(5)
――今宵、月が満ちる。
昨夜よりも丸みを帯びた天の光源が水の鏡に光を投射させ、
いっそうその力を倍化させていた。
美しくも禍々(まがまが)しいその力を……。
石座神社本殿――
「ヒフミヨイムナヤコト……トコヤナムイヨミフヒ……」
なんの呪文だ?
修祓(お祓い)、献饌、大祓、
奏上というものをひととおり執りおこなったあと、
龍呼は一つの神楽鈴を両手で持ち、
シャラン、シャランと上から下へ一語ずつ唱えながら交互に揺らしていた。
左右にも同じ動作。そして前後にも……。
前後の場合は、頭上を通り越して半円を描くように繰り返す。
最後に中央、胸の前で神楽鈴を握りしめ、神気である呼吸をし、
俺にはまったく不可解な祝詞を唱え出した。
俺はただ呆然と眺めている。
眺めているしか他にすることがないからだ。
あとは正座がただつらい。
菱湖研究会のメンバーも一同に会しているが、この本殿は思った以上に狭かった。
五人もいれば、結構なギュウギュウづめだったが、
ただでさえ儀式というものは気が張りつめる。
息苦しい。
大切な儀式ということもあり、同席する全員が姿勢を正して沈黙を守っていた。
龍呼は、鶴と蔦模様の千早が神聖さや清楚さを引き立てる白い小袖と、
鮮やかな緋袴の巫女装束をまとっていた。
腰の位置まである、茶色に一毛も染められていない光沢のある黒髪は、
檀紙に包まれ水引で縛られている。
そして彼女は、今出ている月よりも丸い神鏡に向かって神気を吸い、
腹の中に力を込めてゆっくりと鼻から息を吐き出した。
それを数十回と繰り返す。
……ああ、眠い。
いつまで続くんだぁ……?
あ、やべ。
トイレ行きたくなってきた。
俺がもぞもぞしながらあくびをかみ殺していたそのとき、突然、龍呼の様子が豹変した。
すると、それまで静かに座って眺めていたシゲさんたちが立ち上がり、
左右や前後にゆらゆら揺れ動く彼女の周りへ集まり出す。
「――ふるへ……ゆらゆらゆらゆらと……ふるへ……」
一斉に三人の男たちによる奉唱が始まった。
おいおいおいおい、マジかよ、やっべーよ!
今までなんべんも思ったことだったが、口をあんぐりと開いたままの俺は、
この場を逃げ出したくなっていた。
怪しすぎる。
直後、フッと意識を失った龍呼は脱力して後ろに倒れかけるが、
そばにいたワタさんにそっとかき抱かれ、そのまま床板に仰向けに寝かされた。
「……」
そこだけ違う磁場が発生した雰囲気に見舞われたのは気のせいだろうか。
まるで二人の世界を垣間見てしまったような……入り込めない場面に遭遇した気になる。
「体脱したようだ。この間、彼女の身体に触れたりして刺激を与えないようにな。
さもないと、すぐにエネルギー体が戻ってきて目覚めてしまうからな」
シゲさんが小声でささやく。
体脱した人間は、微かな音にも敏感に反応するらしい。
刺激を与えるなって、そもそも寝ている女に万が一触れたりでもすれば、
下心があるとしかみなされねーだろーが。
彼女の寝顔は今もって謎だった。
グルグルメガネが壁となって立ちはだかっている。
俺が想像するに――まぁ普通だろうなとは思ってみる。
しかし肌は色白で、唇はさくらんぼのように紅く愛らしい。
……あれ? もしかして、結構可愛いのかもしれないな。
ま、俺は顔より性格重視だから、どうでもいいことだけどな。
と、呑気に思慮にふけっていると――
「さぁ、次は公介くんの番だ。龍呼に憑依したエネルギー体が、その辺で待機している。
大丈夫、我々を信じて行って来なさい」
「……」
恐ろしかった。
菱湖研究会のメンバーが。
みな、期待の新星に希望の視線を注いでいる。
ゾッと悪寒を感じて、床板に座り一連の流れを見物していた俺は、
