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レインボー・エンジェルの犬  作者: 吹留 レラ
【第一章】 空飛ぶ美女
2/16

(2)

 


突如、眼前に飛び込んで来た翡翠の宝石――菱湖ブルーのまぶしさに俺の目がくらんだ。

太陽光をいっぱいに吸い込んで、キラキラと輝く湖畔は厳かな静寂に包まれている。

菱湖の一周は約二十キロメートル。

一時間あれば車で一周できる道路も整備されているので、快適にドライブも楽しめそうだ。 

このまま何週でも周りたくなる衝動に駆られる。

湖面や木々を巡る風も実に爽やかで、詩の一つや二つを思わずそらんじてみたくもなった。

何も出てこなかったが。

今は晩秋の十一月――観光シーズンがすぎたとあって車もほとんどなく、

夏場に多いサイクリングをする人も見かけない。

ただでさえ道幅の狭い湖岸ギリギリの道だ。


「ペーパーはペーパーらしく、よそ見はせずにハンドルを両手でしっかりと握って、

 慎重に慎重を重ねた安全運転をだな……」

 

時速四十キロメートル毎時。

後ろに連なる車にとっては迷惑かもしれないが、

その連なる車もいないので、ホッと胸をなでおろす。

それでも背筋を伸ばしてまずは下見段階として、時計回りに菱湖畔線をひた走ることにした。

次第に運転も慣れてくると、チラッチラとよそ見をしてしまうのが人間の常というもの。

魅惑的な瑠璃色のきらめきが窓越しに誘惑し続けているというのに、

それを拒むのはいかがなものか。

いちいち車を停めて眺めるよりも、

移動しながら眺めた方がなんとなく美しさもいや増すような心地もする。

決して停止するのが面倒くさいという怠惰な理屈なんかではなく――

こういう人間が事故を起こしやすいのは明白だ。

 

菱湖は、瑠璃色どころか何色にも濃淡が変わる。

水色、青、紺、緑、黄緑、深緑。光の当たり具合によっては、銀や白金……。

道路沿いにはホテルや旅館を始めとして、

キャンプ場、海水浴場、砂浜、遊覧船やヨットハーバーなどが点在していた。

半周したところで、”おたつ茶屋”というドライブインが目に入り、

広い駐車場に何気に立ち寄ってみることにした。

名物らしいみそ餅やイワナの串焼きを昼食にし頬張りながらふと俺は、

向かいに見える朝鮮半島の王陵にも似た土まんじゅうから目がそらせなくなった。


「……なんだ、あれ?」


自動販売機で買ったお茶で噛んでいたイワナを一気に流し込み、

椅子から立ち上がって颯爽と歩を進めていく。

魚墳(ぎよふん)とある。どうやら魚の霊を弔う塚のようだ。

そのそばにはカッパの淵。しかし、それらしき生命体は、どこにも見当たらない。


「……カッパは留守のようだな。もしかしたら、居留守かもしれんが」


そんなことはどうだっていいのだが、不思議と魚墳が気になったので、

観光客の必需品であるデジタルカメラで一応写真を撮っておくことにした。

ついでにカッパの方も。

ブログなどはやっていないが、さっき食べたものも実はちゃんと撮っていたりする。

撮らずにはいられない性分なのだ。

俺の血が騒ぐ。


その後は、定番の龍神社と妖艶に佇む黄金にきらめく龍波姫像へ。

さすがにここには人が集まっている。記念撮影を撮る人がひっきりなしだ。

目の前の土産物屋も、客の呼び込みに忙しそうだった。

至る角度から艶かしい龍波姫像を思う存分写しまくって、

次は石器時代や縄文時代の遺跡などをひととおり眺めた。

本命の名勝地、石座神社は最後にとっておいた。

ここを一番じっくりと見学するために。

なんと言っても鉢山がある場所だ。

何度でも言うが、そこは俺にとって運命的ななにかを感じてならない場所なのだ。

湖の周りを一周した所で、郷土史料館なる市立の博物館に向かった。

そして、俺が迷うことなく資料館の中へ入ってみようとしたそのとき――


「うおっ!」


巨大な赤い口と白いギザギザの牙が飛び込んできて一瞬足がすくんだ。

今にも襲いかかって来そうな錯覚に陥る。

顔だけ見ればワニに似たそれは、ガラス越しにこちらを向いている龍の模型だった。

おそらく祭りかなにかで使われる龍の神輿(みこし)なのだろう。


「――な、なんだ、模型かよ。お、驚かせやがってこのやろっ」

 

