事件のはじまり
翌日――
帰宅ラッシュが始まった世田谷の学園駅は利用客で混雑していた。その改札口から続く長い地下道をひとりの男が三人の男を従えて走っている。先頭を走る男のトレンチコートの裾が激しくなびく。
ただし、彼らはランニングを嗜む同好の士ではない。前のひとりをうしろの三人が追っているのだ。追う三人はお揃いの制服を着ていた。
大人が革靴を履いて全力疾走するという光景は見る者に不安を与える。行き交う通行人は小さな悲鳴を伝えて次々と左右の壁に身を避けた。
「待ちなさい」
「待てー」
という大きな声がうしろの三人から発せられたが、先を行く男の走力はいい。追手との距離は詰まらず、彼らの声はすぐに「すみません、誰かあ」という応援を求める声に変わった。
この依頼は追手が冷静であることが前提ではあるが、逃げる男が凶悪犯ではないことを意味している。刃物を持っているような凶悪犯だった場合は利用者に安易に協力を求めてはならない、とマニュアルに定められてた。おそらくは定期券の不正使用かポスター泥棒程度の微罪(?)なのだろう。
世の中のというものはまことに不思議なものである。その微罪男のランニングが多くの男達を、その何十倍もの必死さで走らすのだ。
ここに逃亡者とすれちがう歳の頃は五十半ばで鼻下に髭を蓄えた男がいた。その男は度胸が据わっており、他の人のように硬直もしなければ壁に身を寄せることもしなかった。すれ違いざまにひょいと足を出すと、がごっという複雑な音と共に逃亡者は頭から先にコンクリートにのめっていった。
しかし不測の事態が生じた。足を出した義侠心に富む男がその場に尻餅をついてしまった。遅れて着いた駅員ひとりが帽子で汗ばんだ顔を仰ぎながら、座り込んでいる協力者に声をかけた。
「ああ、暑いー。どーもすいません。助かりました。大丈夫ですかー立てますかー」
協力者は鍛えこんだらしいがっしりとした体躯を持っており、なにかの道徳心を発揮させた。逃亡者は額と掌に血を滲ませてうなだれたまま両側から駅員に挟まれて駅事務所にもどっていった。
「肩を貸しましょうか」
そう言って手をさしのべた駅員ははっとした。協力者の額に脂汗が滲み、顔色が灰のような色に変わっていたからである。協力者は座り込んだままの姿勢で、蝿取り紙にくっついたように藻掻きながら体の下のコートのポケットから携帯電話を取り出した。しかしそれはふたつに割けていた。転んだときに腰骨で潰してしまったのだろう。それを見た協力者は恐ろしいまでの舌打ちをした。
「おい、電話」
貸してくれ、という意味のようである。
その語調のただならぬ必死さと乱暴さに駅員が慌てて私物の携帯を渡すと、男はいったんは手に取りかけたがすぐに首を振った。
「これは、いい。あそこの公衆電話を使うから肩を貸せ」
そう言って駅員の肩に手をかけて立とうとしたが、途端にまた激痛に襲われたらしく、再びその場に倒れ込んでしまった。
「足ですか。あれええ、ぽっきんといっちゃったかなあ」
協力者は脂汗にまみれた額の下の目をかっと開くと、憎々しげに駅員を睨んだ。
「ま、待っててくださいね。今、応援を呼んで来ますから」
駅員はまずいことを言ったと悟り、掴まれていた袖をふりほどき逃げるように事務所に走っていった。
二階橋、網、川、田んぼ、蛙・・・・鼓。せり上がってまた橋にもどる・・・。
電車が表参道駅を発って間もなくだった。自分の両手に目を落として、あれこれと思案をしていた辰巳祐二は自分に注がれている強い視線を感じて何気なく顔を上げた。
目の前に濃いサングラスをかけた長身の男がいた。窓越しに走り去る地下道の暗い側壁に視線を向けているように装っていたが、レンズ越しに辰巳を見ていたのはあきらかだった。
なんだ?
辰巳がその男を見返すと、男はついと視線をそらし黒っぽい丈長のコートの衿を立てながら身を退くと、するりと他の乗客の間に紛れて姿を消してしまった。
――だれだろう。俺を知っていた人か。
辰巳は口髭に手を当てて考えたが心当たりは浮かばず、その男のことは忘れることにした。実際、電車が永田町駅に着いて席を立った時にはすっかり忘れていた。
半蔵門線ホームから有楽町線、南北線のフラットにつなぐ三本のエスカレータの長さは首都圏屈指のものである。今の時間帯は下り客が多いということか、三本の内の左端一本のみが上りで他は下りにセットされていた。
ダブルワイドのエスカレータはいつから出来た習慣なのか、右側は機械の働きに満足しない人々のために使われた。辰巳も五十も半ばを過ぎた今は、老化防止という強迫観念に衝かれてそこをせわしなく登り下りするのだが、その日は従順に左側を選んだ。先ほどからの考えごとに熱中するあまり足を動かすのも大儀だったのである。
――・・・どうして蛙にならないのかといえば、糸の交錯が違うからだ。もうひとつかふたつ、あいだに何かが入るんだ。似たようなものがもうひとつあったような気がするが、思い出せないな。降参して正ちゃんに聞いてみるか。
辰巳の思考が姉の正子に移った時だった。すぐ下の段にいたらしい男が、ついと右に出た。その時どこかが辰巳の体に接触したのだが、それが偶然出会った知人が自分を気づかせるときにやるような恣意的な当たりだったので、辰巳は視線を上げて登ってゆくその男を見た。そして首をかしげた。
――・・・さっき電車の中で俺を見ていた男だ・・・前の駅でおりたのじゃなかったのか・・・
サングラスの男は軽々とステップを踏むと人の列の中に消えてしまった。それは十一月の第四金曜日のことであった。




