壁
銀香は、とりあえず毎日将棋部に顔を出した。
「無理はするなよ。」
そう言いながらも、部長の一条玲奈は何かと銀香を気にかけてくる。
「まずは実力を測ろう。」
一条玲奈が盤を挟んで座った。
「え、部長と?」
「安心しろ。噛みはしない(笑)」
そういうと一条玲奈は長い髪を片手でかきあげた。
ぱちん、と駒が鳴る。
銀香は思ったより指せた。
頭の中に自然と形が浮かぶ。
だが——
「そこだ。」
一条玲奈の銀が鋭く踏み込む。
気づけば形勢は崩れていた。
「……負けました。」
銀香は素直に頭を下げる。
「センスはある。」
一条玲奈は即答する。
「だが、まだ荒い。基礎が足りないな。」
「やっぱ?」
「将棋ゲームはやっているか?」
銀香は顔を上げる。
「やってる。スマホのやつ。」
アプリの名前を挙げ、段位を伝える。
一条玲奈の目が輝く。
「オンライン対戦は?」
「うん。よく当たる人いるんだよね。」
「そうなの?」
「なんかさ、やたら噛み合うっていうか。負けること多いけど、めっちゃ面白いの。」
自然と声が弾む。
「アカウント名は?」
部長の問いに銀香は何の気なしにそれを告げた。
その会話は、狭い部室では丸聞こえだった。
窓際で棋譜を並べていた鷹宮の手が止まる。
——その名前。
自分のアカウント名だった。
(あいつが…)
動揺が胸を打つ。
あの、いつも当たる相手。
強くはないが、指していて楽しい。
妙に粘る終盤。
どこか素直な攻め。
好感を持っていた。
それが——銀香?
鷹宮は視線を変えない。
だんだん胸がバクバクしてくる。
落ち着かない。
(なんで俺がこんなに…)
笑いながら話す銀香の横顔。
胸の奥がざわつく。
(クソ…あいつ…あいつは俺を狂わせる存在だ…これからどうすんだよ…)
勝手な思い込みだった。
だが、今の鷹宮には銀香を否定することでしか自分の心を穏やかにすることができなかった。
こんなことで動揺している自分が情けないと思えるほど鷹宮はまだ大人ではなかった。
その日から。
鷹宮は、ゲームにログインしても、そのアカウントとの対戦を避けるようになった。
数日後。
「……あれ?」
銀香はスマホを見つめる。
いつも当たる相手が、いない。
対戦履歴が途切れている。
「忙しいのかな。」
ぽつりと呟く。
少しだけ、寂しかった。
銀香が将棋部に入ったことは、すぐにクラス中に広まった。
「え、マジで?」
「将棋?」
小声のざわめき。
「ギャルが?」
「続くわけなくない?」
ひそひそ。
聞こえないふりをしても、耳には入る。
胸がちくりと痛む。
「気にすんな。」
歩美はいつも通り言う。
「言わせとけ。」
他のギャル友たちは、最初こそ物珍しそうに話題にした。
「将棋って何すんの?」
「袴着んの?」
茶化し半分。
でも。
銀香が放課後を一緒に過ごさなくなると、
自然と距離ができた。
気づけば、遠巻きに見るだけの関係。
笑いの輪の外側。
だんだん、銀香はクラスで浮き始める。
でも歩美は変わらない。
毎日話しかけてくれる。
一緒に帰ろうと言ってくれる。
部活に行くというとそれまで話しようという。
けれど。
——歩美、無理してない?
銀香は思う。
他の友達との間を取り持つように立ち回る歩美。
空気を壊さないように冗談を言う歩美。
自分のせいで、歩美が苦労している気がする。
——ウチ、お荷物じゃん。
その感覚は、どこか懐かしかった。
中学時代。
病気で体育に出られなかった日々。
「大丈夫?」
「無理しないでね。」
優しい言葉。
けれど、その優しさが、
自分が“普通じゃない”と突きつける。
気を使われるたび、
自分が特殊な存在だと知らされる。
だから、銀香は自分から距離を置いた。
迷惑をかけないように。
そうして。
壁はどんどん高くなった。
壁が高くなると自分からも相手からも互いに見えなくなる。
わからなくなってくる。
銀香は誰かのことを考えてもわからなくなった。
どんな子なんだろ…
部活は…
だんだん関心がなくなってきてしまう。
なんでもいいから友達とまでいかなくても、ワイワイガヤガヤに関心?少しでも持っていればいろんなことがわかったりするものなんだろうなあ…とは思っていた。
自分は違う…
そう決めつけた時から周りはただの風景になってしまった。
だから頓知感な返事をしてしまう。
相手はがっかりする…
相手からも同じことが起こる。
今、また同じことが起きている気がする。
クラスとの距離。
ざわめき。
孤立。
——また、同じ?
銀香は教室の隅で目を伏せる。
でも。
一つだけ違う。
「おい、いくぞ。」
壁なんて見えていないみたいに。
歩美は、ずかずかと踏み込んでくる。
遠慮もなく。
迷いもなく。
銀香が勝手に作った壁を、
最初から存在しないものみたいに。
「なにぼーっとしてんだよ。」
「……なんでもないし。」
顔を上げる。
歩美が笑う。
その笑顔を見たとき、銀香は思った。
——この人がいる限り。
同じには、ならない。
壁の前で立ち止まる自分を、
無理やり引っ張ってくれる人がいる。
それだけで。
少しだけ、救われる気がした。