図体はでかいが気は小さい。

勘弁してほしいと、俺は苦言を申し立てる。


「それにしても、でっけー龍の模型だなぁ、おい……」

 

気を取り直したその瞬間、龍と目がかち合った――ように思えて、再び息を止めた。

多分気のせいだ。龍はさっきから一ミリだって動いてはいないのだから。


「やっ……べぇ――! やっぱ相当疲れてるんだわ俺……」

 

言いながら、それでも史料館の中へいそいそと入館した。 

拝観料を払って中へ入れば、菱湖近辺で発掘された石器や土器や土偶(どぐう)など、

古い持代の遺物がケースの中に整然と並べられていた。

土偶には若干心惹かれるものがあったが、他にもカスリの着物などの生活用品や、

丸木舟などの農耕器具、菱湖の歴史や湖の形成などが解説つきで展示されてある。

ゆっくり歩きながら傍観する俺がふと足を止めたのは、あるパネル写真の前でだった。   

水中に潜って写した写真なのだろう。


「へぇ、龍凪堆(たつなぎたい)龍波堆(たつなみたい)……」

 

初めて見聞きする名称だった。

写真付きでなければ、素通りしてさほど興味も沸かなかっただろう。

ますます湖のように深く神秘性を感じさせる。

立ち止まって直視していると――


「それは湖底の小火山丘と言って、湖の底にある火山です」

 

壮年の男性の声がして、俺は後ろを振り返った。

そこにいたのは、入館する際に拝観料を渡した相手だった。

見た目は六十代の中肉中背。

髪はロマンスグレーで、どこか気品のある気の良さそうな男性だった。

『素敵なおじ様』と、マニアな女子がいたら発狂しそうな……。

客は自分しかいないようなので、暇ついでに案内をしてくれるつもりだろう。


「ご存知ですかな? 菱湖というのは明治時代から呼ばれた名前で、

 それ以前は菱潟湖、双龍潟、翡翠湖、龍の水……など、

 様々な呼び名があったとされてましてな」 

「そうなんですか。やっぱりこの湖のように奥が深いんですね」

「はっはっは。ところで兄さんはどちらから?」

 

ロマンスグレーの白髪の部分が、天井の照明に当たってキラッと輝いた。

こうして訪れるのはたいてい観光客であろうから、俺もよそ者であることを予想したのだろう。


「東京です。今朝、新幹線で来ました」

「それはそれは。遠路はるばるようこそ」

「ええと……、もしや館長さんですか?」

「ええ、そうです」

 

なんとなく口にしたことが的中した。

充分そんな雰囲気をまとっていたからだ。


「申し遅れました。私が館長の安倍(あべ)です」

「あ、鉢山公介です」

 

つられてフルネームで応えてしまったが、その名を耳に入れた途端、

館長は面白いものでも聞いたかのように顔をほころばせて、

「ほぉ、鉢山さん」と鸚鵡(おうむ)返しする。

はて。

そんなに珍しいわけでも驚く程の名字でもないのだが、この手の反応の仕方は、

例の”鉢山”と同じだからという点で興味を示してのことなのだろうか。

俺には判別がつかない。

その後も、館長との話はしばらく延々と続いたのだが、彼は想像した以上に気さくだった。 

次第に打ち解けていったのか、他人行儀は不要だとでも言わんばかりに、

彼の口調も砕けて徐々に俺も親しみを感じるようになってきていた。


「でもなぁ、この菱湖も致命傷を被った時代もあったんだ。ほら、ここを見てみろ」

 

指が指し示したのは、『珠の川毒水』という部分だ。


「珠の川……毒水……?」

 

字を見ただけで毒々しさが伝わってくる。


「菱湖の北側にある珠の川からの毒水の流入だ。

 昭和十五年頃、大東亜戦中に電力会社の電源開発に発電所の水源として、

 菱湖が一大貯水池として使われたことがあったんだ。

 毒水とはつまり強酸性の湯のことだが、人間にはいいが田畑や魚には毒水だった。

 それで菱湖に棲んでいたほとんどの魚族(ぎょぞく)が死滅してしまった悲しい過去がある」

「そうだったんですか。魚族……」

 

