ありえない…
銀香の部屋の机の上には、もらった将棋本が置きっぱなしになっていた。
いつの間にかその上にはプリントやメイクポーチ、イヤホンケースまで重なっている。
銀香自身も、そこにあることをほとんど忘れていた。
夕飯のあと、リビングでだらっとスマホをいじっていると、弟が顔を近づけてくる。
「ねえ姉ちゃん、先生と将棋やったんでしょ?どうだったの?」
「はぁ〜?もう終わった話だし。てかマジだる」
そこに父親も新聞をたたんで参戦する。
「どんな勝負だったんだ?先生強かったんだろ?」
銀香はソファに沈み込みながら目を細める。
「えーとさー、なんか駒いっぱい並んでてさー、先生がめっちゃハンデくれてさー、で、なんかもうちょいで勝てそうだった感じ?」
「もうちょいってどのくらい?」
「どう攻めたんだ?」
「いや知らんし!なんか前に進めて、ガンガンいって、追い込んだ感じ!」
説明がふわっふわだ。
そのたびに弟と父の質問が増えていく。
「どの駒で?」
「王はどこまで追い詰めた?」
「囲いは崩したのか?」
「ちょ、待って無理無理無理!そんなの覚えてないし!」
「もういいじゃんその話!」
だが二人は引かない。
結局、将棋盤を引っ張りだしてきて銀香が投げやりに適当に再現した指し方を、父と弟があーでもないこーでもないと言い合い想像しながら駒を置いていく。
「……つまりここを突破して、ここまで追い込んだんだな」
「で、そのあと先生の猛攻を受けながら守り切ったってこと?」
一瞬の沈黙。
父と弟の目が見開かれる。
「え……それ初心者じゃ無理じゃね?」
「ハンデあっても普通そこまでいかないな…」
「は?」
銀奈のほうが驚いた。
「え、負けたんだけど?普通に」
「負けてても内容がヤバいんだって!」
「駒運び、めっちゃセンスあるよ姉ちゃん!」
桂斗は興奮気味に褒め始める。
「才能あるって!」
「マジで将棋向いてる!」
「ちょ、ちょっと待って?そんなすごいことしたつもりないんだけど?」
銀香はポカンとしながらも、なんだか胸の奥がむずむずした。
――え、なにそれ。褒めすぎじゃね?
でも。
人間、褒められると普通に嬉しい。
その夜。
机の上で下敷きになっていた将棋本を、銀香は引っ張り出した。
「……まぁ、ちょっとだけ見てみるか」
ページをめくる。
「へー……この駒こんな動きすんだ…」
気づけばスマホで調べ始めていた。
それから毎晩、銀香は少しずつその本を読むようになっていた。
夕飯後には、
「ねえこれさ、なんでここで銀動かすの?」
「この形って強いの?」
夕食後の家族の会話のノリで聞く銀香。
弟と父は楽しそうに説明する。
気づけば銀香の頭の中に、将棋盤が浮かぶようになっていた。
授業中。
ギャル友と話している最中。
ふと駒の配置を考えている自分に気づく。
「……あ、今の詰みじゃね?」
「なにが?」
「いやなんでも!」
ある日、友達と遊んだいつもの帰り道。
いつもの道なのに、今日は違って見えた。
――あれ?
小さな看板。
将棋教室。
今まで気づかなかったそれを、銀香は見上げていた。
そのとき、扉が開く。
出てきたのは高坂だった。
「お、神崎!」
「え、先生ここなにしてんの?」
「ここか?ここで子どもたちに教えているんだ」
「へー……」
興味なさそうに頷きながら、ちらっと教室の看板を見る銀香。
「ここってさ……初心者でもいけんの?」
「もちろんだ」
「ふーん」
内心では、
――こういうとこで教えてもらえたら、ちょっと強くなれんじゃね?
と思っている。
でも口には出せない。
ギャルだし。
ギャルが将棋とか、ありえなくね?
高坂はその微妙な反応を感じ取り、笑った。
「教室が無理でも、将棋部なら見学くらい来られるだろう?」
銀香は一瞬だけ考える。
でもすぐ明るく笑う。
「いやいや無理っしょ!ギャルが将棋部とかウケるし!」
そう言って手を振る。
「じゃーね先生!」
いつものノリで去っていく銀香。
だが胸の奥では、将棋盤が静かに広がり続けていた。
――でもさ……ちょっとだけなら、見てみたかったかも。
ギャルと将棋。
ありえないはずなのに。
その“ありえない”が、銀香の心を掴み始めていた。




