融通の利かない天敵
火をつける。
すると細く細く煙が伸び、唇に含むと舌の上でまろやかだがスパイスのような味が広がる。
それは料理とも飲み物とも違うが、確かに”飲む”もので味わうものだった。
そして、
「大佐」
無愛想な副官が咎めるように未決済の書類を渡してくるのだ。
ふぅ、と溜息をつくように煙を吐くと、彼女の紅唇から洩れた紫煙はほろ苦い香りを伴って部屋に充満した。
火を付けたばかりの葉巻を口から離す気にもなれず、キリエは口にそれをくわえたまま紫檀の執務机の上を手袋越しに細い指でなぞる。
「今日はまた何のおいたをしたのかしら」
定期的に上げられる書類の確認はすでに終わったはずだ。
キリエは億劫に思いながら万年筆を引き寄せて机に広げられた書類に目をやり、それから机の手前で直立不動で立つ男を見上げる。
馬鹿みたいに真面目な男だ。ほどほどに切り揃えられた髪は暗い灰色で、双眸は氷のような淡い青。長身は軍人らしく鍛えられているが隆々とした雰囲気はなく、威圧感があるわけではない。岩というよりも削りだして丹念に研磨したサーベルのようだ。不用意に触れれば怪我をしてしまうだろう。
わざとしく煙を吹きかけてやると強面の部下は少しだけ眉根を寄せる。
この男、図体に似合わず葉巻の煙が大嫌いなのだ。
まるで初々しい小娘のように眉をしかめるものだから、呆れを通り越してうんざりする。
「煙が嫌なら外へ出ていなさい」
「いえ。お気遣いなく」
これは気遣いではなくただ単にキリエが目の前の男を追い払おうとしているだけだと気付かないものか。いや、気付いていても、この男ならばきっと生真面目に、
「その書類をご確認いただかなくてはなりませんので」
眉をしかめているくせに、音というより静かな言葉の羅列のような声で言うのだ。
「……まぁいいわ」
これ以上追い払う義理も無し、キリエは溜息の代わりに煙を唇から放った。
遅れてやってきた書類は同列の隊長からのもので、必要な書面の下に遅れてすまないという走り書きと今度食事でもどうだという個人的な誘いが書かれてあった。
思わず微笑むと、「何か問題でも」と平板な声が降ってくる。
「困ったものだわ。今度食事にでもどうかって」
キリエが笑ってサインをし、副官に渡してみせると彼は歪めた眉をますますしかめた。
「――このような個人的な誘いを書くメモではないのですが」
低い声で言うその様子はまるで嫉妬しているようではないか。
キリエはますます笑ってしまった。
「ふふふっ…あはははは!」
この生真面目が服を着て歩いているような副官の嫉妬など、想像しただけ面白い。
笑いながら煙を吐き出すキリエに、副官はほとんど睨むようにこちらを眺めて、やがて長く息を吐き出した。
「――それで」
「ん?」
自分の想像に笑い転げていたキリエを副官はその氷のような瞳で切り裂くように見据え、
「食事に、行かれるのですか?」
サーベルの刃先を突き付けられたようだ。
しかしキリエにとって刃物は珍しいものでも何でもない。商売道具だ。
ふっと笑いを収めて葉巻の良い香りをいっぱいに吸い込むと、思い切り吐き出した。副官に向かって。
普通の男ならば怒るようなことにも、目の前の男は黙ったままこちらを睨み据えている。本当に、忌々しいほど腹の据わった男だ。
「ダイル大佐は愛妻家だってご存じ?」
「はい」
誘いをかけてきた隊長の名前を挙げても副官は相変わらずの無表情。
「私が招待されているのは、夫妻の晩餐よ」
何が悲しくて愛妻家の惚気を聞きたいものか。
最近ではダイルの惚気を聞きたくないがために誰も彼の招待に応じないという。
副官は黙ったままだった。
無表情でしばらく突っ立っていたかと思えば、再び思い出したように動き出す。
「――では食事には」
「行かないわよ!」
キリエの応えを聞いてから、副官は彼女から書類を受け取り部屋を辞して行った。きっと今から書類を届けがてらにキリエの返事を伝え、ダイルに絡まれるのだろう。そして彼が晩餐に行けばいいのだ。
「――…まったく」
キリエは他に誰もいなくなった執務室に遠慮なく煙を溜め、今度こそ溜息をついた。
あの融通の利かない副官を持って、早二年が経つ。
ジョセフ・アルエル。
融通こそ利かないものの彼はその優秀さであっという間にキリエの右腕となり、そして唯一の天敵となった。
今後の設定上、キリエの階級を少佐から大佐に変更しました。