微笑みの狸上司
いつものように机に積まれた書類仕事に目を通すキリエに、相変わらず表情を忘れた副官が声をかけてきた。
「大佐。総長がお呼びです」
シガーケースから葉巻を取り出しかけた繊指でピン、とケースを締めるとキリエは深く溜息をついた。
あの上司は嫌いだ。
「何の用ですって?」
「私には何も。ただ執務室まで来いと」
ますますもって溜息だけが漏れた。
しかし相手は上司。時に貴族よりも厳しい序列に支配された騎士団において、その命令は無視できない。
「――行ってくるわ」
席を立つと、当然のように副官もキリエの後ろをついてくる。
「なぁに。あなたも呼ばれてるの」
コツコツと響くヒールの後を影のようについてくる灰色の髪の男は「いいえ」と首を横に振る。
「私はあなたについていくことが仕事ですので」
「ご苦労なことねぇ」
ついてくるなという徒労は惜しむべきだろう。
キリエは厭味を一つ向けただけで、上司の執務室へ向かうことにした。
「――おや、今日はジョセフ少佐も一緒か」
返事を得て執務室へ入ると、好々爺然とした男がにこにことキリエたちを迎え入れた。
ほどほどに短く整えられた茶色の髪、ほのぼのとした笑い皺を刻むこげ茶の目。四十も手前ほどだというのに、好々爺という言葉がよく似合う。こんなところで軍装に身を包んでいなければ、どこのおっとりとした学者か役人が紛れ込んだのかと誰もが思うだろう。
「キリエ大佐、ジョセフ少佐、参りました」
「うん。よく来たねぇ。そちらへどうぞ」
広い執務室で申し訳ないというような顔で部下に席を勧めるこの男こそ、騎士団の長、総長であるソリアンダーであった。
応接用のソファにキリエを座らせ、ジョセフは相席を固辞してキリエの後ろに控えた。
「で、今日来てもらったのは、これを見せたかったからなんだよ」
静々とワゴンを押してやってきた秘書官がお茶を入れていくのを眺めながら、ソリアンダーはテーブルにアルバムのようなものを取り出した。
お茶を用意し終えた秘書官が静かに去ってから、アルバムを手に取ろうともしないキリエが重々しく口を開く。
「……これは?」
「お見合いしてみない?」
キリエは思い切り口をへの字に曲げたいのを我慢して、再びソリアンダーに目を向ける。彼の方はといえば、にこにこと微笑んだままだ。
「――また宮廷の方からのお話ですか」
「君は唯一の女性指揮官だからね。目立つのだろう」
女性の入団は始まって久しいが、まだキリエのような将校は珍しい。
キリエはゆっくりと息を吐いた。
「……父の差し金ですのね」
「お父上も心配なんだよ。何せ国の中枢を担う宰相殿だから」
「何を見返りにいただいてきたのですか」
まるで実の妹を心配するようなソリアンダーに冷たく切り返すと、ようやく彼の方も胡散臭い微笑みが苦笑に変わる。
「今度の演習の予算を少し。――鋭いなぁ。君、騎士に向いてないよ」
「よく言われますわ」
子供の頃のキリエは、男であればさぞ良い跡取りになっただろうと言われ続けたものだ。もっとも、政治家などになる気はなかったのだが。
「でも、本当に良いお話なんだよ? 今回も」
「今回も、父のお気に入りですわ」
父の目を疑いはしないが、キリエにまだ結婚する意志はない。
(きっとこの遊びを見抜けなくなったら、そのまま結婚させる気ね)
父にしても、実家にあまり帰らないキリエとの遊びだと思っているのだろう。迷惑な話だ。
「まぁまぁ、そう言わず。えーと? ……すごいよ。二十五の若さで長官だって」
「へぇ」
「……本当に興味がないんだね」
