ミスターバード
左手にレインボーブリッジの巨大な白い支柱群が見える。右手はアイボリーカラーで装われた高層ビル群だ。この季節、太陽は低い。しかし朝という感じはいいものだ。しかし今朝の鴨原良一はそれを楽しむ気分ではない。
――金が入ってない。どうしてなんだ。いやなヤツだがその心配だけはない男だとみたんだがな。
ビルの地階にある銀行で自分の指定した口座を照会してきたばかりだった。金曜日の夜の自分の行動を何度も反芻してみた。まちがいはない。まちがえようがないのだ。鴨原は電話をとりあげた。
「バードだ。約束はどうした。・・・なに・・・馬鹿な。そんな筈はない。場所、時刻、相手の人体、なによりもあのキーすべてが打ち合せのとおりだった」
(不思議ですねえ。だが受取人はあの電車には乗ってなかったんですよ。あいつはこっちが腹が立つほど馬鹿馬鹿しいミスでね。だから、あなたはまちがった男にブツを手渡してしまったことになります。嘘じゃありませんよ。わたしだって、あっちの言うことを鵜呑みにしたわけじゃない、自分でも確認してみましたよ。あちらはブツが手にしてないのだから金は払えないと言う。わかりますよね。だからわたしもあんたには払えません。ミスターバード、まことに失礼ながらあんたはドジったんです)
「なに!」
――慇懃無礼の見本みたいな野郎だ。
(テレビや新聞を見てないのですか)
「いつのだ」
(昨日の夕方ですよ)
「あいにくまだ見てない。昨日の午後から今朝にかけて、そういうことのできない場所に居たんだよ。どこかだって? あんたにいう義理はないよ。兎にも角にも俺が渡した相手が受取人でないとは信じかねる。考えてもみろ。人ちがいであれだけの条件が揃うか」
(それはわたしにもなんとも。受取人は足のどこかを骨折したんですよ。学園駅の地下道で電車に乗る前にです。駅に聞いてみましたがいうとおりでした)
「そういう時のために、携帯の番号を指定しておいたはずだ」
(それが、そやつの携帯が転んだはずみに壊れたらしいのですよ。駅員にかつがれてやっとこさ公衆電話にたどりついた時はもうタイムオーバー。そやつもえらいドジでした)
――そやつもだと!
鴨原は大きく息を吸い込んで自分を押さえた。冷静さを保つことができなくてはこの商売は務まらないのだ。
「そうかい。まあいいだろう。それは調べさせて貰う。それから、こうなったからにはあんたには言っておくことがある。あっちのやつらを焚きつけて俺をどうかしようなどとは考えない方がいい。俺を甘くみないことだ。あんたの顔写真と指紋と、それから国際電話の録音テープがものをいうぞ。相手の人間が誰かはもうわかっている。俺のネットワークは国内だけじゃないんだ。そいつと上院議員のマックとの関係などは外務省やサツの外事なら誰でも知ってるんだ。そうだろう? ミスターサワダ。油断したな。俺は英語もあんたに負けないほど達者なんだよ」
今の一撃は十分な効果があったらしい。一瞬ながら電話の向こうで息を飲む気配があった。
(さすがですな。ではまちがえて渡したという相手を突き止めるんですね。ブツはそいつがまだ持っているかもしれませんから取り返したらどうです。まだ使えるのでしょう? 使えないまでも証拠として残すのは避けたいじゃないですか。そうすれば報酬の件はわたしがなんとかしてあげましょう。このままではこちらも困るんですから)
「いい気になるなよサワダ。ステーキを自分の歯で食いたいのなら俺をこれ以上怒らせないことだ」
ドスの利いた鴨原の言葉に相手がいいすぎたことを後悔したようである。再び息を飲む気配がわかった。
堺は急速に体が復調して来るのを感じた。日頃の鍛錬がものをいったのだろう。
部屋は和室でいえば二十畳位の広さで、地下室らしく床も壁も天井もクリーム色に塗装がしてあり、窓が無い。天井も吸音ボードではなく、やはり冷たいモルタルである。色の禿げた古い二段ベッドが唯一の備品だった。
起き上がって身体検査を試みたが、かすかに残っている頭痛を除いてはどこにも危害が加えられた形跡はなかった。ポケットの中はからっぽでショルダーバックもない。携帯もなかった。しかし幸いなことに腕時計と腰のベルトは残っていた。
腕時計は電波時計だから時刻と日付がよくわかる。細工を加えたかと思ったが、自覚する眠りの時間と尿意から時刻は細工されてない。念のため目を凝らして長針と秒針の動きをみるとゼロ時でぴたりと合致する。
立ち上がって調べてみると、ふたつあるドアは想像していたとおりだった。ひとつは洗面所とトイレで、もう片方の出入り口とみられるドアはノブがロックされていてびくともしなかった。四方の壁に耳を当ててみたが人の存在を示す気配は無い。耳を澄ますと遠いところから自動車の通る音が聞こえる。使われていない倉庫の地下室だろう。
堺はベッドに置かれた黴くさい夜具の上で仰向けになって目を閉じた。
――あの時すれちがった長身の男。あれが静子の言った伊能だろうか。向こうは俺に気がつかなかったようだったが、今となって思えば、たとえ人違いであっても声をかけておくべきだった。そうすればひょっとして車を覚えていてくれたかもしれない。無論、番号などは無理だろうが屋根の標識などを・・・ダンクシュートのお兄さんか。今度は俺のためにスラムダンクをやってみせてくれないか・・・
目を閉じた。ボールを片手に持ったまま鳥のように浮いている。これまで何度夢想したことだろう。目のレベル、一メートルほどのところにリングが迫る。右手で力一杯ボールを叩きこみ、そのままリングにぶら下がる。一、二度大きくスイングをして身軽に飛び降りると、観衆の爆発的な歓声と味方の雄叫びがあがる。
ダーンク!
――こんな時になあ・・・落ち着いていると、自分を誉めるべきか。いや残された弟と妹を心配すべきだろう。それよりなによりまず俺自身のことだ。ここで命を落とすわけにはいかない。自分のなしうることがなにかを考えるのだ。




