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レインボー・エンジェルの犬  作者: 吹留 レラ
【第一章】 空飛ぶ美女
3/16

(3)



なんの飾りを必要とすることなく、ありのまま佇んでは燦然と輝く黄金の龍波姫像。

その龍波姫像を前にしては、美しいと賛美される月でさえもかすんで見えてしまう。

だが、背景に浮かぶ月は(はかな)げだが、その存在がいっそう龍波姫像の神秘性を増幅させていた。

反射する光沢までもが神々しい。

湖に突き出すように造られた龍神社のそばに立つ龍波姫のブロンズ像は、

水浴び直後の薄布が透けたような艶かしい姿で、どこか遠くを見つめていた。

水量次第では、足元まで水中に没して、

さながら湖から出現したようにも窺える愛と美の女神――菱湖のヴィーナス。

冬でも凍らないとされる湖を背に、龍波姫はなにを想うのか……。


「わかった。これは温泉なんだな。エメラルドグリーンの入浴剤の入った巨大風呂だ」

 

恋人、龍凪が毎年秋になるとここを訪れ、

龍波姫と愛を育んでいるおかげか凍らないといわれている。

その影響からか、カップルで訪れる男女も少なくないそうだ。

現に俺がここに赴いた際にも、

一組の若いカップルが龍波姫像を前にして記念写真を撮っていた。

「キャア~」とか「イヤ~ン」とかいう、ブリブリした女の声と共に。

そのたびに男の身体に抱きつくイチャつきようは、見ているこっちが恥ずかしいほどだ。


「ケッ。これ見よがしに俺の真ん前でイチャつきやがって」


ため息とともに舌打ちした俺は、早くそのバカップルがそこをどいてくれることを切に願った。

どいてくれないと全体像の写真が撮れない上、ここからだとアングルが決まらない。

それと、どうしても写り込んでしまうのだ、奴らが。

なにが悲しくて奴らも一緒に写さなきゃならない。


「……早く帰ってくんねーかなー」


ブツブツ呟きながら待つ間、あまりにも暇なので、

横顔の龍波姫をアップにしてカメラの画面をのぞいてみると、

ちょうど月が龍波姫の鼻先に、少し下にしてみると口先へ見えていた。


「鼻ちょうちんプーかよ。チューインガムかよ」


思わず一人虚しく突っ込みを入れながら、

無我夢中になって何枚も写真に収めてしまったじゃねーか。

だが失敬ながらも本日の……いや、ここ数年の中でのベストショットだ。

肉眼では黄色がかっていた月もカメラでのぞけば白っぽく、

いかにも膨らんだガムのように見える。

さもありなん。

そして、いつの間にやらあのバカップルは消えていた。

今がチャンスとばかりに俺は、一斉にシャッターを切り始める。



ひと段落着くと、しばしカメラを下ろし、薄闇の湖を眺望した。

意識を持ったように雲がしずしずと流れては、その薄いベールでまばゆい月を隠そうとする。 

月光のバリアーが消されることはない。

ベールがはがされれば、光の階段がまた湖面に降ろされる。

キラキラと照らし出される龍の水――


「湖よりも透明な、二人の愛は深し……か」


詩人になってしまったつもりは毛頭ないが、

日中とは違い、この光景が人を感傷的に呟かせてしまうのだ。

いつかは自分にもそんな人が現れるのだろうかと、淡い期待をも抱かせてしまう。

それもまた、菱湖の魔力だろうか……。

もし、偶然にも必然にも運命の人ができたのなら、

ここをその人と一緒にもう一度訪れたいと思わせる不思議な場所ではある。

人はそれを『パワースポット』と呼ぶのだろう。

実際、見えない力によって引き寄せられたのだとしたら、まさに菱湖の力と言えよう。

ガラガラとシャッターが降ろされる音がした方を振り返れば、土産物屋が店を閉めていた。 

今夜はこの近くの駐車場を一晩借りることにして、明日の朝、新幹線で東京へ帰る予定だ。

