第二章決別
その新任教師は小柄な私が見上げなければいけないほどの大男で、片頬にあるケロイドが一層凄みを際立たせていた。彼はわたしに遅れて赴任したということで、わたしの隣に席が決まった。
「よろしく」
「こちらこそよろしくお願いします……」
小娘のわたしに、彼は先輩に対するように礼儀正しく挨拶をした。教師としてもう十分な経歴があることは察しがついた。年のことはよく分からなかったが少なくとも若者でないことは確かだった。
「きみ、いくつ?」
「はたちです...」
「わかいね、いい頃だよ」
彼は煙草をくゆらせながら、わたしと話す時にはいつも目を合わせなかった。わたしはその男のつんと尖った鷲鼻ばかりを見ていた。
*
新学期が始まり三か月も経つと、わたしは学校でのスケジュールに慣れて楽しい毎日を過ごすようになっていた。新任の彼とも気軽に話せるようになり、学校が終わると誘われるままに彼と一緒に町に出ることが次第に多くなっていた。
私には年の離れた兄がいたが、彼はまたひと味ちがう兄のようでもあり、その感覚が次第に彼を『わたしの男』として意識するまでにそう時間はかからなかった。彼との逢瀬でわたしの体内を走る夢見心地の感覚が、もう彼なしでは生きていられないという気にさせていた。
いつも決まった汽車で自宅に帰っていた日常が狂い始めてきた。
「今晩は遅い汽車で帰ればいいだろう……」
その無理な誘いを断る気になれないわたしは誘われるままに一汽車遅らせて帰宅した。
わたしの家には厳しい父親と肝っ玉の据わった母親、それに兄夫婦、まだ嫁入りしていない姉達がいた。夜の門限は決まっているようなもので、いつもの汽車で帰らない日には、何処で何をしていたかと家族みんなが追求してきた。
「満子、このごろいつも一汽車遅れて帰るね、どうして?」
いち早くそのことを追及してきたのは一番上の姉だった。
わたしは姉の言葉より何も言わぬ父と母、そして兄の顔色を気にしていた。
何日か遅く帰る日が続いた晩、何かが起きるという予感通りやはり何かが起きた。
――どこで何をしていた!
――そうよ、あんたこのごろおかしいわよ!
――何か悪いことしてるんじゃないでしょうね!
兄から、姉から、それまで沈黙を守っていた母までが口々に責め始めた。父親は奥の部屋に篭っていたが、わたしの行動を一番よく知っていたのではなかろうか。
わたしはその時、この世で何もいらないとさえ思っていた。彼さえいれば!彼さえわたしを抱きしめてくれるなら他のものなどすべて捨ててもいいと……。
父さんなんか母さんなんか、兄さんなんか姉さんなんか、捨ててやる――。
わたしはその晩ボストンバッグ一つ抱えて駅にいた。泥棒猫のように辺りに知り合いが居ないか窺いながら、電話口で声を押し殺して話した。
「町の宿に泊まりなさい。明日の朝そこに行くから」
彼は宿屋のある道順を教えて早々に電話を切った。
わたしは彼のそのひと言だけが頼りだった。
*
翌日わたしは彼と東京行きの列車に乗り込んだ。マフラーですっぽり頭を覆いサングラスを掛けていた。彼が持ってきてくれた男物のサングラスが鼻からずり落ちそうだったが、度々手ですくい上げながら汽車に揺られていた。
「東京へ行けば何とかなるさ」
「はい」
わたしは不安で胸が一杯だったけれど、彼が傍にいるだけで何も心配することはないのだと自分に言い聞かせていた。