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レインボー・エンジェルの犬  作者: 吹留 レラ
【第五章】 鏡の人魚
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東京は渋谷区の築三十年のボロアパートで母と暮らす俺は、

特にこれという目的もなく適当に入った三流大学をおよそ三ヶ月で中退し、

安い自給のコンビニでバイトをしながら自動車免許を一発で取得し、

その後に就職した某会社を六ヶ月で辞め、再び因縁のコンビニでバイトを始め――

そこで見かけた地図を休憩中に休憩室で座り読みし、

同じ名字の山に興味を惹かれ一週間と満たない間に、気が付けば菱湖にいたのだった。

ときどき店に入荷されるロボットアニメなどのフィギュアを愛でながら陳列する日々。

それはそれで喜びであり幸せだったが、果たしてそんなことをするために自分は生まれて、 

そしてこれからも生きていくのだろうかと考えると、ものすごく空虚な人生に感じられた。

 

一方、平和だからこそそんな余裕も感じられて、のほほんと日々を暮らせるのだとも思う。 

一人暮らしもしてみたかったが、怒ると怖いがその実、

極度の寂しがり屋の母を一人置いて出ていくことは心苦しかった。

自分に金がないという理由もあるが、何せ二十一年間、

女手一つで自分をここまで育ててくれた母親だ。

マザコンの自覚はないが、マザコンだと思われても構いやしない。

親を心配してなにが悪い。

とはいうものの、一人で遠くへ出かけてみたくなった。

行き先は告げずに。

そして、そこでどういう縁なのか、彼らと出会った。

菱湖研究会のメンバー、安倍茂、草薙洋雄、渡会裕一、小野龍呼、南部翠。

一ヶ月という短い期間だったが、不思議な体験もした。

今でもあれは夢だったのではないかと思えるくらいに。

それなりに楽しかったし、非現実的で刺激的だった。

二柱の龍神、龍波姫と龍凪も目撃した。

そしてなによりも――、胸が熱くなる想いも味わえた。

彼女のことを想うだけで、心の奥が甘く淡く切なく……グルグルと渦を巻くように――

しかしそれは泡のように消え去った。


あまたく星々の――、広大無辺に(きらめ)く宇宙という宝石箱の中に、俺は包まれていた。

白く輝く透明なクリスタルダイヤモンドの気泡が、ここ彼処(かしこ)で光り輝いている。

まるで光となった魂のパレード。

幻想的なスローモーションの世界。

見上げた天上界には、雪の華が舞い散る様子が透き通って見えた。

 枝についた霧氷の白い森が、ゆらゆらと揺れている。


――クルシイ……クルシイ……コノミズハドクダ……。 

――タスケテ……タスケテ……イキガデキナイヨ……。


魚族だろうか、ふとそう感じた。彼らの悲鳴が聞こえる。

ごめんな……。

人間の勝手とわがままで汚すことになってしまって――

だから半分魚族のお龍だって、本当は人間を許してはいないはずだ。

しかし半分は人間。複雑な立場だ。

許してほしいなんて言えない。

もう起きてしまったことは取り返しがつかないのだ。

でも、水はこんなにも綺麗だ。

昔から連綿と受け継がれたみなの努力と愛の結晶で、

ここまで浄化できた賜物(たまもの)だろう。

そして自分ももう息ができずに、意識が遠のいていく。

俺の一生って結局なんだったんだろう? 誰かの役に立ったことなんてあっただろうか? 

そもそも意味なんてあったんだろうか……? 

一抹の寂しさがよぎった。

俺、このまま死ぬのかな? 死んだらどうなるんだろう。

体脱みたいな感じか? いや、既にもうあの世なのかもしれない……。

 