ここには公衆トイレもあるし、初めからここへ車中泊するつもりでいたのですべては順風満帆。


車に戻ると、コンビニで調達しておいた晩飯を食べるべくビニール袋をガサゴソとあさった。 

あさりながら煩わしさから身も心も解放させるため、

朝からケータイの電源を切っていたことを思い出し、今だけ電源をオンにしておくことにする。

ちなみに俺は断然ガラケー派だ。

スマホなんざ誰がいるか。

ただ単に替えるのが面倒なのと、別に欲しいとも感じないからなのだが、

時代の波には乗ろうとしないマイペースな俺。

案の定、電源を入れた途端、息を吹き返したかの(ごと)く、

浮幽霊のようにさ迷っていたメールが次々と押し寄せた。

しかし、その中にろくなメールがないのは承知の上なので、

ひととおり確認し終えると、再び電源をオフにする。

今、俺は誰も知る者のいない見知らぬ世界へ来ているのだ。

未知の惑星でもいい。

引き続き、元いた惑星との通信を遮断しなければならない。

そう、心を研ぎ澄ますために……。


なんとなく大学に入ったものの中退し、正社員として職には一度だけ就いたが長くは続かず、

その後はいろんなアルバイトを転々とし、結局一番しっくりきたのは、

大学時代にやっていたコンビニエンスストアでのアルバイトだった。

飽きっぽいヘタレな自分にとっては一番長い働き口だ。

俗にいうフリーターだが、そんな若者が巷に急増しているのも現状だ。

意外にも居心地はいい。

束縛されずよけいに使われず、比較的自由が利くのも魅力的だ。

だからフリーターも多いのかもしれない。

いい働き口がないから取り敢えずは……という理由も一理あるかもしれないが。

もちろん不安定な立場なので、将来への不安はついて回る。

甘えや言い訳だと言われても否定はしない。

そもそも俺はコンビニが好きなのだ。働きがいも感じられる。

だから続けられる。


「俺の人生フラフラと、この先もずっとなんとなく生きて、なんとなく死んでいくんだろうな。

 ――最高だ、それでいい」

 

考え方次第では、自然に逆らわない生き方だ。

他の動植物と同じ生き方。食べて寝て、種を残して死んでゆく……。


「――まぁ、種を残せるかどうかは置いといて」


それでも見果てぬ夢にわずかな希望を託して、

今宵、龍波姫と月を()でながら明日に備えることとしよう。

旅館代節約のレンタカーは俺を安眠に誘うため、安らぎのゆりかごへとその大役を任せられる。

座席をいっぱいに倒し、やっぱり車はいいよなと感慨深げに俺は(うらや)んだ。

好きな音楽やラジオを聴きながら自由に行きたいところへ行けるし、

こうして寝泊りすることも可能だ。

一番料金が安いレンタカーは、それなりに窮屈なのも難点だが――

車を買おうにも、コンビニのバイト代だけで貯められるほど、自分に根性があるかも不透明だ。

菱湖へは、なけなしの貯金を崩してやって来たのだから。

ちなみに朝、菱湖へ着いてから食料を調達したコンビニは、

自分が勤めているコンビニのチェーン店だった。

当然、自分を知る人間は一人もいない……はず。

冷えた弁当を食べ終えると、ペットボトルのお茶を飲み込みながらラジオをつけた。

ティータイムのBGM用に。

そして持参した暇つぶし用のゲーム機で、襲いかかる敵を次々やっつけていく。

紫と黒の混じったアメーバ状の魔物たち。

しかし、すぐに飽きてしまった。

北国に来てまでこれをする必要性を感じられない。

自分を襲ってきた睡魔という魔物のせいもあったが。

流れていたクラシックをまどろみの中で聴き、

一服しようと俺はドアノブに手をかけたが、よほど疲れていたのだろう。

ドアノブに手をかけたままカクンと意識の方を手放してしまっていた。




***


 


