あの日わたしは狼に出会った
その戦は、どう考えても負けると分かっていた。
相手の戦力はこちらの倍で、馬鹿な子供であっても敗北を覚悟するだろう。しかし当時の上層部はそれを”精鋭部隊 ”というひどく曖昧で誰が名付けたのか分からない口上で兵士たちを口説いて落とした。
そうして案の定、戦場は史上最大の戦死者を出し、のちのロマンチストな歴史家が『マラデテンラ平野の悲劇』と名付けた。
というのも、この名前が決まるまで、兵士の間では『マラデテンラの喜劇』と皮肉をこめて語られていたからだ。
大軍に対するとは思えないほどの稚拙な陣形を指示した指揮官が一番に逃げ出し、主だった無能な将校たちは全て死に、生き残った兵士は皮肉にもことごとく後に将校となった。
今までいたずらに兵士を殺してきた無能はここで一息に消えたのだ。
その馬鹿げた戦を煽った指導者たちもことごとく失脚させられ、残ったのはどこまでも冷徹な政治家だけ。
この戦争が切欠となってあちこちで平和条約が結ばれることとなり、戦争嫌いの我が国の王はその立役者となった。
――つまり、その若い王が一人勝ちしたのだ。
彼は先代、先々代から居座る重鎮共を戦争によって一掃することに成功した。
幾千、幾万もの兵士の命を礎にして。
しかし、そんなことが分かったのは戦が終わってしばらく経ってからのこと。
誰も王の思惑など知らないから、一将校であったキリエは言われた通りに、嫌々ながらもその戦に従軍していたのだった。
撤退命令が下ったのは早かった。
前線に居たキリエに伝えてきたのは同僚の将校で、指揮官はすでに戦場にいないと伝令は付け加えた。
キリエは別に驚かなかった。
そうなると思っていたから、早く死ねとばかりに前線に配置されてもよく訓練した部下たちに「決して死ぬな」と命令していて、彼らはそれをよく守って誰一人として欠けていない。
だから、部下たちに他の部隊の撤退を手伝うよう今度は命令して、自分も馬の轡を返す。
「撤退の手伝いをしろ。一人でも多く救え」
「は!」
腹心である部下は笑みさえたたえてキリエに短く応えた。
彼は先月、妻が妊娠したのだと照れていた。
はしばみ色の瞳はキリエを信じて疑ってすらおらず、キリエもそれ以上言葉をかけなかった。
死ぬと分かっている戦場で、他人の目的のために死ぬなど馬鹿なことだ。
それでも、彼らに死ぬなと命令しなかった。
――戦後、キリエの部下は半分になって、見知らぬ兵士を庇って腹心は死んでいた。
酷い戦場だった。
そこかしこで虐殺と略奪が充満して、掃討戦となったこの戦場は地獄と化していた。
キリエは自然と集まった女性騎士たちと共に戦場をいち早く離れていた。
いくら男女同権だと叫んだところで、女が戦場でどんな目に遭うのか分かり切ったことだ。撤退命令には女性騎士たちを逃がすことも含まれていて、ある者は囮となって、ある者は女性騎士たちを逃がして、行方が分からなくなった。
次第に数を減らす仲間たちを引きつれて、キリエは戦場の端まで逃れたが、そこで敵兵の一群に捕まった。
ある程度までは数を散らしたものの、最後はキリエ一人となって敵兵に囲まれた。
上手く残った敵兵たちを誘導して、山裾に広がる森に逃げ込んでみたものの、一人では多勢に無勢。
(煙草)
茂みに隠れた拍子に懐を探ってもあるはずのシガーケースはない。すでにキリエの剣もなく、あるのは護身用に父からもたされた短剣だけだ。それも宝石ばかりがついて切れ味は限りなくない。美術的な価値はあるだろうが、死人に金は必要ない。
(つまらないわ)
死ぬつもりはなかったが、ここで敵兵たちに捕まっても女であるキリエは死ぬより酷い目に遭うだろう。薄汚れていても自分の容姿が人目を引くことは分かっている。
(……あいつら、煙草持ってないかしら)
死ぬのはいい。いつでも出来る。けれど、最後に一服。
誰も彼もが悪習だと決めつける煙草を吸いたい。
キリエが唯一手に入れた自由なのだ。
初めは肺に入れることすら出来なかったあの煙を吸うことで、キリエは大貴族のお姫様から少しだけはみ出せた。
そんな僅かな反抗の証が、煙草だ。
目の端に敵兵が見えた。
そうしたら、キリエはもう迷わなかった。
「――ねぇ、煙草持ってない?」
戦場に出て血迷った兵士たちは女の声に簡単に引っ掛かった。
「待てよ、もういいだろ?」
「駄目よ、誰かに見られたらどうするの」
誘って逃げて繰り返しながら、キリエは敵兵たちを森の奥へと誘い込む。
その間にどうやって煙草を奪おうかと考えていたが、森の奥に辿りついて敵兵たちに囲まれて腹が決まった。
(まず一人)
一人仕留めて武器を奪うか。
ばさり、と兵帽を落とすと、男たちの息を呑む様子が分かったがどうでも良かった。
だが、
ひゅん!
空を切り裂く音に、キリエはどういうわけだか手を伸ばしていた。
矢か、刺客からのナイフか。
どちらにせよいきなり手を出して良いものではなかったというのに、彼女はそれを眼に映す前に掴んでいた。
(――剣!)