よろめきながら立ち上がると腹を決めて小声で叫ぶ。
「じょっ、冗談じゃねぇっ! やっぱり俺は帰らせてもらう!」
これ以上奇々怪々なこの会に関わって、面倒なことに巻き込まれるのだけはごめんだ。
事件が起きてからでは遅いのだ。
だが、伸びてきたシゲさんの意外にも力強い腕力に、
逃げ出そうとしたふくらはぎをガッシと掴まれ、
ただでさえ痛い筋肉への刺激に俺は断末魔の絶叫を上げそうになった。
なのに、俺はなんとかこらえられた。
なぜなのかはわからない。
叫ぼうと思えば叫べたし、それで龍呼を肉体へ戻して元の木阿弥にできたはずなのに。
現に龍呼がこちらの騒ぎにピクリと反応していた。
しかし、儀式の破壊行為をしては罰当たりにもなりかねないと、
俺の無意識がそうさせたのかもしれないな。
「さ、大人しく座るんだ、公介くん。
これは国を救うことでもあるんだ。お前さんならできる」
「ああ、そうかよ! やればいいんだろやれば!」
半ばヤケ気味に渋々観念した俺は舌打ちし、引き受けることをようやく承諾した。
あきらめの深呼吸を何度も繰り返して心を落ち着かせてから、
龍呼が使っていた神楽鈴に手を伸ばす。が――
「ああ、違う違う、それじゃない。君にはこれだ」
ワタさんが自身のカバンからなにかを取り出して、隣りにいた草薙さんに手渡した。
そして、草薙氏が俺の両手に握らせたもの、それは――
「――ハタキ……?」
「君が働いているコンビニではよく使うだろう? 君におあつらえ向きの道具だよ」
実に爽やかなフェイス&ヴォイスでワタさんは言う。
「ああ、なるほどね。確かに日頃からよくお世話になっている――じゃねぇよ。
俺はハタキなんて使わねーんだよ」
偉そうに言えることではないのだが、別にサボっているわけではない。
他にやることがあって、そこまで手が回らないのだ。
例えば、お菓子付き玩具の陳列に忙しくて……。
「第一、なんで道具が必要になるんだ?
俺の目的は、体脱して悪玉エネルギーとやらの浄化作業をして来るだけなんだろ?
どうやるのかは知らねーが……って、それはそれで問題じゃねーか」
新たな問題を指摘するが、龍呼が指導すると言っていた旨を思い出す。
だが俺は、はたと気が付いた。
体脱あとに自分を指導するのは、龍呼ではなくあの冷酷女ではないのかと。
もし当たりなら、指導というより調教をされそうだ。
それこそ大ハズレだ。
あの女はそもそもそれを了承しているのか?
いつ、どこで?
どんどん不安になっていく。
「浄化するには、小道具があれば便利だ。体脱直前に身に着けていた物を、
そのままエネルギー体に変換して持っていくことができるという仕組みさ。
彼女の道具は、使い慣れたその神楽鈴ということだが――」
「それで俺の場合はハタキってわけか。自分の部屋だってろくに掃除しねーし、
逆に使い慣れてねーんだけど。ま、しょせんただのハタキだ。
ハタキの使い方を知らぬ拙者ではない」
こうなりゃなんだってやってやる。
こいつを使いこなしてもみせる。
もう誰にもこのハタキに触れることはできねーぜ?
ちなみに語尾の古臭い口調は言ってみたかっただけだ。
しっかりと両手で握って、御神座の前に座り込んだ。
腹をくくった俺は、龍呼がしていた同じ動作を繰り返す。
コンビニではおなじみのハタキ(ナイロン製)を大事そうに両手でグリップして、
その後はひたすらスナップを繰り返す。
グリップ&スナップ。
グリップ&スナップ。
グリップ&スナップ。
グリップ……以下略。
――なんとも間抜けな光景だ。
本当にこんなんで体脱できんのかよ。
てか、俺じゃなくても誰にでもできんじゃねーの?
てか、とことん馬鹿っぽくね?