――どれくらいの時間が流れたのだろうか。

遠くで、軽快なサンバのリズムが聴こえてくる。

ハッと意識を取り戻し、車に搭載された時計をふと見やると、

日付変更線をとうに超え深夜零時を回っていた。

そのにぎやかな音に反応して目覚めたのかもしれなかったが、

身体を起こすとすぐにラジオを消して狭い中でなんとか身体を伸ばす。 

畢竟(ひつきよう)、身体の大きい俺にはこの車は狭すぎた。


「優雅にクラシックなんかを聴いてしまったから、眠ってしまったんだな」

 

できずにいた食後の一服をし直すため、ドアを開けて外に出た。

しかし――、

 

「いてて……」

 

身体の節々が筋肉痛になっていた。

おそらく鏡岩までの急な山道を登ったのと、狭い中で眠った両方が原因だろう。

眼下に広がる深夜の湖水は、いよいよ神秘さを増していた。

星がいくつも瞬いている。

まるで天井に散りばめられた宝石のように。

中天の冴えた丸みを帯びた月が、

先刻よりもまばゆく龍波姫像を煌々(こうこう)と強く照らしていた。

月の女神と呼んでもおかしくはない。

今すぐ覚醒して動き出すのではなかろうかと、そんな錯覚さえ覚える。

歩道の手すりに両肘をつきながらタバコをくわえ、

火をつけようとズボンのポケットからライターを取り出すが、

こちらを窺う龍波姫の視線が、煙たそうな嫌そうに見え――

(いな)、湖面の上でなにかが一瞬光った気がして、俺はタバコを吸うのを止めた。

瞬きを数度繰り返し、しばらくそのまま待機していると、また光がチカッチカッと光り輝いた。


「なんだなんだぁ?」


手すりから身を乗り出して凝視する。

チカッ……チカッチカッ……チカッ……。

光は同じ空中からではなく、あちらこちらを移動し明滅していた。


「――これは夢か? 俺はまだ夢の続きを見ているのか?」

 

それとも、薄暗い中でゲームをして目がおかしくなってしまったか。

だが明らかに、目の前で光が飛び交っている。

身体中の筋肉にも、痛みが発信され続けていた。


「まただ!」


夢であってもなくても見間違いではないことを確信した俺は、


「あの光ってまさかUFOか!? さすがはパワースポットだぜ!」

 

爛々(らんらん)と目を輝かせながら、タバコとライターをポケットに押し込み、

カメラを取りに痛みを(こら)え車へとダッシュした。

恐怖心もあるにはあるが、

今は初めて見る未確認飛行物体に興奮し、その高揚感の方が勝っている。


「この際、ヒッシーでもなんでもいい! スクープだ! ワハハ!」

 

アマチュアカメラマン魂(仮)が燃えていた。

光は上下、左右、斜め……結構な広範囲に現れる。

しかし――、あれだけ何枚も発光した瞬間を激写したにもかかわらず、

撮れていたのは真っ暗闇ばかりだった。

たまに、月光に輝く龍波姫像が薄らぼんやりと……。


「ちぇ、なんだよ。一枚ぐらい撮れてろっての!」

 

そして光はその後、あるときを境にパタリと消えてしまった。


「……もう終わりか? もっと乱舞するとか派手に出て来てくれよ」

 

カメラを構えながら、再び沈黙の闇に閉ざされた湖畔へ催促する。

と、そのとき――、キィーキィーとけたたましく泣き声を発した鳥が、

静寂(しじま)を突き破って羽ばたいていった。

まさにその直後、なにかが俺の面前、金色の龍波姫像の真上に現れた。


「!」


大きく目を見開き息を殺す。そこに浮かんでいた『人』に驚愕し。

長い髪の中に白い小さな顔が()えていた。

鋭い目つきで睥睨(へいげい)するかの如く――。

赤い唇は艶やかに濡れ、身震いするほど妖艶で、

不気味というよりも今まで俺が見たどんな女よりも美しかった。

あるいは月光がそう見させていただけだったのか……。

女は無表情のまま、硬直した俺をジッと見据えると、

無言で北の方角を向いてスッと掻き消えていった。

ハッと我に返った途端、呼吸困難に陥った俺は、ヘナヘナとその場に座り込む。


――幽…霊……?