魚族というのは魚の種類という意味で、

かつては沢山の種類の魚たちが悠々と泳いでいたのだろう。

館長によれば、その後、人々の保護活動の努力もあり徐々に回復し、

耐毒性を帯びたニジマスやイワナなどが生息するようになったのだとか。

涙ぐましい努力のかいがあったというものだ。

しかし一方で、発電所の水の増減によって岩盤の風化も激しく、

水位は十メートル以上も下がって昔の面影はないともいう。

今でもこんなに綺麗な湖なのに、一体昔はどれほど美しかったのか、

俺には想像するのも至難の業と言うものだ。


「ところで、今日はこの近くの旅館にでも泊まっていくんだろう?」

「いえ。これから石座神社へ行って、鏡岩(かがみいわ)を目指します。

 夜は菱湖を眺めながら、その辺で車中泊をする予定で――」

 

館長の双眸が束の間、眇められる。

なにか変なことを口にしただろうかと考えるも、特に思い当たる節は俺にはなかった。

車中泊だって、別段珍しいことでもないはず。


「ほぉ、鏡岩へ。……だがなぁ、もうじき陽が沈む時間だぞ。

 この時期、午後四時を過ぎれば一気に暗くなる。

 明日にしたらどうだね? 山道も結構きついぞ」

「大丈夫です。体力はまぁ、ある方なので。なるべく今日中に行っておきたいんで、

 これから急いで向かいます。いろいろとお話をお聞かせいただきありがとうございました。

 とても勉強になりました。――では」

 

お辞儀をした俺は、写真撮影も許可されていた館内の展示品のいくつかを撮影し、

カメラ小僧よろしく首から提げたデジタルカメラを大事そうに持ち直し、その場を去っていった。

見ていてもさして面白くもない俺の後ろ姿を、

館長がしばらく見つめていたことなど知る由もなく――




***




「しっかし、この色ってのは本物なんだな」

 

石座神社のゴツゴツした岩盤から、水色の絵の具を混ぜたような菱湖ブルーをのぞき込む。

落ち葉が岩場の隙間に集まってチャプチャプ波に揺られていた。

昔は今より十メートル以上も水位が高かったというから、

この岩盤も水中に没した鳥居のようだったのかと思いを馳せる。

ゴツゴツしていて至る所に穴がある理由も水によるものだと考えれば納得できた。

水は澄んでいるが、さすがに底までは見えない。

数匹の群れをなす小魚が悠然と泳いでいた。

なんでもない光景が愛しく思えてしまうのは、

珠の川毒水で魚族が死滅した話を聞かされた件が大きいのであろう。

 

菱湖の北側に位置する石座神社は、

朱色の大きな鳥居の目立つ、縁結びの神、龍波姫を祀る神社だ。

と同時に、美貌成就と不老長寿という、世に稀なご神徳をも授けられるらしい。

美貌が男にも授けられるのかどうかは不明だが、

湖岸にある剥き出しの岩盤の上にその朱鳥居(あかとりい)が立ってあるため、

どうも一般的な鳥居とは違う変な感覚になってしまう。

湖の上から、あるいは向こう岸から鳥居を潜って拝むような、

まるで湖から現れる龍波姫姫が通る道だとでも言わんばかりに(うかが)えた。

それは考えすぎかもしれないが、実はこの奥の鉢山を神聖視しているのではとも思ってみるが、

それこそ鉢山びいきな俺の考えすぎなのだろうか。

その鉢山には、注目すべき鏡岩がある。

龍波姫が化粧をして身なりを整えたという巨大な鏡の石があった。

石段を上り、締め切った社務所の前まで来ると、

境内の隅には車が一台あるだけで他には人っ子一人いなかった。

俺はイチョウの落ち葉に包まれた手水者で手と口を清めると、

閉ざされた本殿の方へと身体の向きを変えた――と、

本殿の右側に、龍波姫らしき鋳造製の女人像が鎮座しているのに気付く。

上半身は人間だが、下半身が蛇の如くとぐろを巻く蛇神とも龍神とも捉えられる龍波姫。

しかし俺の目には――


「人魚……」


のように映ったが、見た目にはほとんど差はないも同然だ。



 

