あの日わたしは魔女に出会った
残酷な描写あり
あれはもういつのことだったか。
ジョセフの一番古い彼女の記憶は戦場でのことだ。
今でこそ平和なこの国だが、ジョセフがもう少し若い頃は酷い戦争が続いていて、国を守ろうと志願した兵士が志のまま死んでいくことが常だった。
中でもその戦場は酷いものだった。
間抜けな指揮官が逃亡したため、軍は崩壊し、逃げまどう兵士を敵軍が一方的に虐殺していくという悲惨な敗戦だ。
掃討戦となった戦場でジョセフはわずかな手勢を率いて撤退を指揮していたが、やがて仲間は散り散りになり、ジョセフは一人、森へと逃げ込んだ。
命からがら、鬱蒼と茂る緑の中に身を潜めていると、見たくもない敵兵が見え、彼らが追いかけ回している自軍の兵士を見た。
ジョセフは咄嗟に自分の体を確かめた。
利き腕の右腕は無傷だが、左腕には数えきれないほど裂け、足も首も体も同様だった。逃げる際に落馬して頭を軽く打ったせいか未だに頭がよく働かない。
だからなのか、それを理由にしたかったからか、ジョセフはすぐには動かず、手にした剣が少しでも音を立てないよう息を潜めて様子を伺うことにした。
やがて五、六人の敵兵に追いかけられていた兵士は森の奥の岩場に追い詰められてしまった。背には先の見えぬ洞窟、前には血に飢えた敵兵。
一か八か。
そんな場面で兵士は敵兵に振り返る。
各々の武器を携えた敵兵と対峙したその兵士は丸腰だ。
(もうだめか)
ジョセフが出て行ったところで、多勢に無勢。
だが、見捨てられるはずもない。
――せめて一矢報いなければ。
死んでいった戦友たちに顔向けが出来ない。
密かに敵兵の後ろに回り込み、剣を握る。
長年連れ添った愛剣はこの馬鹿げた戦場で酷使され、もう見る影もない。
しかし、とジョセフは柄を握り締めた。
が、大きな溜息が聞こえてくる。
「――ねぇ。煙草があるっていうから、ここまで来てあげたんだけど?」
およそ戦場にはそぐわない女の声がする。
それは、かすれているもののひどく艶めかしく、ばさり、と兵装である帽子が取られると、そこには、
「これからって時に逃げたのはお前の方だろ?」
欲情を隠そうともしない下卑た声の先に居るのは、髪の長い女。
――どうやら、自軍の兵士だと思っていたのは、先に退却をしたはずの女性だったのだ。
男女同格に兵士になれる我が国だが、敗戦を悟った将軍達が女性兵士を先に退却させたはずだった。少しでも早く逃げられるようにとの配慮だったが、護衛をつけられるはずもない戦局では裏目に出たのか。
歯ぎしりをしそうになったジョセフだったが、女の次の言葉に頭が冷えた。
「だって、一人で何人も、でしょ? 女同士でも自分が喘ぐのを見られるのはさすがに恥ずかしいわ。ねぇ?」
彼女は、他の女性兵士を逃がすために囮になったのだ。
冷えた頭でジョセフは元来の冷静さを取り戻して茂みに潜んだ。
敵兵との会話を聞く限り、彼女は怯えも動揺もない。
(何かある)
言葉巧みにこんな森の奥まで敵兵を引きはがした肝の据わった女のことだ。
こんなところで死ぬつもりはないのだろう。
根拠もない閃きがジョセフに長年の訓練で鍛えた狼のような野性を思い出させ、冴えていく頭はただ獲物を狡猾に狩ることだけに集中し始める。
「――いい思いをしたいなら、一人ずつ。ね?」
甘い、それでいて抗いようのない毒のような声だった。
男を誘って余りある女の声に、血と戦場に興奮した男が抗えるはずもない。
案の定、ふらふらと敵である男が足を踏み出して女に近付こうとする。
――あとで思えば、どうしてその時そんなことをしようと思ったのか分からない。
茂みからざっと立ち上がると同時に、ジョセフは自分の愛剣を投げていた。
ブン!
矢のように放たれた剣は嘘のように敵兵の間を突き抜け、ただ一人の手が掴み取った。
バシ!
確かに鞘を受け取る音を、ジョセフはあり得ないほどはっきりと耳にした。
そして、
「――さぁ、坊やたち。喜びなさいな。天国へ逝けるわよ」
美しい魔女が嗤う様を見た。
ぎらり、と抜き放たれた剣は果たして自分の愛剣なのか。
禍々しい狂剣となった一閃は吸い込まれるように敵兵の首を、見事に一振りで弾き飛ばした。
ザン!
恐ろしく鮮やかな一閃に、敵もジョセフを一瞬唖然としたが、ここが一気に修羅場になったのだと真新しい血の臭いが起爆剤となって、弾けた。
「このアマ!」
口汚い言葉で敵が剣を抜く。
――待っていた。
影のように近付いたジョセフもまた、自分が魔女と同じく酷い顔で笑っていると自覚しながら、抜かれたばかりの剣の柄ごと男の手から引き抜く。
「ぎゃあああああああ!」
抜いたばかりの剣が男の手を鞘とばかりに走り去り、血が空を舞う。
まるで手品のタネでも明かすような血塗れの剣を手に、ジョセフの耳に断末魔が消えた。
あとは獲物を逃がさず周到に殺すだけだ。
ジョセフは一匹の獣となって獲物を狩り尽くした。
再び人に戻ったのは、狩りを終えてからだ。
理性を取り戻して溜息をついていると、他方からも同じ溜息が聞こえて死体から顔を上げる。
ジョセフの剣を手にしている魔女が、敵兵の死体を探っているのだ。
細い指先が探り当てたのは――、
「煙草?」
ジョセフの呟きも聞こえないのか、魔女は小さく口の端を上げる。化粧気のない白い顔に血をこびりつかせたその様子はぞっとするほど恐ろしいが、ひどく艶やかに見えるのは、彼女の容姿のせいだろう。
質素な兵装であっても豊かな髪はいっそ豪奢で、花弁のような唇に整った顔立ちは悲惨な戦場がおよそ結びつかない。しかし、
「――ねぇ」
長いまつげに縁取りされた瞳は人を容赦なく射抜いた。
真っすぐに刺し貫くような瞳で彼女は初めてジョセフに向かって言い放つ。
「火、持ってない?」
その真剣そのものの目を見て、ジョセフはこのにこりともしない魔女の意図を何となく悟った気がした。
この女は、煙草のために自分の身を危険にさらしたのだ。
囮となったのは本当だろう。
戦場で一人となる危険は、訓練で嫌というほど叩きこまれているから、兵士が一人で退却する危険は身に染みているはずだ。
それでも、彼女はこの敵兵が配給品の煙草を持っているとにらんで、誘いをかけた。
訊ねてもいないというのに、何故かそれが真実だと、ジョセフは思った。
そして後にも先にも、生きるか死ぬかの戦場で、自分の命を危険にさらしてまで煙草を求めた馬鹿は知らない。
呆れた。
それから、笑い出しそうになるのをこらえて、訝しげな彼女を見遣る。
こんなものに命を賭けたことが本当にくだらなかった。
そして、この戦場もそれ以上にくだらなかった。
それを思えば、彼女が煙草を吸いたがったことがどこか崇高にも見える。
「仕方がありませんね」
ジョセフはそう言って、ぱちんと指を鳴らして魔術の術式を構成して、崇高な煙草に火をつけてやった。
――このひどく馬鹿げた戦争のあと、煙草の魔女、キリエが自分の上司になることなど思いもよらず。