オーバーチュア
初めて長編小説を公開します。よろしくお願いします。
オーディンの息子
第1部 北欧神の息子
見たのは錯覚では無かったと思う。
確かに、小学低学年から強いられている受験勉強のせいで、視力自体は他に劣る部分もあろうし、すでに顔の主成分となろうとしているこのメガネも無用の長物と成り下がった。
でも、ちがう。見間違えではなかろう。
子供ながらの無垢さを12才という年齢で未だ色濃く持ち合わせた、メルヘン少女。それが巷での度会瑠々(わたらいるる)の評価である。
だが、当人の知的レベルは長年の受験勉強のせいで、小学生のそれとは大きくかけ離れたものを持ちあわせており、とくに現実的すぎるその内面は、子供に幻想を見たがる大人からすれば実に面白みの欠けるものであろう。
だからこそ、思う。
ーー私は、悪魔を見たのだ。と。
人間のカタチとは、神の似姿であるという。そして、悪魔とは、堕天した神であるという。
では。
悪魔のカタチとは、神の姿そのものなのではないか。
そうだ、昨日見たものは、神かもしれない。
ゆとり教育とかいう旧き大人の理想論そのもの、教育界のマルクス主義とでも言うべき悪しき新参者が駆逐されたあと、彼女らに訪れたのは『超ハイレベル教育』だった。
その国の教育は、新設された『教育省』の指導の元に、それまでの教育課程を大幅に改定し、大学入試を数倍の物量に引き上げた。
改訂された『エリート型改訂』では、小学生で2次方程式まで扱い、高校では微分方程式はもとより、多次元解釈による素粒子物理学のハシリまでやる。もちろん、大学ではさらに深く学問を追求するのだ。
生ぬるい文系理系の区別は失くなり、すべての高学歴人間は広範にして深甚として、深い明察を持つことが求められた。
彼らが目指したのは、真の『エリート』の育成なのだ。社会はこれらの厳しい課程をくぐり抜けられる、ずば抜けた天才たちが治めることになった。
ダブつき過ぎて馬鹿製造装置と化していた大学は一気にその数を減らされ、改革20年で大学進学率は実に2割を切るまでになった。
無能なものはいらない。痴れ者は大学に行く価値はないのだ。
その2割に入れぬものは、勉学以外の特技を磨くか、労働義務を長く果たすことが期待された。
そうして訪れたのは、激しい受験戦争。2割のエリートになるために人々は塾に殺到し、小学生のころから熾烈な競争が繰り広げられるようになった。
その日も瑠々は夜遅くまで居残りをしていた。代々名門貴族であった彼女の家系は、今ではすっかり没落の憂き目にあい、出迎えの人員すらよこせぬほどになっていた。
でもまあ、それは彼女にとっては悪いことではない。
小さなころはどこへいくにも、ガードマンという名の取り巻きがおり、自由がまったくなかった。自分の足で大地を踏みしめることはほとんどなく、出迎えの車のシートが彼女の主な地面だった。
それに引き換え、今は自由に自動販売機で缶コーヒーが買え、コンビニで買い食いができる。自由だ。小学生が不自由ない程度の小遣いくらいはもらえている。
幸せだった。父親がくだらぬ投資で失敗してくれて、感謝すらしている。
携帯電話で簡単な連絡さえいれれば、どんなコースで帰ってきても何も言われない。端末にはGPS情報がついているし、瑠々は普通とはちがう。だから安全だと向こうもたかをくくっているのだ。
その日は、家から歩いて5分ほどのところにある、大きな公園の脇を時計回りになめるようにして帰っていた。すでにあたりは寝静まっていて、あたりには全く人気がない。
ガシャ。
小さな物音だったが、確かに聞こえた。
だれかいるのだろうか。このあたりは、郊外だし、閑静な住宅街。夜22時を過ぎると、ほとんど人はいない。
ガシャ、ガシャ……。ズボォっ。
見てしまった。
人らしきものを左手で鷲掴みし、かるがると持ち上げている。背があまり高くないので、持ち上げられている方の人影は、だらりと地面にその脚を放り出している。辺りは飛び散った血潮で汚れている。
「これで38人目……」
聞くつもりなどなかった。ただ、非日常に憧れる瑠々の魂が、そちらに惹きつけられただけ。
ーーなにが38人目なんだろう?
「ん?」
頭がまわる。こちらを向くような気がして、瑠々は一目散にその場から立ち去った。
心象にのこるのは、持ち上げている方の小柄な身体。それに担がれた、巨大な槍。
金髪。
その身体はうっすらと明るい。人間ではない、それはすぐにわかったが、なんだろう? わからなかった。
人殺し。それは確実な事実。
なぜだか、落ち着いたのだ。その相貌は。不思議と心が洗われるような、神聖な侵しがたいものを目撃したような。
神社でお祓いを受けた直後のような、自分あって自分でなくなるような、浮遊感高揚感を感じたのだ。
思わず逃げてしまったあと、少しの後悔が残った。
ーーあのヒトにまた会いたい。
辛い毎日の受験勉強のなかで、殺伐とした毎日の中で、瑠々にとってはそれだけが、灯火。その得体の知れない人物について夢想することが、唯一無二の娯楽だった。
その願いは、数日後に叶うことになる。