ひととおり神社のお参りを終えると駐車場近くにある、霊泉と鏡岩へ向かった。

霊泉は、龍波姫が喉を潤した泉である。彼女はここで龍になったと伝説は語っていた。


「今更だが……本当なのかね」


タブーの言を継ぐ。整備されているおかげで、

ゴクゴク飲めるほどの泉がどこにあるのかわからなかったが、

小さな(ほこら)と橋が架けられ、敢えてその下を小川がチョロチョロと流れてあるだけだ。

昔と今では地形がだいぶ異なっているのかもしれない。


「――……」


反面、初めてここを訪れたのに、さっきから懐かしい気がしてならないのはどういうことか。


「そういえばあの夢――」


この場の雰囲気が似ている気がした。

夜に来ればもっとわかりやすいのだろうが、ここで自分は水を飲んでいた気がする。

水面まで顔を近づけて、無我夢中で水をゴクゴク飲み続けていた。

だが、そんな水の湧き出る泉は見当たらない。


「しょせん、夢は夢……か。さて、次は鏡岩だな」

 

軽く受け流す俺は、更に先へと足を延ばした。

階段を上り、歩きやすく整備された林道を颯爽と歩いていく。

間もなくすると、『叶橋(かのうばし)』が現れた。

なにを願おうか渡りながら一瞬迷ってみるも、


「運命の子(超レアものフィギュア)と出会えますように」


とすかさず祈る俺が虚しい。

少しだけ冷たく感じる秋風が、森の中をサワサワと駆け抜けていった。

風が葉を揺らし、それが地面に降り積もった落ち葉の上に着地する以外の音は聞こえない。

俺は、足元のところどころ色素の薄くなった落ち葉を踏みしめながら無言で登っていった。 

それにしてもきつい。

結構な急勾配だ。

一応山だから当然といえば当然なのだが、

勾配のきつい急斜面はもはや登山道と言ってもおかしくはない。

こんな所でこんなに息切れをするはめになろうとは……。

甘く見ていた。

さすがは一筋縄でいかない鉢山と名の付く山。


「――誰が体力はある方だって? ええ?」


郷土史料館で、見栄を張って館長に告げたセリフを思い出しながら苦笑いを浮かべる。

これも呪いだろうか。

運動不足が今頃になって(たた)った。


「ハァ、ハァ、ハァ! 酸素! 酸素! 酸素!」

 

呼吸が困難だ。息をするのも煩わしい。

自動的に肺に入ってくれる大量の酸素が欲しいぜ。


「ああ、駄目だ! しんどっ!」


木段にさしかかった所で、とうとう一段目にドッカと俺は腰を下ろした。

全身で息を吐いては吸ってを繰り返し、急いで肺に循環させる。

こんなに体力がなかったとは、我ながら情けない。

なにより人がいなくて助かった。

こんな無様な姿を誰にも見られたくはない。


「年かぁ~」


二十一歳の秋を迎えたばかりの俺は、

二十一歳以上の皆さんを敵にするかのような暴言を吐きつつ、

落胆して深々とため息を漏らした。

ふいに、龍波姫もここを登ったのだろうかと感慨深げに辺りを見回してもみたが、伝説は伝説。

どうせ後世の人間の作り話だろうとあくまでも冷ややかに、

しかし証拠はなくてもどこか信じたい部分も捨て切れずにいる。

やっぱり自分は中立の立場がいいんだなと、改めて感じていた。


「ん……?」


そこへ、誰かが木段を下りて来る足音がして、俺は頭上を振り仰いだ。


「へ」


なんたることか、若い女性が一人、軽快に降りて来るではないか。

人がいたことに動揺し、俺は咄嗟に立ち上がった。

まだ乱れている呼吸をむりやり整え、顔を凛と澄まして平静さを装ってみせる。


「こんにちは」

「……あ、どうもこんにちは」

 

小魚のように愛らしくも透き通るような優しい声が落とされ、

思わずつられた俺も自然に会釈を返していた。

俺の鼻の下も少しだけ伸びている。

年齢は大体同じくらいか少し下か。

白い花びらのようなシュシュで、後ろに一まとめに束ねた長い黒髪が、

木段を下りるたびに左右に揺れている。


「鏡岩はもうすぐですよ。頑張って下さいね」


なんという優しい女性だ。

まるで菱湖の女神のようではないか……って見たことねーけど。

やっぱり女は顔より性格だな。

それとやけにスレンダーだが、

出る所は出ていてスタイルもいい……なんてことを追加で考えながら、

俺は図々しくも彼女の顔をすれ違いざまに見据えた。

そこで俺は、思わず呆然と突っ立ったまま、彼女から目が離せなくなっていた。

足取りも軽く、慣れたようにスタスタと下りていく彼女が小さく遠ざかったところで、

ボソリと呟いた。


「マジかよあのメガネ……。漫画に出てくるようなグルグルを描いてたぞ」


あんな冗談のような分厚いメガネのレンズを、生まれてこの方見たことがない。

レンズの向こう側がまったく見えない牛乳瓶の底以上のメガネなど、この世にありえたのか。


「漫画かよ。てか、あんなの一体どこで売ってんだよ。あれこそ超レアものだぜ」

 

