00 とある人魚伝説Ⅰ
――――むかしむかし、遠い国のお話です。
あるところに、とても優秀な王子様がいました。
幼少の頃から智謀も、武術も、民を引き付ける魅力にも長けていた完璧な王子様は、国のみんなから「名君のたまご」と呼ばれ、とても期待されていました。
そんな王子様に、ある時縁談が舞い込んできます。
それは、隣の国のお姫様との婚約話でした。
父である王様は言います。この話を呑めば、王国はさらに平和になるだろう、と。
恋も、愛も知らなかった王子様は、国のためならば、と、父のもちかけた話に二つ返事で頷きました。
しかし、隣国との間には、広い海が行く手を阻んでいます。海を越え、隣の国へたどり着くには三日もかかることでしょう。そう簡単に、お姫様に会いには行けません。
王様は、まだ幼い王子様の身を案じ、隣国の王様と約束ごとを交わしました。
「王子が17になった日に、海を渡って、姫と正式に婚約すること」
こうして、王子様には婚約者ができました。
その隣国のお姫様とは、会えないながらも手紙のやり取りを始めます。
手紙を通じて、お姫様のことを少しずつ知っていった王子様。
それでも彼は、彼女に恋をすることはありませんでした。
心のどこかで、これは国のための結婚だと、割り切っていたのかもしれません。それでも王子様は、お姫様に手紙を書き続けました。王国のために。平和のために。
―――そして、迎えた17歳の誕生日。
王子様は生まれて初めて船に乗り、海の先へと旅立ちます。
旅立ちの日の海はとても静かで、王子様はほっと胸をなでおろしました。
このままいけば順調に、隣国へ着くことだろう。
そう、思っていました。
しかし、その夜のことです。
突然、海が荒れ、ごうごうと恐ろしい音とともに、嵐が船を襲いました。
王子様を乗せた大きな船は、雷に打たれ、あっという間に海の底へと飲み込まれてしまいます。
船から落ちてしまった王子様は、必死に泳ぎました。必死に、死に物狂いで――
けれど、泳いだことなどない彼は、すぐに力尽きてしまいます。
どんなに四肢をばたつかせても、体は沈んでいくばかり。
手足はすでに動かせず、息苦しさでどうにかなってしまいそうです。
生きるのを諦めたくないのに、神様に見放されているような気がしました。
――深い、深い海の底に、王子様は沈んでいきます。
薄れゆく意識の中で、王子様は思いました。
…ああ、私はここで、死んでしまうのか。
まだ、やるべきことが沢山ある。
まだ、成すべきことも成せていない。
まだ、したいことを、一つもしていない―――。
…私は、なんのために生きてきたのだろう。
王子様の目尻から、涙がひとつ、海の底へとこぼれてゆきました。
その時です。
誰かに、沈んでゆく体を、受け止められた気がしたのは。
『お願い、生きて』
心地の良い、きれいな声が聞こえてきます。
まるで子守唄を歌うような、透き通った優しい声。
こんな海の底で話しかけてくるなんて、絶対に人間ではありません。
そうわかってはいながらも、王子様は不思議と怖くはありませんでした。
不安と恐怖で埋まっていった心が、だんだんきれいに浄化されていきます。
王子様は、最後の力を振り絞って、声のしたほうへと目を向けました。
そこには、金色の髪をゆらゆらと揺らせた、碧眼の少女がいました。
その少女は、王子様の体を抱きしめながら、こう言います。
『あきらめないで』
その、輝くような美しい髪に、歌ような優しい声音に、王子様は目を奪われました。
――ああ、なんて―――――――
――――――綺麗なひとなのだろう―――――…
謎の少女に身を任せ、王子様の意識は、ぷつりと途絶えてしまいました。