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暗闘  作者: 伊藤むねお
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ふたつの闇

 厳粛な雰囲気には寒さが必要である。明るさもほどほどがいいかもしれない。幸い、十一月の夜とあって、この広場はその条件が完璧にそろっていた。

 中央に二人、そしてそこから少し離れたところに合わせて十人ちょっとの男どもがいるのだが、誰も身じろぎをせず、白い呼気も小鰯ほどの遠慮深いものになっていた。


 色鮮やかにはためく星条旗が右下がりに拡大して青地に白星の部分が中央を占めると、白星たちは四方に散って、たちまちのうちに冬の星座を作った。オリオン、牡牛、大熊、小熊その中に北極星、ペガサス、カシオペアなどである。星座たちは北極星を中心に緩やかに回転していく。

 夜空が下方から白み始めると星座は光の中に淡く溶けて消えて、暁暗の空と大海原の光景となった。

 海が大きなうねりを見せると水平線の中央に一点の光が現れた。そこから矢車のような光芒が四方の海面に広がり、光点はせり上がってたちまちのうちに燃える日輪となり、その上昇に合わせて海の色と大気の色が溶けて舞った。

 だれかが少し息をもらした。

 やがて、日輪はゆらりと海面からちぎれて浮揚し、海原は役目を終えて下方に消えた。

 放射状に広がっていた光芒が消え、日輪が縁取(ふちど)りも明瞭な深紅の真円となる。そこで天空の外縁から横長の長方形の枠が現れ、五対三の比率を保ちながら円を中心として正確に縮小し、円の直径が縦幅の長さの五分の三になったところですべての動きが停止した。

 日章旗である。

「来ます。さん、にい、いち」

 三十センチほどの高さの台上で、彼と並んで立つダークスーツに身を包んだ肩幅の広い男が白い呼気と共に囁いた。

 日の丸の赤が怒ったように強く光ったと思った瞬間、彼は吹かれたような熱さを顔に感じ反射的に横を向いた。しかし熱風と感じたのは一瞬のことで、目を再び正面にもどすと、そこにはもう日章旗はなくひたすらに穏やかな海原の青のみがあった。


「おわりました」

 男が恭しく囁くと声ならぬさざめきが広場の闇から湧いた。

 彼が顔からゴーグルのような大きな眼鏡を外すと、周りを取り囲んだ男達も一斉にそれにならった。

「いかがでございましたでしょうか。少々強過ぎたのではございませんか」

「大丈夫です。フロリダの太陽はもっと熱いでしょうから」

 問いに対し、彼は特徴のある柔らかな抑揚で応じた。そして台をおりると十メートルほどうしろの暗闇で待機していた五、六人の男達に包まれるようにして闇の中に姿を消していった。

 残った男どもは最敬礼をもってそれを見送ったが、やがて肩幅の広い男が携帯電話を口に当てると静かな、しかし喜びに満ちた声で言った。

「上首尾だった。ご苦労さん」



 同じ時刻、メトロ線の駅ではフロリダの太陽とは違う状況が生まれようとしていた。

 振り向いたその白髪交じりの男の表情は、なぜだと語っていた。

 その目には先ほどまで周りから軽侮と顰蹙をかっていた泥酔漢の澱みはなく、研ぎすまされたナイフのような凶暴な光があった。しかし外れた肉体は慣性の法則に従いホームの端から出たがっており、不幸なことにその体を目がけて強力な光を放つ二つの目が鉄の音と共に猛烈な勢いで接近しつつあった。

 ホームにいる人々の胸郭を圧する重い警笛が続けざまに鳴らされ、胸が悪くなるような鉄の擦れ合う音が広がった時、男は掛け値なしに切実の極みにおかれ藁にもすがる思いで手を伸ばし、つい二秒ほど前までは立場が逆になるはずだった長身の男に助けを求めた。

 仕立てのいいダークグレイのコートを着たその男は、素早く手をさしのべた。しかし一瞬の差で手は空を掻き、体の重心は完全にホームの外に移ってしまった。

 跳べ!

 誰かが言った。

 聞いた男は最後の賭けに転じた。崩れた外見からは想像できない鋭い跳躍を示し、その体は線路の向こうの玉砂利まで行くかと見えた。

 しかし、電車の速度がわずかに、結果としては十二分にまさり男の体は鉄塊が持つ仮借のない打撃によって線路に叩き落とされ、あっという間に鉄輪の下に消えた。

 ひときわ大きな鉄の擦る音にゴロゴロという奇怪な音が混じり、ホームにいた数十人の男女が一斉に魂消るような悲鳴をあげた。

〈業務連絡、A線にて人身事故発生。入場停止、入場を停止してください〉

 ホームのスピーカから興奮した声が響き渡ると、お揃いの帽子を被った男たちがわらわらと集まってきた。


「あの人は」

 目撃者として招き入れられた会社員らしい二十代後半の男性は、まだ顔が青ざめてはいたが、こういう場合の発言には慎重であらねばならないことを(わきま)えていた。ネクタイを締め直すと言葉を選びながら話し始めた。