外国人風に両手を広げながら肩をすくめた俺は、再び登ることを決意した。

あの女に行けてこの俺に行けないはずはないと、士気を高め意気揚々と前進する。


「――それに、女神が必ずしも美しいとも限らないしな」

 

素顔を確認したわけでもないのに、

本人がいなくなってから失礼なことをサラリと述べてしまう(小心者なので)。

それと俺が、顔よりも性格重視だということを改めて伝えておく。

そういう自分は両方残念だったが……。

俺こそ救いようのないクズだな。


「俺の人生って一体なんなんだろうな」

 

平凡すぎる毎日が淡々と過ぎ去ってゆく。

刺激のないつまらない人生。

自分がまるで人形にでもなったかのように感じるこの頃、いや、もうずいぶん前からだったが。


「……さてと、もうひと踏ん張りすっかー」

 

考えたって答えが見つからないのはわかり切っている。

だから深く考えるまでもなく、ため息以上に重い足取りで「ハァ~どっこいしょ~」と、

落ち葉の敷きつめる木段に右足をかけ、老体さながら一段一段上っていく――人生のように。



 

ゴールのウッドデッキに到着した頃には、完全にへばっていた。

ただでさえ寝不足なのに頑張る俺ってどうなんだろう。

でも勝手に足が前へ前へと進んでしまうのだからしょうがない。

木々の間から、わずかに菱湖の湖面が垣間見える。

そして、鬱蒼(うつそう)とした木立に囲まれた注連縄(しめなわ)の掛けられた巨石――鏡岩は、

他の石を凌ぐ圧倒的存在感を誇示してここから見下ろせた。

人工的にはめ込まれたような中央の八角柱は、別の質感の石。

鏡だといえば鏡に見えないこともないが、用途がまったく不明の奇妙に謎めいた巨石だった。


「あの石に顔なんて映んのかぁ? 湖の方が鏡にふさわしいだろ」


ピカピカに磨けば映るのだろうか。

どちらかと言えば、

デッキの欄干の隙間にびっしりとはめ込まれた小銭の方が気になるところだが、

鏡岩の存在は見れば見るほど、先程の女のメガネと並んでいっそう深まるばかりだ。

デジタルカメラのシャッターを何枚も押す。

アマチュアカメラマン魂……ではないにせよ、いつ何時も写真撮影は怠らない。

液晶モニターの現地時間表示が、間もなく四時台に切り替わろうとしていた。

郷土史料館の館長が忠告していたことは事実のようで、山の向こうに陽は沈み、

気付けば辺りは一面に闇の(とばり)を下ろしている。

そのコントラストは、まるで光と影の二重奏だった。



駐車場に戻って来た頃には、辺りはしんと静まり返っていた。

みな、帰ってしまったのだろう。

さっきの女も誰も見当たらなかった。

数十台の車が置ける駐車場には、シルバーメタリックのレンタカーだけがポツンと寂しげに、

一日かしずけばいいご主人様の帰りを待ち続けている。


「おお、愛しの華麗なる銀龍よ。今戻ったぞ。さぞ寂しかったであろう」


ただでさえ静かすぎる静寂が、殺意を孕んで不気味さを増したように感じたのは気のせいか。 

逢魔時にはまだ少し早いものの、この森閑とした無響が悪く言えば不気味なことこの上ない。 

どうして光明と暗黒とでは、こうも包み込まれる世界が違って見えるのだろう。

例え同じ場所であったとしても……。


「自然がいかに畏怖(いふ)すべきものであるか、無言で教え諭されているようにも感じるな」

 

カサリ、と葉のこすれる音が大きく耳に届いた。

それだけで俺の心臓は跳ね上がり、

今この瞬間も得体の知れないなにかが自分を見ているような気分に苛まれる。

さしづめ、あのとぐろを巻いた鋳造製の龍波姫が……。

俺は、ロック解除した銀龍に急いで飛び乗ると、

慌ててエンジンをかけて再び龍神社へ向けて出発した。

そこは今夜の野営地でもある。

同じ龍波姫の像でもあちらの像は、

見た目の質感や雰囲気から怖いというイメージは何倍も薄らいで見えるのだ。

確認済みである。






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