――公介……。


魚族の女王が俺を見つめていた。


「龍…呼……」 


俺は薄れゆく記憶の中をさまよっていたが、意識が朦朧としているせいで、

龍凪との実らぬ恋に女王が引きずり込んだのだろうかと思いを巡らす。

龍凪との報われぬ恋に俺を犠牲にすることで鬱憤を発散したつもりなのかと。

まぁ、しおらしいあの龍呼と一緒なら本望かなとも思ってみるが、

ふとまぶたの裏に浮かんだもう一人の彼女の姿が鮮明に意識を引き戻す。


「お龍……」


まだやり残したことがあった。まだ死ぬわけにはいかない――

優しく差し伸べる女王の繊手(せんしゆ)を振り払って、「悪い」そう一言だけ告げた。

拒まれたことを嘆き悲しむ女王は、首を振って俺にはかなげな微笑をくれた。

そして彼女は言った。


-――ありがとう……。


女王が、俺の知る龍呼が泡となって消えていく。

いつしか龍神も消えていた。

俺は菱湖の中に一人残され、急に息が苦しくなった。

酸素を求めて上昇を試みるが、泳げど泳げど身体は浮上しない。

シゲさんたちが寸前で無事だったのは確認済みだ。

だから彼らのことは心配しなくていいが、

腕の中に抱きしめていたはずのお龍とは引き裂かれてしまった。

絶対離すものかと心の中に誓ったのに、それさえ叶えられなかった。

勝手に思い込んだだけの運命もまた、どこまでも無慈悲だ。


ごめんなお龍。

俺……もう駄目だわ――


太陽光の七つの光の中で、水は青色を一番遠くまで通す。

それは青の神秘、瑠璃色の魔法。

しかし季節は冬。

しかも真夜中。今日は太陽など出ていなかったはずだ。

だがそのとき――

太陽のように輝くものが視界に飛び込んできた。

雪のように白い肢体(したい)、たゆたうビロードの尾ひれがしなやかに優雅にくねっている。

まるで人魚のように――

虹色のうろこの人魚か……なんて綺麗なんだろう……。

CDの裏やスパンコールのようなまぶしい物がいっぱいくっついてきらめいている……

そんな陳腐な表現力しか持ち合わせていない俺を照らし出す光。

石座神社のとぐろを巻く龍波姫が思い起こされるが、

それは肌も露わにした美の骨頂たる人魚姫だった。

漆黒の長い髪が瑠璃色に染まり波打つ。

エメラルドグリーンの鏡の世界が揺らめいていた。


「――公介!」

 

微かにお龍の声が聞こえた気がしたが、幻聴だろうと再び目を閉ざす。

朦朧(もうろう)とする意識が、だんだん無に溶けていく。

しかし、その美貌の人魚が俺に近付いて俺を抱きかかえると、

透き通る光の中を龍の如くグングン天を目指して上昇していった。

 

ああ……そうか。

彼女は俺を天国へ(いざな)う虹色の天使、レインボー・エンジェルか――




「――ぷはっ!」


息継ぎをした龍呼が意識を失ったままの俺を抱きかかえながら、

折れかかった石座神社の鳥居の下へと進んでいた。


「ワタさん! ワタさん!」


切羽詰った大きな声で、兄とも慕うメンバーの名を呼ぶ。

彼らは無事だった。


「龍呼!? 大丈夫か!? 怪我は……公介くん!」


湖の様子を窺いに近くまで来ていたのだろう。

懐中電灯を手にした研究会のメンバーたちが、すぐに彼女の前へと駆けつけた。

蒼白したシゲさんが愕然と凍りつく。


「公介くん!? 早く彼を引っ張り上げるんだ! 急いで本殿で温めてやらないと!」

 

降りしきる雪の中、

慌てて三人の男たちが衰弱し切った俺の身体を岩盤の上へと引きずり上げる。

肩まで水に浸かる龍呼が上半身裸でいることと、

初めて見る彼女の類いまれな美貌に驚く一同だったが、

今はそれに気を()がれている場合ではなかった。

俺の生命が危機に立たされているのだ。

シゲさんが俺の冷え切った身体の上に、

ワタさんは水に浸かったままの龍呼の頭にそれぞれ自身の上着を落としてやる。


「龍呼、手を貸そう――」

「私は大丈夫。水や寒さには耐性があるから……それより彼を!」


それでも、上着をかぶった彼女の手をワタさんが引いてきたので、

龍呼も湖から這い出ることにする。

と――


「にっ、人魚だぁ――――ッッ!」


下半身の尻尾を目撃してびっくり仰天した草薙さんが、その場に飛び跳ねてわめいた。

シゲさんも言葉を失っている。

片やワタさんは、見慣れた様子で平然としたまま俺の胸に耳をそばだてた。


「息をしていない……」

「ワタさん! ワタさんは本殿へ行って、蘇生術の儀式の準備を!」

 

陣頭指揮を取るリーダーのシゲさんが叫んだ。

急ぎ俺を本殿へと運んでいくために、シゲさんと草薙さんが二人がかりで俺を運び出す。


「その必要はない! 私が今すぐ彼を戻してみせる!」


上着を羽織った龍呼が俺の前にしゃがみ込むと、

胸に手をあてがい数回押してから顎を突き出させる。

そして、紫色に変色したその唇に自分のそれを深く重ねた……。




***




龍呼が今まさに俺にキスをしている。

こんなに美味しいシーンがあるだろうか。

俺はこの光景をあろうことか上から眺めていた。

唇の感触が全くと言っていいほど伝わってこないのは、俺が今体脱状態にいるせいだろう。

このまま肉体に戻らねば、本当にあの世逝きになり兼ねない……と冷静に考える俺。

くそっ!

体脱なんかやってる場合か! 

今すぐにでも戻って、龍呼の唇の感触を堪能せねば――……。






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