「泥酔といっていいのじゃないですか。足がふらついてましたし。誰彼なしに絡みながらあっちから」

「池袋方面から?」

「そう、やってきたんです。よくいるじゃないですか。意味不明の演説や怒鳴り声をあげながら歩く人が」

「ほう、いるんですか」

「いますよ」

 会社員は、相手のノリの悪さにそれとわからないほどに顔をしかめた。

「でも、ああいう人ってどんなにふらふらと歩いていても、不思議と線路に落ちたりはしないんですよねえ」

「そういうものですか」

「そういうもの、というわけじゃないでしょうけど」

「それで?」

 会社員はこっそりと舌打ちをした。これが仕事なんだろうが、いやなやつだな。

「でも、電車が入ってきてあの人の方に寄っていった時には、あっと思いましたね」

「あの人って、アノ人ですね」

 刑事は心持ち声を抑えて、部屋の反対側の隅でやはり事情を聞かれている長身の男をちょっと指さした。

「ええ、そうです」

 会社員も少し声を潜めて答えた。

「あの人、どうしてました」

「ずっと見てたわけじゃないですから」

「あ、そう、それで?」

 刑事は小さく首を縦に振った。

「でも僕が見たときは、落ちた人がやってくるのに気がついてないみたいで、駅前の広場の方を見てました。あ、あの親爺、あそこに行くんじゃないかなって思いましたよ」

「どうして、そう思ったんですか」

「ああいう男は無視されるのが嫌いなんですよ。わっと寄るとみんなが逃げる。それが楽しいんじゃないんですか」

「そういうものですかね」

「想像です・・・わたしの」

 会社員は今度ははっきりと顔をしかめた。

「想像ね。つまり当たる直前まであの人は振り返らなかったんだね。なにか声を聞いてませんかね」

「おい、とか声をかけたような気がしますけど。落ちた方の人がですよ。あなたはなんか聞きましたか」

 会社員は刑事を粘液質でうざい男だと結論づけ、隣に座っているもうひとりの目撃者である女性に水を渡した。

 水を向けられた女性はなかなかの魅力の持ち主だった。黒いコートの上からでもしなやかな体がよく分かり、今風にザクっとカットした髪型もよく似合う。歳はやはり二十代の半ばというところか。刑事もそちらに視線を移した。

「声は聞いてないわ。でも、そう、あの人、振り向きもしなかったわ。ですよね?」

「そうですよ」

 水がもどってきた会社員は急に気分が良くなった。

「そしたらむきになったみたいで、おいおまえ、とかいって、いや、言ったような気がしたんですが、少し突進気味に寄っていったんです。わ、とこっちが驚きましたよ。だって電車が凄い勢いで入ってくる直前だったし。あの辺りじゃ、まだかなりスピードがありますからね」

「わたし、なんか叫んじゃったかもしれないわ。きゃあとか、危ないとか」

 女性もタイミングよくフォローしてくれた。刑事は手帳に何か書き付けると、それで? とどちらへともなく先を促した。

「あの人がたまたま動いたんです」

「どう動いたんです」

 刑事はまた声を落として聞いた。

「身をかわしたということですか」

 その質問の重要さは会社員にもわかったようである。えっと目を見開いたが、すぐにきっぱりとそれを否定した。

「ちがいます。それははっきりとちがいますね。偶然動いたという感じだったですよ」

 刑事はペンを素早く手帳の上で動かすと、あんたは、というように女の方に視線を移した。

「わたしもかわしたようにはみえなかったわね。だって背を向けていたんだから。はっきりいえば、あの人、ラッキーだったということなんじゃない?」

 刑事はふたりの顔を交互に見たがまた何かを手帳に書き込んだ。


 ラッキーだった男。

 伊能亮一、会社員、三十二才と名乗った長身の男は、もうひとりの私服の警察官に向かってこう述べていた。

「気がつきませんでした。あの時わたしは駅前の広場を見てたんですが救急車が入って来たんです。なにかあったのかな、と少し横に動いたのですが、その時でしたね、わっと声がして誰かがわたしの横を落ちていきました」

 鼻の下と顎に薄い無精髭がある刑事は二、三度うなずくと、

「わかりました」と手帳を閉じ、

「またお聞きすることがあるかもしれませんが今日は結構です」と言った。

「刑事さん。落ちた方の身元がわかったら教えていただけますか」

 刑事はちょっと顎をあげて、丁寧に畳まれたグレイのコートを膝に置く伊能を見た。

 このくらいの長身だとややもすれば猫背になるものだが、この男はすっきりと背筋が伸びていた。冴え冴えとした顔立ちと合わせて職業モデルかと思うほどだが、東洋科研・三富(さんとめ)超伝導研究所の主任研究員という名刺を差し出していた。

