の味がわからない不思議なものとなった。ふたりは全く同じことを思っていたのである。

 おれたちは詰まるところ、グラスとテーブルクロスだったのか。       

                       了                    


ありがとうございました。お口にあいましたでしょうか。伊能シリーズは続けます。近いうちに。

それでは失礼いたします。

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