俺はとうとう幽霊を()てしまったのか!? 

あの光の正体は幽霊だったってのか!? 


ギャ――ッ! 


……と、今になって悲鳴を上げそうになるが、腰を抜かしている上にその声すら出なかった。

どこか冷たい感じのする女だったが、体温さえ感じられない幽霊ならば冷たくても致し方ない。


「空飛ぶ円盤ならぬ、空飛ぶ美女ってか……? ハ、ハハ」


ようやく搾り出せた第一声は、情けなく震えていた。

恐怖が大きすぎると、人は笑ってしまうもの。


「み、視ちまったよー、笑えねー! ハッ、ハハハハ……。霊感ゼロのこの俺が――」 


――ふと、女が消えた北の方角に、

それまでなかった灯りが点されたのを俺は見逃さなかった。

石座神社がある方向へ。

となると、あの美女は龍波姫の亡霊……?


「ないない! そんな馬鹿なことは絶対にないっ!」


と、ひとまず否定してみるが、どうも引っかかる。

幽霊もUFOもいないよりいる方に俺の天秤は傾いているが、あの灯りがどうも気になるのだ。

土台にしっかりと埋め込まれたブロンズの龍波姫像のように、

筋肉痛の足をなんとか引きずって車に乗り込むと、

エンジンをふかして勢いよく石座神社方面へと突き進んでいった。




***

 



先程と同じ駐車場に車を停めて神社へ近づくと、社殿の中から明かりがにわかに漏れていた。 

こんな時間に誰かがいるのもおかしいが、近々なにかの行事があるのかもしれない。

あの女が消えたと同時に点されたにしては、タイミングが良すぎないだろうか。

(いぶか)しげに思っていたが、光がまた湖上にチカッチカッとうごめいる。

まだあの女はそこにいると睨んだ。


「いてっ、いててっ」


と呻きながら、鳥居の方へと駆け寄る。


「一体なんなんだよありゃ? 幽霊にしては動きが俊敏すぎるだろ?

 ……って、見たことねーけど」

 

空飛ぶ女の身体には青白いモヤがかかっていたので、

先入観で言っても幽霊である可能性は高いのだが。


「やっぱり幽霊、なのか……?」


鳥居の下の岩盤から傍観していると突然、俺に向かってその光がパアーッと光速で飛んで来た。


「うわっ!」


叫び、咄嗟に頭をかばって目をつむるが、なにかがいる気配を感じた俺は、

ゆっくりと両腕の間からまぶたを開けてのぞき込む。

そこには、紛れもないさっきの女が立っていた。


「ぎょへっ!」


俺は素っ頓狂な声を上げて数歩後退るが、鳥居の柱に背中をぶつけ、身体をよろめかす。  

相変わらず女は怜悧な瞳でジッと俺を吟味しているが、

至近距離で見るとやはり美貌はズバ抜けていて人間離れした美しさだった。

人間であるかどうかはともかく、いかにも性格のきつそうなその女は、

突然プイッと俺から視線を外すと、

「――どけ」と冷たく言い放ち、社殿の本殿の中へと消えていった。

その時、シャラン……という清らかな鈴の音も微かに聞こえた気がした。


「幽霊に話しかけられた……マジかよ……。

 ま、まさか、龍波姫だっていうんじゃねーよなぁ?」


――しかも性格ブスときた。

心の中で悪態をつく。

美人はたいてい性格が悪いと聞くが、事実無根だと信じてきた。

興醒めしつつもなぜか反対に、興味はムクムクと頭をもたげている。

閉ざされたあの本殿の奥に、その答えがきっと待っているのだ。

俺は忍び足で、社殿の白い垂れ幕へ目と鼻の先まで近づく。

そこで、ふいにとぐろを巻く鋳造製の慎ましやかな龍波姫の像をチラと横目で見やるが、

一向に気にせず灯りの漏れた側面の戸口へ足を忍ばせた。

中から人の気配が感じられる。小さな物音や声もときどき聴こえていた。

一体全体、中でなにがおこなわれてるんだ? 