 ――なにかスポーツをやっているのだろうが、えらくカッコイイ男だな。

 刑事はそんなことを思っていた。

「それは・・・しかし、なにか特にありますか」

「わたしを知っている人間だったかもしれないでしょう」

「なるほど」

 刑事はうなずいて小首をかしげた。

「いいですよ。お知らせします。しかしなにかお心当たりでもあるんですか」

「いえ。それはありません」

 伊能はきっぱりと否定した。

 ――そうか、そういうケースもあるかもな。思わぬところで知人をみつけて、やあ、とおふざけで体を寄せていった。もしそうなると、これはちょっと面倒なことになるんだがな。

 刑事は考え深そうな表情になった。

「もうひとつお願いなんですが、わたしの名前は出ないようにお願いしたいのです」

 刑事は、ほうと、今度はあからさまな好奇心を顔に出し唇を少し意地悪そうに歪めてみせた。

「例えば新聞記者などにべらべら喋るなということですか」

「ええ、例えばならそうです」

 伊能はあるかなしかの笑いを見せた。

 刑事は、あれ? この男はこういう感じの男だったかと、話を終えたつもりでいたその顔を、もう一度、今度はじっくりと見据えてみた。

 剣道の面ずれのあるいかつい顔と大きな目玉には自信があった。大抵の相手なら脛の傷の有無に関係なく目を伏せるのだが、この男はお愛想ほどにもそうはならなかった。淡い笑みをずっと保持している。

「落ちた方の家族や知人が知ったらわたしを恨むかもしれないでしょう? それは仕方がないとして、逆恨みでなにかされるのは困りますから」

 刑事は手帳をぽんと叩いて肯いてみせた。

「そりゃ、困りますよね」

 刑事はさきほどのお返しのつもりで、困りますのところを同じ調子でいってやったのだが、伊能の表情はやはりまったく変わらなかった。

 ――この野郎、どういう男だ。感じないはずはないんだがな。

「もちろん、その点はいわれるまでもありません。あなたのことは秘匿します。それは警察の義務ですから」

「では失礼します」

 力んで答えた刑事の思い入れには取り合わず、伊能は断ち切ったように笑みを消すと、すっと椅子から立った。

 戸口までついてきた年輩の駅員が、

「とんだ災難でしたね、あまり気になさらんように」

 と言いながら見送ったが、もどってくると寒そうに両手をこすり合わせながら刑事に言った。

「いやあ。今の人。ほんとに幸運だった。命を拾ったね。鉄道で三十年やってるけどこんなことは初めてですよ。しかし、えらい落ち着いた人ですなあ」

 刑事は、ああ、と生返事をして、閉まった扉のガラス越しに去って行くその後姿を見つめていた。


 事故のあった駅は、都心から北上するメトロ地下鉄と郊外私鉄の合流駅であった。両者は相互乗り入れを行っていて、そのまま郊外まで行く電車もある。

 伊能の(ねぐら)がある有数の大団地はもう少し北にのぼる。地階の事務室を出るとホームには上がらずにタクシー乗り場に並んだ。電車は間引きながらも動き始めているらしく、待っている客の列はさほど長くはなかった。やがて自分の順番がきたとき、いつものとおりさりげなくそれをうしろの人に譲り、自分は次のタクシーに乗った。

 窓の外を流れる暗い街並みに目をやりながら、伊能はさっきのことを考えていた。

 だが、それは親切な駅員が心配してくれたように自分を責めて悩んでいたわけではなく、また命拾いをしたことを喜んでいたのでもなかった。伊能は知っていて身をかわしたのである。それも十分に引きつけておいて。伸ばした手もわずかに遅らせてやった。最後の最後に跳んで逃げるというヒントを与えてやったのだが・・・

 ――思い切りの悪さが命取りだった。今年も俺の勝ちだ。

 伊能は酔漢のダミ声が三十メートルほど向こうから聞こえてきた時、すぐにそれが擬態であることを知った。ほぼ一年ぶりの〈お客さん〉だ。

(木枯らしの季節にやって来る。俺を線路に突き落とそうというのだろうがへたな演技だし、テも古い・・・それともやつはただの囮か)

 二段はおろか三段構えの襲撃を受けたことさえある伊能だった。用心せねばと心を引き締めたが、身の内から湧いてくる闘志が快くもあった。寒気にむせて咳をする風を装って体を一回転させると、その間にもうすべてを見て取ってしまっていた。

(おやおや鬘などを被って。俺の能力をその程度に言われて来たのなら、あいつはどのみちつぶされる男なのだ。助けるには及ばんな。さて二段目はどこだ)

 男が周囲の絶叫とともに車輪の下に消えた時、この時が最も危険なのだ。伊能は五感をフルに稼働させて次の攻撃の気配を探った。しかしそれらしい存在は検知出来なかった。二段目はなかったのか、あるいは隙がないと知って断念したのか。

 もっとも伊能としてもとびきり気分がいいというものではない。どうかして血のたぎりを鎮める必要があった。こんなことであしたの研究に集中力を欠くことがあってはならないのだ。

 ――こういうときは、あそこだな。


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