(9)
手洗いから戻って来ると、龍呼の姿が見えなかった。
シゲさんとワタさんは先程の話の続きに白熱していて、
草薙さんはまた別のデザートを食べていた。
俺は目が合った草薙さんに、「ちょっと散策して来る」と伝言を残して外に出た。
瑠璃光に輝く湖面が鏡のようにまぶしい。
実際こうして見れば、まったく問題のない綺麗な湖だ。
ただエネルギー的に澱んでいるため浄化して調整をおこなう必要性がある。
メンテナンスのようなものだ。
俺はなにかに誘われるように、
駐車場そばの古墳のように盛り上がった土――魚墳へと足を運んだ。
駐車場整備のために取り崩されていたものを復元したとあるが、魚族を供養した塚だった。
その塚の先に見える湖岸に龍呼がいた。
カッパ淵の松の木に手を添えて、湖の方を傍観しながら佇んでいる。
どうしたんだ?
なんか寂しそうだぞ……?
彼女がなにを思っているのかは、俺に知る由もない。
まるで誰かを松《待》っているかのようだ。
まさかカッパか?
こんなときでも寒いダジャレしか言えない自分に嫌悪感が募る。
このままそっとしておいてやりたかったが、
海に身投げして泡になった人魚のように今にも儚く消えてしまいそうで、
声をかけずにはいられなかった。
「――よぉ」
後ろから声をかける。
何事かを考え込んでいた龍呼はハッとして、
いつもの白いシュシュで一本に束ねた長い髪を揺らして振り返った。
「あ、公介さん……」
相変わらず可愛らしい声が、紅い小さな唇から漏れ出す。
こうして彼女と二人きりになるのは久しぶりだったが、
今では親近感もだいぶ生まれ、よそよそしさも以前ほどは感じられなくなっていた。
「湖を、見てたんです。この湖にもかつては沢山の魚族が暮らしていました。
水だってもっともっと綺麗だったんですよ。その、聞いた話ですけど……」
「そりゃそうだろう。第二次世界大戦前の話だ」
二人は笑い合った。
それでも龍呼の表情はどこか頑なで寂しげだ。
このまま黙っていると、ますます暗くなっていきそうな雰囲気だ。
イワナを食べるとき以外は、
いつもどおりの彼女であったのに突然なにを思いつめてしまったというのだろうか。
「なぁ、草薙さんの民宿に行ったことあるか?
笑えるぜ。何なら俺が招待してやってもいい」
「何度か会合で行ったことはあります。でもなにが笑えるんですか?
笑えるような所は特になにも――」
「廊下の壁に気付かなかったのか? 従業員募集中じゃなくて、
お嫁さん募集中の貼り紙が貼ってある。しかもずいぶん黄ばんでやがるときた」
「え! 本当ですか? やだぁ、草薙さんったら」
クスクスと肩を揺らして笑う。
こうして笑う彼女を見たのは初めてかもしれなかった。
いつもの薄い笑みとは異なっていた。
相も変わらず彼女の素顔は、メガネの向こうに封印されていて菱湖より神秘だが、
やっぱり笑った方がずっと可愛いと実感する。
龍呼の隣りに立った俺は、微笑みながらそんな彼女を見下ろしていた。
見下ろしていてもメガネの奥を見ることは叶わなかったが、
「――え……、なんです?」
身長差のある俺に、
いつまでも黙って見下ろされていることに危機感を抱いたであろう龍呼は、
小首を傾げながら背の高い俺をおずおずと見上げる。
「龍呼はさ、やっぱり笑った方が可愛いなと思って」
「!」
みるみるうちに、彼女の頬から耳までが赤くなっていく。
「や、やだ。公介さんってば……冗談ばっかり。
そんなんじゃカッパも湖から出て来てくれませんよ」
「え! いたのか!?」
「くすっ。冗談ですって」
舌をちょっとだけ出してみせる龍呼は、肩をすくめて微笑んでいる。
一瞬でも子供のように無邪気にはしゃいだ自分が恥ずかしい。
くそっ、抱きしめたいぜ。
いっそカッパになって引きずり込……いや、さらっちまおうか。
しかし冗談ではなく、本気でそう思い始めていた。
このままワタさんのそばへなど行かせたくなかった。
風と共に龍呼の長い髪が俺の目の前へサラッとなびく。
ふいに手が伸びた。その黒髪が辿る方へ。
「え……」
龍呼が声を上げたときには、既に俺の右手が彼女の左頬に置かれていた。
二人の身体は至近距離にある。
呼吸が、鼓動がコントロールできなくなっていく。
龍呼は身をすくめた状態で身体を硬くしていた。震えながら。
「――ぶ、ぶたないで……」
か細く今にも泣き出しそうな声で訴える。
計らずも吹き出した俺は、「誰がぶつかよ、馬鹿だな」と、
臆病な龍呼をからかって頬をそっとさすってみるが、
その都度ビクビクと彼女の肩は震えていた。
「……っ! ……っ!」
その様子が愛おしい。
思わずそのまま指をメガネにかけて、外してみたくなる衝動に駆られる。
「柔らかいほっぺただな。すごい真っ赤だ……」
俺は頬よりも紅い龍呼の唇から目をそらすことができなかった。
「それに唇も――」
「公……っ」
俺の顔がより接近したせいで、
龍呼はますます全身に力を込めなければならなかった。
しかし彼女に降ってきたのは俺の唇などではなく――
「バーカ。だまされてやんの」
からかいの言葉。
「やっ! ちょっと公介さん! あまり私で遊ばないで下さい!