あのおっかねー女もいるのか?

のぞき見、盗み聞きに若干の後ろめたさはあるものの、一度沸き起こった興味は津々だ。

すると中からあの清らかな鈴の音が、シャラン……シャラン……と規則正しく聴こえ出す。 

今度はずいぶんとはっきりと聴こえていた。

誰かが実際に鳴らしているのだろう。

俺は更に接近し、横の戸口の真ん前に立ち、隙間から前屈みの体勢でのぞき込もうと試みた。

しかし――


ガタンッ! 


しくじった。


「誰だっ!?」


本殿の中から男の声が響く。

バンッと戸が開かれると、三人の男性と一人の巫女姿の女性が見えた。

明るさに目が慣れていない俺の目がくらむ。


「君は……!」


聞き覚えのある中年男性の声がした。


「この若者を知っているのですか、シゲさん?」

 

シゲさん……?


俺が両目を細めながら顔を上げると、

郷土史料館館長の安倍さんが驚いた様子で立ちはだかっていた。


「――鉢山くんではないか。こんな時間にどうしてここへ? 

 朝早く帰るんだろう? 寝なくていいのかね?」


それは俺も同じ気持ちだった。こんな時間にどうして館長がここへいるのだろうと。 

それでも今ここで怪しいのは、東京者の俺の方に他ならない。


「え、いや、えっと……菱湖の上に、謎の光と宙に浮く女性が視えたもので……それで……」

「なにっ!?」


一同が蒼白した面持ちで瞠目(どうもく)する。

三人の男たちの、大きく見開かれた目や動揺を隠せない表情から察するに、

ただごとでないことを物語っていた。

俺は続ける。


「それで、消えた女性を辿ってこちらへ窺ったら、

 社殿に灯りが点っていたもので……つい出来心でのぞいてしまいました。すみません」

「お前さんは、本当にそれらを、その目で確かに視たのか?」

 

館長が神妙な顔つきで訊いてくる。どこか張りつめた眼差しだった。

なにがなんだかわからず、俺は正直にただ首肯(しゅこう)して応える。


「はい。長い髪の、とてつもない美人で……今も鳥居の下で会いました。

 そしてこの社殿の中へ消えてゆきました。

 あれはやっぱり幽霊だったのでしょうか、安倍さん」

 

館長や他の男性陣は、互いに目を見合わせ鷹揚(おうよう)に頷き合っていた。


「――鉢山くん。今日の午前、郷土史料館に来なさい。話したいことがある」

 

逃げられないようにでもするつもりなのか、

突然がっしりと俺の両腕を掴んだ館長が何食わぬ顔で告げる。

それは、否応なしに必ず来いと言っているようなものだ。


「は? いや、でも俺、今日の朝、東京へ帰るんですが……」

「君にはしばらくここにいてもらうことになる。

 急で申し訳ないが、帰りの新幹線の席をキャンセルしてくれないか。

 もちろん、キャンセル代は我々が負担する。

 鉢山くんにはこれから、いろいろと協力してもらいたいことがある。

 当面の費用などはこちらで工面しておくから、どうか頼まれてくれないか」

「はぁ? だって俺、今夜仕事入ってるし、レンタカーだって返さなきゃなんねーし――」

「それもこちらでどうにかする。心配はいらない」

「どうにかってどうすんだよ!? 心配はいらないって、するだろ普通!?」

 

思いっきりタメ口になってしまっていた。

その上、


「拉致監禁かよ! 俺をどうするってんだよ! 金なんてねーぞ!」


テンパってもいるらしい。

当たり前だ。


「ハハハ。それじゃ犯罪じゃないか」

 

男の中で一番若そうな、三十代ぐらいの青年が笑って言った。


「笑い事じゃねぇ!」

 

これは夢だろうか。

きっと夢に違いない。

車の中で今もクラシックを聴きながら、悪夢にうなされている頃だ。

そしてそのうち、軽快なサンバのリズムに乗って……ではなく、

叩き起こされてハッと目が覚めるはずなんだ。

――だから早く起きろ俺!


