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暗闘  作者: 伊藤むねお
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バスケットボール

 伊能は用心のためにひとつ手前の駅前でタクシーを下り、そこから再び電車に乗って自分の駅まで行った。

 駅の改札口から吐き出された通勤客が、東西の出口から煮こぼれたように路上に溢れ、それぞれ家路につく。

(ホームから落ちたらしいよ)

(へええ)

(丁度電車が来て即死らしいな)

(くっはああー)

(この寒いときに困るよ)

(まったくだ)

(なにも、俺たちの帰る時刻に合わせてやらなくてもなあ)

(もっと早めにな)

(あるいは遅くな。少しは考えないものかねえ)

 今日の電車の遅延を、白い息を吐き出しながらこぼし合う集団がいくつかあって、伊能は苦く笑った。

 伊能の住まいは北東の街と呼ばれる区画にあった。

 団地は三万世帯を超える大規模なもので人口は五万に近い。地下鉄の駅も南北にふたつある。地方ならこれだけでひとつの市であろう。地上には並木を植えた二本の広い幹線道路が十文字に通っているが、街はその道路を境として四つの街に分かれていた。それぞれ北東区、南東区、北西区、南西区と呼ぶ。

 伊能は北に向いていた足をふと東に変えた。それは尾行者を炙り出すいつもの手なのだが今夜は別の目的もあった。北東区は大小の公園が多い区画だが、その東端を流れる人口河川の土手際に広い運動公園があり、中にバスケットボールのコートがあった。伊能はそこに行きたかった。

 塗料が落ちて荒れた木肌がむき出しになったボードにネットのないリング、という寂れたものだが、その高さやサイズは正規のものだった。

 今夜のように心身に残った澱みを掻き出すのにはいつも苦心するのだが、青春時代に体に染みこませたバスケットボールの感覚を呼び戻して、そこにいっとき浸るという方法はなかなか有効な浄化手段だった。

 時刻は九時半を回っていたが、都心からもどってくる人や出迎えの家族たちで歩行者は少なくない。落葉して樹形が露わになった銀杏の並木と交互に立っている背の高い街灯が夜道を黄色に照らしており、女性の一人歩きが未だ許されるほどの明るさも人の気配も十分にあった。

 しかし、この寒い時期である。もう誰もいまいと思っていたコートに今日は先客がいた。伊能は公園の縁に植えられたマテバ椎の陰で足を止めた。

 ゴールの正面、フリースローラインの辺りに小枝のようにひょろりとした体型の少女がひとりいた。少女は両手を開いて顔の前で止め、ぱっと伸ばす動作を繰り返している。伊能は少女の動きを凝視するとともに、呼吸を押さえて周囲の気配を探った。

 ――さっきので今年のアタックは終わったとは思うが・・・

 このような穏やかで無垢な光景を目にした時、伊能はほぼ反射的に警戒心を浮上させる。安穏、無垢こそは連中がもっとも好機とみる舞台だ。しかし、すぐにその警戒は解けた。罠はないということが確信できたのである。伊能は己の五感には絶対的な自信があった。それがいつまで維持できるかはわからないが、それはテキも同じことなのだ。

 深く曲げられた少女の肘が、ほんのわずかの停止のあと、すっと上空に向かって突き出された。手首が返り、体型から想像できた長い指が前に伸びて、柳の枝のように柔らかく垂れた。

 少女が身につけている赤いトレーニングウエアは、団地の中にある四つの中学校の内のどれかのものである。

「外れた」

 伊能が呟いた。

 少女はフォームのチェックを終え、足下から革製のボールを取り上げると姿勢をもどしリングに向かって放った。

「右に曲がる」

 ボールはリングの右前に当たり斜め横に弾んで落ちた。少女は走って拾いに行き、ドリブルをしながらもどりかけたその時に、右手の闇の中に立つ伊能の姿を目にとめた。

 少女は少し驚いたようだが、半ば怒ったようにくるりと伊能に背を向けると、ボールを拾い上げた地点からもう一度同じ動作をくりかえした。

「短い。もどる」

 今度は聞こえるほどの声で言った。ボールは伊能の言葉が引きもどしたかのようにリングの手前に当たり、元の位置に弾んでもどった。少女はボールを拾うと恐れげもなく伊能のもとに近寄り、下から睨んで口を開いた。

「おじさん。ロリコン?」

「おじさんではないし、ロリコンでもない」

 ふうん、と両手を腰にあてた少女は、さあてどう反撃しようかと思案に入った。が、すぐに伊能の長身からヒントを得たらしい。

「うまいのね」

「たぶん、君よりはね」

 少女は、君、と呼ばれたことで少し心が緩んだようである。

「じゃ、やってみせて」

 伊能はうなずき、コートを傍の鉄棒に掛けると歩み寄って少女からボールを受け取った。そして二、三度膝の屈伸運動をすると、その場から無造作にワンハンドでシュートを放った。