よく使いこまれたそれは手に吸いつくほど一瞬で馴染んだ。
手品のように現れた剣に唖然となった敵兵よりも早く、キリエは剣を抜き放つ。
「――さぁ、坊やたち。喜びなさいな。天国へ逝けるわよ」
その剣を油断していた手近な兵士に一閃して驚いた。
ザン!
恐ろしく切れる。
せいぜい首の骨でもへし折ろうかと思っていたキリエの思惑は外れ、敵兵の首が放物線を描いて綺麗に消えた。
(いい剣だわ)
キリエに魔法は使えないが、嘘のように現れた剣はまるで魔法のように敵兵を仕留めさせてくれる。
「――ぎゃあああああああ!」
キリエが居ない方向から上がった悲鳴にちらりと目を向けると、見知らぬ兵士が敵兵から剣を奪い獲るところだった。
敵兵が握った剣を強引にそのまま引き抜くという、嘘のように残酷な手品で剣を血塗れにして奪い取ったかと思えば、その男は深く深く息を吐く。
傷だらけの体がまとうのは間違いなくキリエと同じ兵装だったが、まるで違うものに見えたのは、次に顔を上げた彼の瞳のせいだった。
ただ獲物を狩ることしか考えていないそれは、血に飢えた獣にしか見えなかった。
幸いにして、その獣はキリエを仲間だと分かっているらしく、斬りかかられはしなかった。だが、彼が敵兵の間を縫うたびに血飛沫が上がっていく。
――あいつは敵兵の体を端から切り刻んでいたのだ。
ぼとぼとと先から順番に切り落とされて、戦意を失った敵兵をキリエが仕留める。
それを幾らか繰り返していくうちに、敵兵はいなくなった。
決してただのお嬢様ではないキリエも背筋の凍る戦い方だ。
死体に囲まれてその獣と同じく立っている。そのことがキリエを柄にもなく緊張させたが、再び長く息を吐く声が聞こえて振り返ると、そこに獣はいなくなっていた。
兵装を血だらけにした男は確かに人間で、戦場にはいっそそぐわないほど平然とした顔つきだった。表情こそないが、血塗れでなければ嫌味なほど落ち着き払った様子は優秀な文官に見えただろう。だが、雰囲気は灰色の髪色も手伝って削りだしたばかりのサーベルのよう。
この男に助けられたのは間違いないが、間違っても友達になれる類の男ではない。
(まぁ、いいか)
気まぐれにやってきて敵兵を倒した男に言う言葉など何もない。向こうにしても礼など求めていないようで、キリエの方を何の気なしに眺めているだけだ。
そんなことよりキリエにはやることがある。
男を無視してキリエは敵兵の死体に身をかがめた。
目的は忘れてない。煙草だ。
死体の向こう側でサーベル男はこちらを眺めて呆れている気配がするが、キリエは無視した。
馬鹿馬鹿しい戦場のことだ。馬鹿馬鹿しい理由で命を賭けて何が悪い。
ようやく目的の煙草を探り当てたものの、今度はもう一つの物がないと気がついた。
(火がない)
キリエのマッチはシガーケースと共にない。
せっかく煙草があるというのに。
ひどい徒労に溜息をつきかけたキリエだったが、顔を上げる。
まだサーベル男がここに居るではないか。
もうとっくの昔に居ないと思っていたが、どうやらキリエの様子をつぶさに眺めていたようだ。
「ねぇ」
決して友達にはなれなくとも、
「火、持ってない?」
どこかにマッチの一本も持っていないだろうか。
そのためなら、宝石のついた短剣もくれてやろう。
男は、キリエの顔をまじまじと見たかと思えば、これ以上なく呆れた顔になった。
(あら)
鉄面皮にも顔があったのか。
キリエの方も内心失礼なことで驚いていると、溜息をつくように男は笑った。
――そう、笑ったのだ。
子供の馬鹿馬鹿しい悪戯を笑うように、それでいてどこか慈しむように。
(慈しむ?)
男のあまりにも柔らかい笑みに眉をひそめたキリエを後目に、彼は、
「仕方がありませんね」
と、ぱちんと指を鳴らした。
そして彼の人指し指に小指の先ほどの小さな火が灯る。
(魔術…)
軍において魔術師は珍しくない。だが、これほど素早く術式を指先で展開できる者はそうはいないだろう。
この男は指先に火を灯すという自然界ではありえない現象を起こす魔術をほんの一瞬で組み立てて、指を鳴らすということだけで発現させたのだ。
「どうぞ」
キリエが火をつけるのにちょうどいい高さに近付ける様子は、彼が人との距離を計ることに長けていることが知れた。
言われた通りに煙草に火をつけると、長い指の先に灯された火は淡く光って消えていく。
煙に混じった魔術の残り香を目で追っていると男が小さく笑ったようだ。
馬鹿にされていると分かったが、ここは堪えて礼を言わなければならない。
「……ありがとう」
小さな声は彼にも届いたようで、男は鉄面皮のくせにまた笑った。
「どういたしまして」
獣のように獰猛なくせに、その声はふさふさの腹毛のように柔らかい。それでいて絶体絶命の仲間を決して裏切らない心は鉄のように堅い。
まるで狼のような男だ。
細く煙を吐き出しながら、キリエはどこかお人よしな狼を眺めた。
――その狼、ジョセフがお節介で鉄面皮なキリエの天敵となるとは知りもせず。