脳味噌が筋肉の隊長
キリエを天敵にしている者は多い。
例えば、真面目と筋肉だけが取り柄の大隊長。
「――では、酒代を国庫から賄えというのが騎士の務めなのかしら?」
昨日ジョセフがキリエに急ぎで回してきた書類について、廊下で呼びとめられればこの通りだ。何の騒ぎだと野次馬たちが見守る中、今にも掴みかからんばかりに顔を赤くした隊長が「この女狐め」と唸った。
この隊長は兵士からの叩き上げで、キリエのような士官学校からの貴族には一定の偏見がある。それに先頃、大隊長に任命されたばかりの彼はキリエとは折り合いが悪い。
何せ現場仕込みの筋肉馬鹿。細かい会計など知ったことかと予算を使うので、隊長格が揃って勧告を出した。
部隊の酒代は予算からは下せない、と。
こんな馬鹿な書類がキリエのところにまで上がってくるのだから平和なものだ。
「我々部隊の士気にかかわることだ!」
「でしたら、あなたの懐から出してはいかが? 宵越しの金は持たないなど隊長のすることではなくてよ、コーネル中佐」
大隊長の赤ら顔が余計に真っ赤になる。もしかしたら昼間から酒でも飲んでいるのかもしれない。飲んだ勢いであるなら人の多い廊下でいきなりキリエに馬鹿馬鹿しい勧告への批難などしに来ないだろう。
いつまで経っても怯えようともしないキリエに大隊長の赤ら顔が吠える。
「たかが会計のお飾り騎士の分際で出しゃばるな!」
そもそも女に口で勝とうとすることが間違いだと気付いたのか、大隊長は勢いに任せて腰の剣の柄を握る。
その様子にキリエは紅唇をいよいよ釣り上げた。
その時。
「ぐっ!」
今にも切りかかろうとしていた大隊長の腕をいとも簡単に捻り上げた者がいる。
「――公衆の面前で関心しませんね。コーネル中佐」
筋肉馬鹿ほどの体格もないが、鋭い鋼のような男が己が捻り上げた大隊長に冷めた視線を送った。
「ジョセフ!」
唸るようにして灰色の髪の男、ジョセフを大隊長は睨み上げると、
「貴様、この女狐の部下になったというのは本当だったらしいな!」
「ええ」
怒鳴り声を気にした様子もなくジョセフは頷くと、大隊長を無視してキリエに視線を投げてくる。
「確認していただきたい書類が出来ました。大佐」
よく見れば彼は左腕で大隊長を捻り上げ、右手には書類を持っている。
「まぁ、そんな用事でこんなところまで追い掛けてきたの。ご苦労なことね」
「恐縮です」
キリエの方も何かしら喚いている大隊長を横目にジョセフから書類を受け取った。彼が書類をここで見せたがるというのは、急ぎだということだ。
「遊んでいられなくなったわ。じゃあね、坊や」
キリエが副官と共にヒールを翻すと、後ろから殊更大きな喚き声が聞こえたが、周囲から宥められているらしくそれも次第に小さくなっていった。
野次馬共め、と毒づいたキリエにジョセフは鉄面皮で付け足した。
「あなたが剣を抜くか賭けていたようです」
「……ああ、煙草が吸いたいわ」
今日も面白くない副官と仕事だなんて本当に面白くなかった。