お仕置きとしてお祓いしちゃいますよ!」
神主がハタキでお祓いするような仕草を俺に向かって繰り返すと、
俺はそれを交わして逃げ出した。
「逃げないで下さい! 悪いものは浄化するんですからね! えいっ!」
「ハハハー! 追いつけるもんなら追いついてみなってー!」
走って追って来る龍呼。さっきまでの悲哀に満ちた表情は霧散している。
最高だ、それでいい――
試し切りの石の場所で思い描いた妄想が現実となる。
シチュエーション的には俺が追いかける方だったが、逆ではあるがこの際問題はない。
「ま、待ってー!」
どんどん二人の距離が開いていく。
男女の体力とはこんなにも違うものだろうか。
鏡岩で見た彼女と違い、ゼェハァゼェハァと息を切らしていた。
鏡岩へ登ったときの自分よりもひどい。
まぁ、あのとき龍呼は、下り始めたばかりだっただろうしな。
あの山を登ったときには一体どんな情況だったのだろうと考えると可哀想になった。
この辺で勘弁してやるかと、俺は足を止めてきびすを返そうとした。
が――
「ぶっ!」
突如出現した壁に激突して顔面をぶった。
否、見知らぬ巨体にいきなり抱きしめられた。
もちろん龍呼であるはずがない。
こんなにも力が強いなどありえるはずが……。
「翠さん!」
遠くから龍呼の驚く声が耳に届いた。どうやら知り合いらしい。
だが依然として抱きしめられ続ける俺は、その者の姿など確認できるはずもなく、
俺を圧縮パックするつもりで更にギュギュギュウ~と強く圧迫した。
「ぐ、ぐえ~~~~……。い、いい加減放しやがれ!」
この力は女ではない。
身長が百八十センチある俺よりも図体もでかい女など、そう多くは――
「あ~ん、可愛いこの子! あたし好み! 食べちゃいたーい!」
カプッ。
俺の耳朶に遠慮なくかじりつきやがった――ッッ!
「ぎゃ――っ!」
渾身の力を投入して相手の腹部に膝蹴りをし、
ようやく俺は磔の刑から自由の身となった。
「ぐふっ……。やるわねあんた」
腹部を押さえてよろめく金の巻き毛――
おそらくウィッグの男……いや女(?)は、化粧が濃かった。
眉の下までがっつり塗られたブルーのアイシャドウにバリバリの付けまつ毛。
たった今誰かの血を吸って来たと言わんばかりのグロスの利いた真っ赤なルージュ。
顔の作りは付属品がなくとも美形であるようだが、
香水の匂いもきつめときて俺の身体にもしっかりと染み付いてしまった。
なんてこった……。
若干高めであるが、明らかにその声も体格も男に相違ない。
「翠さん、お久しぶりです!」
「龍呼元気だった~? 相変わらず、ぶっとくてだっさいメガネねー。
そんなんじゃモテないわよ~」
翠と呼ばれた巨体はあけすけに言った。
俺も負けじと食ってかかる。
「こいつはモテねーわけじゃねーぞ。
その邪魔をしたのはどこのどいつだ、このオカマ!」
「ああん? ますます可愛いわねー。キスしちゃおうかしら?」
ゲッ。
気色わりぃ。
ところでこいつは一体なんなんだ?
俺が薄気味悪そうな顔つきで正直にそう思っていると、
後ろからメンバーたちがやって来て、恐ろしいことに喜びの声が響き渡った。
「翠くんじゃないか! いやー、一ヶ月ぶりか? 今夜は参加できるのか?」
シゲさんが嬉々として近づいて来る。
シゲさんのあとにワタさんと草薙さんも付いて来ていた。
「シゲちゃんゴメーン! 今夜もお仕事入ってんの~。すぐ帰らなきゃ~」
オカマバーにか?
