楽しい大規模演習
「ねぇ」
爪を手入れしながらキリエはそばに控えるジョセフに声をかけた。
「右前方、ちょっとうるさくない?」
「そうですね」
ジョセフはこの天幕から見渡すように遠くを見るような目をして応える。
「敵前衛にミルケー大佐かケヴィンがいるのかもしれません」
騎士団屈指の武闘派の二人を気安く挙げる副官を横目に、キリエはふっと研いだばかりの爪に息を吹きかける。もう少し整えた方がいいか。
「ミルケーが居るなら仕方がないわね。突進するために生まれてきたような男だもの。――右大隊下がれ。左方、敵前衛の側面へ」
「了解。――右大隊下がれ! 左方、敵前衛、側面へ!」
大音量でもないのによく響く副官の指示が天幕を出て複唱されていく。
遠く広がっていく自分の指示を眺めながら、キリエは次の指の爪に爪磨きをあてた。
「私も出るわ」
「はっ」
「爪を磨き終わったらね」
「――お供いたします」
律儀な副官の返事を無視して、キリエは自分の爪を磨きながら溜息をつく。
帝都郊外、小さな森の点在するこの広大な台地は、騎士団保有の巨大な演習場である。
天気にも恵まれた今日は騎士団あげての大規模演習が行われている。
騎士団本部からの行軍訓練に続き、紅白分かれての戦闘訓練を行うのだ。
実に一週間にもおよぶ訓練は周辺の住民に避難指示が出るほど激しい。一年に一度のこの演習で一週間も住居を追い出される住民はたまったものではないだろうが、この地域の住民には騎士団からの手厚い支援と莫大な賠償金が支払われているので今のところ目立った文句は出ていないらしい。
反対意見など出たところで、どこかの誰かが適当に金を握らせているだけだろう。
今年の演習は行軍から戦闘まで晴天に恵まれ、荒々しい戦闘で踏み荒らされた草地からはぼうぼうと土煙りが上がっている。
戦闘訓練の後はこの地で野営をしなければならないのだから加減をしろと言いたいが、それでは訓練にならない。
結局、訓練に参加した兵士は下士官から上官まで洩れなく泥だらけになって本部に帰投するのが常であった。
(今年はツイてないわ)
キリエは毎年、この時期は仕事を見つけては訓練への参加を避けてきた。
訓練ならば騎士団近くにもだだっ広い演習場があるのでそちらで十分だ。何が悲しくてわざわざ二日も行軍し、遠く離れた地で演習しなくてはならないのか。
政治的な影響や騎士団と貴族たち、商人たちとの取引などの経済的な影響も分からないではないが、行軍はキリエでなくても構わないのだ。
しかし今年に限って手の空いてしまったキリエは演習の責任者の一人に選ばれてしまい、こうして埃臭い演習場まではるばるやってきたのである。
六つある団のうち、四つを演習で浪費してまでやる演習に意味はあるのか。――意味はある。純粋に訓練という名目と、普段は混じらない団員同士の交流である。
つまり、汗を流して互いを知ろうというのだ。
(筋肉馬鹿が考えそうなことだこと)
最後の小指を名残惜しく磨いて、キリエは溜息のように息を吹きかけた。
遠く、しかし確実に天幕の中にまで爆音が響いている。この演習で使用される武器はいずれも実用で、魔術の使用すら許可されている。頭部などへの攻撃こそ厳密に禁止され、敵兵の死亡は身につけている腕章を奪い取ることで判定されるが、それ以外は実戦と同じなのだ。
そのためこの演習では毎年多くの負傷兵が出る。運が悪ければ死者も出る。それでもこの演習を止めようという声は上がらない。
「――失礼いたします」
覗きこむように天幕の外から声をかけてきたのは伝令だ。無言で許可を与えると片膝をついた姿勢で伝令は静かに告げてくる。
「右前衛後退したものの、敵の勢い止まらず前進中です」
「側面は?」
「左方からの攻撃で大方は食い止めましたが、先頭は未だ前進中です」
「……ここへ向かってるのね」
ミルケーめ、と毒づいてキリエはようやく布張りの椅子から立ち上がる。あの男のことだ。後続部隊など端から囮だったのだろう。錘をつけた状態でわざと敵中へ切りこんで、いざとなれば錘を切し放して飛び出す。後続部隊は側面からの攻める部隊へのいわば餌だ。
ミルケーという男はただの筋肉馬鹿ではない。狂暴な戦士であり、冷徹な指揮官なのだ。
「いいわ、私が出る」
「はっ」
伝令を下がらせるとジョセフがキリエの剣と、自分の剣を持ってやってきた。
「あなたは出なくてもいいわよ」
剣を受け取りながらキリエがうんざり見上げると、当の副官はいつもの鉄面皮で「いえ。お供いたします」と応える。
それにキリエは溜息をついた。
「あなたみたいな狂犬を連れて歩きたくないって言ってるのよ」
「犬らしく主人について歩きますので」
「――煙草を一本くれたら考えてあげるわ」
大人しく承諾するのも馬鹿らしくて条件をつけると、思いのほかジョセフはあっさりと自分の懐からキリエのシガーケースを取り出し、
「どうぞ」
と、キリエの唇の高さにまで葉巻を差し出してきた。
あまりの手際の良さに何も言わずに咥えると、葉巻の先に火が灯される。
心地良い苦みが体をぐるりと染みわたるようだ。
「……まぁ、いいわ。行くわよ」
剣を身につけながら咥え煙草で煙を吐くと、どこか上機嫌な副官が「はい」と頷いた。
――まったくもって、おかしな副官だ。
キリエもまた葉巻のお陰で少しだけ気分よく、戦場へと踏み出していった。