「帰る!」


怒声を張り上げて暴れかけようとした寸前、それまで静かに御神座の前に座していた巫女が、

優雅にスッとその場に立ち上がった。

立つ間際、シャラーン……と、あの鈴の音が響いて、目を剥く俺は息を呑み込んだ。

その音は、巫女が舞うときに手にして鳴らす神楽鈴(かぐらすず)の音だった。


「あ、あんた、さっきの――」

 

美女ではなく、グルグルメガネの女……と言いかけて口を閉ざす。

巫女装束を身にまとっているが、あのメガネは見間違えるはずもない。

彼女は巫女だったのか?


「こんばんは。またお会いできましたね。あのあと、無事に鏡岩はご覧になられましたか?」


朗らかな満面の笑みがこぼれ落ちていた。

メガネが邪魔ではっきりとはわからないが、口元だけは確かに柔らかな雰囲気をまとっている。

やっぱり顔より性格だよなと、心のうちで俺は改めて確固たる思いに至っていた。


小野龍呼(おの りゅうこ)と申します。龍を呼ぶと書いて龍呼です。よろしくお願い致します」

「あ、鉢山公介です。こちらこそよろしく……じゃねぇっ! あんたら一体何者なんだ!?」

 

怒ってはみたものの、なぜか俺の心は意外にも落ち着いていた。

不可解なのは俺自身。

怒る気力がパッと喪失したかのようだった。

その後は全身に、微弱の電流が流れるようにビリビリ感が駆け巡っている。

寝不足や疲れ、それに筋肉痛とあらゆるものが合わさって発症したものだろうか。

脱力して、ハァと息を吐く。

急に面倒くさく感じてしまった。


「至極まっとうな疑問です。夜明け後、郷土史料館にてご説明致します。

 一同、心より高鉢さんのお越しをお待ちしておりますね」

 

にっこり微笑んだ龍呼が、やんわりと応じる。


「今言えよ今! じゃなきゃ俺は明日の朝帰るぜ」

「今は申し上げられません。お楽しみは後ほどということで、ご勘弁下さいね」

「勘弁してほしいのはこっちだっつーの!」

「――お願い……帰らないで……」

「――……」

 

龍呼は切実そうな声を発したあと、俺をジッと見つめている。

それでも儚い月のような頼りなさに大きく心が揺れ動いた。

しかし彼女の素顔は、いまいちわからなかった。

境内の龍波姫の像よりも何重にもとぐろを巻く、渦のような底の知れない大きなメガネのせいで、

頬から額までが未知の空間で明瞭化しないのだ。

ああ、面倒くさい。

もうどうでもいいや。

それにしても龍呼とは珍しい名前だが本名なのかね?

すっかり毒気を抜かれた俺は、代わりに引きつった微笑みを龍呼に送ってやった。

うまく彼女にそそのかされ……丸め込まれた気がしないでもなかったが、

ただこのほんわかとした性格に骨抜きにされるであろう予感だけは抱いていた。

その証拠に、彼はもう既に身も心もうずいているのだ。

ピリピリと。


ピリピリ……ん? 

ビリビリ? 

まぁ、どっちでもいっか。

 

これを運命の出会いと言わずになんと言う? 

ようやく訪れた二十一歳の春、いや、秋か。

その電流の正体もあの美女の正体も、後に知ることとなる俺だったが、

すっかりこの瞬間は、あの美女のことなど頭から抜け落ちてしまっている。

 

男なんて単純な生き物だ。

その単純さは、今後も遺憾なく発揮されていく。

予期せぬあらぬ方向へと――






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