いつぞや自分と同じ夜勤族だと思って親近感を感じていたが、
まさかゲイの店だったとは……。
すると、シゲちゃん……違った、シゲさんが俺を仰いで紹介した。
「ああ、紹介しよう。こちらがもう一人の菱湖研究会のメンバーの翠くんだ」
「翠で~す。『翠ちゃん』って呼んでね」
「誰が呼ぶか」
「あ~ん、イケズ~!」
なんとでもほざくがいい。
龍呼との記念すべき追いかけっこを邪魔して許されるはずがない。
断じて許さん。
しかもこの俺に抱きつきやがって。
あとで龍呼に抱きつき直して……じゃなく、お祓いしてもらわねば……。
逆襲のつもりはなかったが、直後に俺が何気に口を衝いて出た言葉がある。
ふとメンバーにその年代がいなかったことを思い出して。
それが意外に翠の心をかき乱したようだ。
「――なぁ、あんたって四十代?」
ピキッ……。
なにかが割れるような音がした。
翠の厚塗りの顔面にヒビでも入った音だろうか。
翠とやらは微笑んでいるが、明らかに憤怒を抑えている状態だ。
「あたしのどこが四十代だってのよー! ケツ触るわよ、おりゃ!」
野太い声と共に、ガッと俺の臀部が力強く掴まれた。
「いぎゃぁあああぁ―――ッッ!
言いながら掴むんじゃねぇっ! しかも揉みやがった!」
俺の不甲斐ない雄叫びがこだまする。
と、そのとき、天上からなにかが落ちてきたことに龍呼は気付いて顔を上げた。
「――雨……」
菱湖は標高も高いとあって天候が移ろいやすい。
晴れていても、こうして急に雨が降り出すことも珍しくなかった。
龍神が喜んでいる、歓迎していると人は言う。
霧に煙る雨の日も、山々に霞がたなびく様は幽玄世界そのものだ。
雪の日もしかり。
四季それぞれに一幅の絵のような……。
――なにかが胎動する音が、どこかで響いたような気がした。
***
「行け! ハチ公!」
命令を告げたお龍は、アンティークな外国製の椅子に腰掛け、
優雅にティーカップでダージリンティーを堪能していた。
しかもどこかの漫画にでも出てくるような、
ひらひらのレースやド派手なリボンや滑らかな繻子の、実に華やかなロココ調ドレス。
昨夜は真逆でОL風だとか言って、
白いYシャツに黒のタイトスカートとパンプスというシンプルな出で立ちだったが、
それがやけにセクシーに見えた。
このままいけば、いつかはナース姿やメイド姿にもなりそうな勢いだが、
それにしてもなんという挑発行為だろうか。
目の保養にはなるが、それを着る意味がわからない……って、
意味がわからないのは飛躍する俺の妄想も同じか。
あとでわかったことだが、
どうやらこのエネルギー世界とやらでは希望する欲しい物を、
思うだけで自由に取り出せるらしく、俺の道具もハタキからモップ、
バフマシーンなどに変容していた。
格好よく剣や槍やロボットを登場させたときもあったが、お龍に不評だった上に、
自分も使い勝手がわからずあたふたしているうちにお龍の神経を逆撫でしたので、
却下した経緯もある。
自分にしっくりくる物は、コンビニでおなじみの手頃な清掃グッズだと、
今ではすっかり元のハタキへ戻っていた。
「てやっ! うりゃっ! そりゃぁあああ!」
――ったく。
犬……人使い荒いんだから。
この頃だとはっきり言って、俺しか浄化作業してねーじゃねーか、あの女王様!
二週間も経つといい加減疲れてきた。
一日三十分とは言え、単調作業なので飽きるのも早い。
しかしこれは死活問題にもなりかねない浄化作業なのだ。
菱湖の命運は、自分にかかっていると言っても過言ではない。
遊びじゃないって言ったのはどこの女王様だよ!
お龍は、レースの扇子を扇ぎながら優雅に命令を下す。
「今夜の分が片付いたら褒美をくれてやろうぞ。ゆえに私の分もしかと働け」
「ワン!」
遊ばれているのは自分の方だろうか。
彼女にはドレスより、ムチとローソクを持った女王様ルックの方が似合う。
俺は完全に『お龍の犬』と化していた。
反抗すれば女王様――もとい、ご主人様のお叱りが待ち受けているだけである。
それならば大人しく従っている方が安全だし楽なのだ。
小心者は小心者らしく。
なりきる俺も俺だが――これも可愛い我が身のためだ。
そして、ご褒美にもらったガムをニッチャニッチャと噛みながら、
「明日もコキ使われてやるかー」と湖を見下ろす。
悪玉エネルギーが水中からポコポコと湧き出ていた。
いっそ水中を浄化すればいいのではないかと質してみたが、
「水の中にはまだ入るな。免疫のないお前はすぐに引きずり込まれてしまうぞ」
お龍の鋭利な黒瞳に、いちだんと鋭さの伴った氷刃が見え隠れする。
「引きずり込まれるってどういうことだ? まさかカッパに――ではないよな?」
「これはもはや普通の水ではない。深い悲しみが混在している水だ」
「深い悲しみ……」
手に負えないほど汚染がひどいのだろうか。
俺は、身体中にドス黒いエネルギーが蛇のようにまとわりつく錯覚にとらわれた。