だまされているというよりは、いいように使われている、そんな気がしてきた。
ええい、ままよ! 体脱でもなんでもしやがれってんだっ!
いい加減吹っ切れて、心の中でそう叫んだときだった。
それまでさんざん俺の全身に感じていた微弱の電流が突如強まり、
沸騰したかのようにその反動で身体が揺れ出した。
「――!」
共振する意識が魂が、肉体から離れそうになる。
自分の中から、キュルキュルとなにかが回転する変な音までが聞こえ出していた。
金縛り状態で身体が硬直し、声すら出せない。
いつしか俺も仰向きに倒れた。
そっと寄ったメンバーたちが一斉に奉唱し始める。
だが、そんなものは必要なかった。
奉唱される前から既に、彼は体脱し始めていたのだから。
わずかに両目を開けてみれば、メンバーの顔や本殿の中の様子が、
まるで水中にでも沈んだかのようにゆらゆらと揺らめいていた。
なん……だ、これは……?
やがて俺のエネルギー体は、両足、背中、頭といった具合に、
肉体から意識が剥離を始める。
寝たままの体勢で、重力に逆らって真っ直ぐ上へと――
グワンッ……!
うわぁああ――――っ!
初めての体脱に戦いた。
本殿の天井を突き抜け、猛スピードで上昇していく。
今夜は無風だったはずなのに、なぜか風を強く感じた。
それが飛んでいる証拠であるかはわからない。
「これが体脱かぁ――……」
悠長に思う反面、死んだらこうなるのかーと、
半ば感心したように俺はしみじみと呟いていた。
正直、ちびるかと思った。
しかし、本殿にいる肉体を未だ確認していないので安心はできない。
もしかしたら今頃メンバーたちが、ちびった後始末をしているのかもしれないのだ。
すまん、世話かける!
よもや本当に、若干二十一で老人になってしまった気分になるが、
それより俺の好奇心は、今まさに体験しているこの不思議な世界に重心は傾いている。
肉眼で見る世界の菱湖とは、趣きが異なっていた。
時間が違っているのか止まっているのか、
肉眼で見た現在は雪景色であるはずなのに、ここには雪がまったく見えないのだ。
菱湖を形成している土台の菱形。
その上にエネルギー体も重なって視えているのだが、それがなぜかズレて重なっている。
四角形をズラしてできる八芒星のように……。
「これじゃ菱菱湖じゃねーか」
ま、いっかと俺は深く考えずに平泳ぎを開始させる。
このままどこまでも飛んでいけそうに思えたが、
噂に聞く肉体と魂を繋ぐ『シルバーコード』とやらなのかが、
ゴムで引っ張られているかのような感覚を覚えた。
暗闇の空中に俺は浮かんでいたが、足元にはひっそりと佇む真夜中の菱湖が、
月光に照らされた湖面を輝かせている。
もっと高く飛べば、村々や街全体、日本、地球まで見下ろせてしまうのだろうか。
ふと、以前は視えなかった光の線が、そこかしこに延びていることに気が付いた。
他にも何本もの発光した光線が、左右、斜めにと交差してどこまでも延びている。
規則正しく意図的に。
シゲさんが地図に線引きしていた結界ラインが、直に目の前に繰り広げられていた。
まるでバリアーだ。
しかしその結界の中に、黒紫色のアメーバがウヨウヨと浮かびながらうごめいている。
「――うっ、キモッ!」
噂に聞く悪玉エネルギーというのは、絶対にあれで間違いないだろう。
どういう仕組みなのかは知らないが、確かに結界の外には飛び火していないようだ。
結界ラインを越えそうになると、
見えない壁に阻まれてその先へ進めないようになっていた。
「悪い夢だ。俺はゲームの世界へ入り込んじまったんだな」
「――夢じゃない! ゲームでもない! 早く降りて来い!」
眼下より、怒気を孕んだ命令形の女の声が聞こえた。
そこにはあの美女がやはりいた。
神楽鈴を手に持っている。
ギロッと不機嫌そうに俺を睨み上げていた。
こえ――……。