 ボールは大きな弧を描いてネットのないリングをくぐり、下の固い地面に大きく弾んだ。

「わ、うまあい。三点シュートだわ」

 少女は驚いたようである。素直な歓声をあげ走ってボールを拾うと、伊能を振り返った。

「もう一度やってみせて」

 伊能は渡されたボールをすぐシュートを放った。結果は同じだった。

「すごおい」

 少女は両手を合わせ伊能を振り返った。

「ダンクも出来る?」

「できるよ」

 伊能は滑るように走ってボールを拾うと、ダンという強いドリブルをひとつしてリングに近より、ばねで弾かれたような勢いで宙に体を浮かせた。

 地上十フィートのリングの上に肘が出るほどの高さから強烈な手首の力で地面に叩きつけられたボールは、バムという音とともに大きく跳ねた。

「わわわわわ。すごおい」

 少女はボールを拾ってもどって来ると息を弾ませて言った。

「お兄さん。NBAみたいね。わたしダンクを初めて見たわ」

 おじさんはごく自然にお兄さんになっていた。伊能は口元を緩めた。

「きみは中学生だろう。ボールは大人用だが」

「一年生よ。ボールは兄からもらったの。練習にはこれを使った方がいいって」

 少女の、兄といういい方には好ましい躾が感じられた。

「そうか。お兄さんはいい先生のようだ。どうりで形ができている。ボスハンドは難しいのだが、きみは両手のバランスがとれているし膝の使い方もいい」

「ほんとう?」

「ほんとうだ」

「嬉しいわ。でもお兄さん。凄いジャンプ力ね。あんなところまで体が上がるのね」

「昔ほどじゃない」

「そうなの? 兄に見せたかったわ。兄も昔はずいぶんうまかったらしいのよ。でもダンクは出来なかったって。あと十センチ背が高ければ出来たのにっていつも言うのよ。でも、お兄さんのようなジャンプ力がなければ無理よね。お兄さんは身長いくつ?」

「八十八だ」

「兄は七十八だから、ちょうど十センチちがうわ」

「そうか。お兄さんはいくつ? 歳だよ」

「二十六よ」

「堺静子さん」

 少女は目をぱちくりさせた。

「どうしてわたしの名前を知っているの」

 その声には警戒する響きが現れた。

「ボールケースにネームプレートがついている」

「なあんだ。びっくりしたわ。でも、ずいぶん目がいいのね」

「鷹の目と取り替えたんだ」

「鷹って、この?」

 少女は両手を広げて飛ぶまねをしてみせた。

「その鷹だ。ときに」

 伊能は少しためらいをみせた。

 ――俺ってこんなにおしゃべりだったか。

「君のお兄さんは濃い緑色のショルダーバッグを持ってないか」

「持ってるわ。会社には毎日それを持っていくの」

 少女はそういってから、なぜ知っているのかと用心深そうな表情になった。

「どうして? どうして兄のことを知っているの。お兄さん、本当はわたしの家のこと知っているんでしょう。そうでしょう」

 伊能は、さきほどから少々自分が調子に乗りすぎているのを感じていた。子供とはいえ会ったばかりの人間に対してこんなに自分をさらけ出すのはここ何年もなかったことだ。ロリコンでは困る。しかし小手先のだましは止めることだ。

「君と似ている人を思いだしたんだ。たまに駅で会う。君を見たときに、どこかで見た顔だなと思ってヤマカンでいってみたんだが、まぐれで当たってしまったというわけだ」

「へえええ」

 静子は強ばった表情を解き目をくるくる回していった。伊能のまっすぐな気持ちが伝わったようである。超人的な跳躍を先に見せたのも効いたのだろう。

「兄と似ているなんて、子供の頃はよくいわれたけどちょっとショックだわ。ひと回りちがうのよ」

「鷹の目は雀の兄弟さえ見分けられるんだ。ときにお兄さんはどういうお仕事」

 鉄棒からコートを取って袖を通しながらさりげなく聞いた。

「コンピュータのシステムエンジニアよ」

 伊能は少女の答えにほんのわずかながら躊躇いがあったのを感じた。よその人にはそう言えと教えられているのではないか。

 伊能は会うたびに、緑色のショルダーバッグを持つ青年はなぜか正体を隠していると感じていた。だから記憶に残っていた。だが、それはこの少女に言うべきことではない。


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