第三章新生活
彼は駅の売店でいつもの煙草を買った。
隣に座っているわたしに彼の吸う葉巻の煙は容赦なく流れて、煙が目に沁みるのか泣いているのか分からない涙がとめどなく流れた。夜明け前に家を出たので一気に疲れが出たのか、わたしは彼の膝にもたれて暫く眠っていたようだった。
「着いたよ」彼の声で在来線の終点に着いたことを知り、急いで下りる準備をした。この駅から本州の列車に乗り換えて東京へ行くのだと思うと、わたしは緊張感でがたがた足が震えるのを感じていた。
――夜明けて東京駅に着くと、彼は駅の案内所で宿を予約した。
東京には出て来たことのないわたしだった。少なくともわたしが心の安定を得て彼との新しい生活が軌道に乗ったのはそれから二カ月ほど経ってからのことだ。
「子供たち今ごろどうしてるかな……」
ふと漏らした彼の言葉に、わたしは自分には感じなかった残してきた家族への思いが大きく悔いを残しているのだろうと思った。
「可愛い盛りだもんね」わたしは慰めるように彼の背中に腕を回した。
「仕方ないよ。これで家族を捨てたの二度目だから...何てことないさ」
彼は吸いかけの葉巻を乱暴に灰皿で揉み消し、座敷にごろりと横になって天井を見ていた。彼の苦悩と若い自分の浮かれている気分の温度差がどれくらいのものなのか、この時わたしは知る由もなかったのだ。
*
わたしはつい最近取得した教員免許を頼りに、いくつかの小学校に履歴書を送り、通知がくるまでの数日をのんびり過ごした。金の工面をする必要もなく、彼が手渡してくれる生活費の中から毎日の食事を作った。
「これでとりあえず入用の物を買い給え」そう言って彼は札束を机の上にポンと置いた。そういえばあの晩取るものもとりあえず家を出たきりのボストンバッグには二三日の旅行の着替えほどしか入っていなかった。
彼は二人分の食器が入るほどの小さな水屋とこじんまりした鏡台を買ってきた。わたしは鏡に向かって自分の顔を写してみた。化粧などしなくても若い素顔は潤いが漲っていて、口紅を引いていない唇も艶々していた。そんなわたしを観て、彼は何かを思い出す度にその苦悩を消すかのようにわたしを抱いた。わたしは彼に抱かれると何もかも忘れることができた。
*
その後間もなくして、私立の小学校から採用通知がきた。
面接に行ったとき何となく手ごたえを感じていた幼稚舎から大学まであるクリスチャンスクールだった。勤めが始まって、毎日参加する礼拝に祈りを捧げるたび、わたしは複雑な気持ちに陥っていた。
彼も勤め先が決まった。私達は暗黙の内にうしろを振り返らないようにとの思いで暮らしていた。
一年後わたしは懐妊し、翌年無事男の子が生まれた。
その時ようやく実家の母から赦しの手紙を受け取ることができた。勤めながらでは子育てはできないだろうと母は上京して一年間赤ん坊の世話をしてくれた。
一年後母は自分のあとに女中を寄こすからと言い残して帰って行った。
東京に嫁いだという上の姉からも便りがあった。わたしは自分には沢山の身内がいることをこの時改めて意識したのだった。