自然と顔が引きつる。
このまま東京へひとっ飛びして帰ってしまおうか。
肉体は置いていくはめになるが。
「気構えがなってない! これは遊びじゃないんだぞ!」
龍呼に取り憑くというよりは、厚顔不遜に乗り移る冷淡な霊体――エネルギー体。
いつどのような経緯で伝わっていたのかは相変わらず謎だったが、
しかし同じエネルギー体ともなると、
その美貌はますます近寄りがたいほど整っていることに気付かされた。
実際近づきたくはないのだが。
流れるような漆黒の長い黒髪。
きらめく黒双と唇。
スレンダーながらも服の上からでもわかるメリハリのあるボディ。
妖しいまでに蠱惑的な容姿の美女が目前にいた。
指導するのは龍呼ではなくこの女……ということはこれで決定的だ。
俺は、黄色い安物のハタキで背中を掻いてみる。
ちゃんと感触は感じられたので現実だ――
と言っていいかはともかくとして、エネルギー体同士、
同じ対象物であれば普通に触れることもできるらしい。
下に行きたいと思うだけで、瞬時にその望みも叶う。
この世界は意識そのものだった。
鳥居のそばに立つ女は、依然として人を蔑んだ目つきで俺を見定めるように、
黒き瞳から剣を放っている。
どうにかなんねーのかな、この威圧的な態度……。
それでも、最初の頃のような幽霊じみたおどろおどろしさや雰囲気は、幾分和らいでいた。
自分の中から恐怖心が掻き消えたか少々見慣れたせいによるものかもしれないが、
自分と同じエネルギー体に安堵したせいかもしれない。
単に知らない物事を怖いと感じる先入観が働いていただけだったのかもしれない。
だからと言って、彼女の挑発的なオーラが緩むことはなかったが。
ましてやこの俺がドMってわけでもねーし、あとで実はツンデレでした~とか言われても、
俺にその気はねーからな。
向こうもないだろうがな。
心の中でぼやきながら、これから一ヶ月やっていけんのかねー、
と盛大にため息を吐きつつ、目を眇めた俺は鳥居へと降下していった。
横に立つと背の高い俺が、自然と彼女を見下ろす形になる。
「――着いて来い。私が浄化の手本を見せてやる」
唐突にそう告げて、颯爽と湖の上へ飛翔していく美女。
彼女は百メートル先の上空で止まると、得意げに構えてみせるが、
その立ち姿ですら艶やかだ。
ただ宙に浮いて立っているだけなのに、あの黄金の龍波姫像にも劣らないほど妖艶に。
それに、女は巫女装束ではなかった。
普通の若い女の格好――タイト・ストレート・ジーンズに長袖のチュニック、
というような比較的動きやすそうなファッションだ。
龍呼ではないのだからメガネをしていないのも納得できるが、確か憑依のはずだ。
身体も龍呼の身体ではないのか。
それともエネルギー体では変幻自在なのか。
この女は普段はどこでどうすごしているのか。
なぜ、憑依などとわけのわからない珍妙なことをしているのだろうか。
疑問は尽きなかった。
その上、自己紹介などの類いは一切なく、いきなり「着いて来い」そうきたかと、
少なからず不満げな俺は、自ら名乗り出ることを早急に取り決めた。
「俺の名は鉢山公――」
「よけいな話は必要ない、ハチ公」
俺は犬か!
確かに現在は渋谷に住んでいたり、
学生時代のあだ名だったりしたが、そういう問題ではない。
龍呼に憑依している以上、いろんな情報が届いているのだろうが、
確かめるのも恐ろしいので俺は問い質さなかった。
触らぬ神に祟りなし。
この場に於いて賛辞すべき的確な格言だ。
メンバーにパシリとしてコキ使われようとも、
この女の犬にだけはなりたくないものだ。
犬死にしそうだからな。
しかし女はめんどくさそうな顔つきで、
「さっさと着いて来い、ハチ公!」
と咆えると、遠くへ飛び立った。
「へいへい」と肩をすくめた俺も、彼女のあとに続いて飛んでいく。
不慣れなりに上下によたつきながら。