ソリアンダーは取りつく島もないキリエの様子に苦笑一つ漏らして、わずかにキリエの後ろに目をやったかと思ったが「まぁいいか」とアルバム――釣り書きを閉じた。
「君に抜けられたら困るのも事実だし。うん、僕の方から先方には断りを入れておくよ」
「お願いいたします」
話は終わりだ、というソリアンダーにキリエは席を立つが、ふと呼びとめられた。
「そういえば、国境線の付け火どうなったっけ?」
数日前までかかりきりになっていた案件で呼びとめられて、キリエはさっと顔を引き締める。
「何人か収拾に向かわせました」
キリエの答えに、ソリアンダーの笑い皺が消えて冴えた眼光が姿を現す。
「遅い。隣国との交渉役も向かわせろ」
「わかりました」
キリエの短い返事に、総長の顔がすぐ形を潜め、
「――じゃあね。報告はあとで書類にして寄越してよ。お疲れ様」
そう言って、にこにことキリエたちを見送るのだった。
帝国の騎士団は、宮廷とは異なる独立組織である。
国の防衛も担う立場柄、宮廷との密な折衝は必須で総長のソリアンダーは宮廷との交渉も受け持つ。
彼は海千山千の宮廷でも一目置かれていた。
(あー怖い怖い)
鉄壁の宰相と呼ばれるキリエの父と対等に張り合える政治家が何人居ることか。少なくともソリアンダーはその一人だ。
宮廷や騎士団の外では微笑みの総長と呼ばれ、宮廷寄りの政治家気質だと知られているようだが、彼の本質は戦士だ。ともすれば先人にも立った先の戦争での功績で今の地位を得ている。
戦時中、騎士団内部では怒らせるとイの一番に剣を抜くことから、活火山と呼ばれていた。
(子供持つと丸くなるって本当ねぇ)
女子供にも容赦しないと言われていたあの活火山が、今や二児の父なのだから世の中面白いものだ。
(今日はお子さん自慢されなかっただけマシね)
あれはいけない、と思いながらキリエは軍装のポーチを探って一本の葉巻を取り出す。先ほど自室を出る前に一本だけくすねてきたのだ。
「――お持ちだったんですか」
「お持ちだったのよ」
執務室では好きなだけ口にできる葉巻だが、外ではそうはいかない。そこかしこが禁煙とされていて、今居る廊下も禁煙だ。そのため、このうるさい副官がキリエのシガーケースを取り上げているのだ。
取り上げられるまでは止める止めないの水掛け論を繰り返していて、とうとう実力行使に出られてしまい、キリエが少し目を離した隙に副官に取り上げられてしまったのだ。
新しい物を買ってもまた取り上げられる。そのうち喫煙所では付き従っている彼が「一本だけ」と上申付きで葉巻を出してくれるようになったので、そのままにしている。
そのため、一緒に居ることにすっかり慣らされてしまった。
「火、ちょうだい」
指で待ち構えた葉巻の先を副官に向けると、彼は鉄面皮を少しだけ呆れ顔にしてパチンと指を鳴らす。すると彼の人差し指に小指の先ほどの炎がマッチのように現れた。
「便利ね。魔術って」
副官のジョセフは少々特殊で、魔術部隊ではないキリエの部下だが魔術が扱える。魔術を使える者はやはり特殊なので、今でも別部隊から引き抜きの声さえかかっていた。
葉巻の先を魔術の炎で炙り、煙が昇ったところでキリエは紅唇に挟む。
思い切り肺に吸いこむと体の細胞が息返った心地になった。
ゆったりと、廊下から見える中庭を眺めて煙を吐いていると、同じく中庭の緑に目をやった副官が溜息のように言う。
「――確かに。あなたに火をつけられるなら魔術も便利ですね」
悪くない、と鉄面皮が珍しく口の端を上げるので、キリエもくすくすと笑った。
「そうよ。感謝なさい」
そう言って、文句を言われないうちに廊下の窓を開けるのだった。