助けてください
ドアフォンが鳴るのを伊能はベッドで聞いた。枕元の時計をみるとまだ五時半だった。こんな早い時間に誰だ。道子か、と一度はそう思ったがすぐにうち消した。
道子は昨夜パリに旅立った。
呼吸を整えながら耳を澄ませていると、二十秒ほど置いて再び、今度は心なしか遠慮がちな声が聞こえた。
「伊能さん、堺静子です。お願いです。助けてください」
――助けて?
伊能はゆっくりとベッドから身を起こし、膝の屈伸を三度ほど行うとゆっくりとローブを身にまとった。
こういう時でも、いやこういう時こそ一層の警戒が必要なのだ。伊能の油断を誘う手段として子供と老人とペットが敵の小道具だった。
ある年などは道ばたで猫を撫でていた老婆から猫を顔に投げつけられたことがあった。その時は最初から老婆の姿勢に不自然さが見えたので、なにかがあるとみて備えていた。しかし猫が顔面目がけて飛んできた時にはさすがに驚いた。だが伊能はその猫を正拳で容赦なく突き返した。猫は魂消るような悲鳴とともに、太い編み棒を持って突進してきた刺客の顔に爪があたり、刺客は顔を覆った両手の間から血を滴らせながら逃げ去った。後には銀髪のかつらが残っていた。
扉のレンズからみると、廊下の灯りに照らされて静子ともうひとり高校生くらいの少年がいた。伊能はチェーンをつけたまま扉をゆっくりと開けた。
「早いね。そちらの人は」
「あ、伊能さん。こちらはすぐ上の兄の剛です」
「入って」
伊能はチェーンをはずしドアを開いた。少年の容貌は疑いもなく堺青年の弟である。静子は涙を目に湛えていた。
「どうしたのかな。こんなに早く」
「すみません。兄が、兄が」
「まあ、お入りなさい」
「あの・・・」
静子は涙の中にも先日出会った伊能の恋人らしい女の存在を気にしたらしい。
「誰もいないよ」
「・・・では、失礼します」
ふたりは部屋の中を見渡しながら入って来たが、伊能にいわれたソファにそっと腰をおろした。
「着替えるから。静子さん。悪いけどその間にコーヒーを煎れてくれないかな。お湯はそこ。カップやスプーンはあそこだ。君らもお好きにどうぞ」
伊能は暖房の温度を上げ、浴室に入り素早くシャワーを浴びて着替えた。
リビングにもどってみるとコーヒーが三人分煎れてあった。まだ口はつけられていない。
「上手だね。いい香りだ。きみたちも遠慮は要らないよ」
ふたりはおずおずとひと口ずつ飲んだ。
「さて聞かせてもらおうかな」
「昨日の午後の三時頃、兄が勤めている会社から電話がかかってきたんです。兄はいないかって」
口を開いたのは剛であった。伊能は少し微笑んだ。口を開いたところは長兄と静子を繋ぐミッシングリンクである。
「でも兄は前の晩、ぼくらが寝ている間に会社に行ったはずなんです。兄が書いたメモがありましたから」
「それ、持ってる?」
「いえ、さっき警察の人が来て貸してくださいといって持っていってしまいました」
「警察が来たの」
――それじゃ心配するわけだ。
「メモには、“急な用で会社にいってくる。熱帯魚のエサをよろしく/公人”と書いてありました」
「いつ書いたのかな」
「二十六日、午前〇時五分と書いてありました」
伊能は肯いた。
――そうか、あの車だ。おかしなところから現れたタクシーだったから気にはなったのだが。やはり呼び止めてみるのだったか。
「それで?」
「そう会社の人に返事をしたら、とてもびっくりしたみたいで」
「暫くしたら警察の人が来た?」
「ええ、午後の四時半ころでした。会社の大竹さんという僕らも知っている人と一緒に」
「そうか。その人たちはなんといってた」
「心配要らないって言いましたけど、僕らも子供じゃないんだから、本当のことを言ってくださいっていったんです」
伊能は黙って肯いた。
「そうしたら刑事さんと大竹さんが、じゃあといって、実はお兄さんは誘拐された恐れがある。といってもそう決まったわけでもないし、なにかの都合で別の場所に行っている、ということだってあるのだからって」
「携帯電話は」
「持って出てます。けど、すでに呼んでみたそうです。僕らもやってみましたけど切られてて通じませんでした。兄は悪い人にどうかされたんです。刑事さんが言うような何かの都合で別の場所にだなんて、少なくとも連絡もなしで兄がそんな心配を僕らにかけるわけはないんです」
伊能もそうだろうと思った。
「それははっきり言って君たちの心配どおりという可能性が高いな」
覚悟はしていても、ふたりは伊能からちがった答えが返ってくるのを期待していたらしい。顔にありありと失望の色が出た。
「でも、大丈夫。君たちのお兄さん、公人さんは普通の人とはちがうのだから」
弟妹は顔を見合わせた。
「そうだろう? 君たちもそれは知っているのじゃないか」
「どうしてそうだと分かるんです」
「見て分かったとしかいいようがないんだが、お兄さんは何か格闘技をやっているね。それも達人だ。それなのになぜかそうは見られないようにしている」
「剛兄さん」
「静子」
剛が妹を制した。しかし静子は構わずに言った。
「剛兄さん。わたし、言うわ。言わなければならないのよ。わたしの直感を信じて。公人兄さんを助けてくれるのはこの世で伊能さんただひとりなのよ」
「すみません。静子が夜中そういってきかないものですから、それでこんなに暗い内から。本当は外出さえもしないようにと言われていたんですけど」
それは、ずいぶん見こまれたものだと軽口を胸の裡で叩こうとした伊能だが、急にこみ上げてくるものが有りさりげなく立ち上がって背を向けた。
(求婚してくれないのも一緒に暮らせないのも構わない。わたしが辛いのは、そのわけをあなたが少しも語って下さらないことよ)
道子は上野のカフェで、この二年の間に何度も言ったことを少し微笑みながら言い、改札口をくぐってからは一度も振り返らず遠ざかって行った。
――捨てる神あれば拾う神ありか。




