五月の泥
図書室の隅で拾ったのは、薄汚れたキャンパスノートだった。
表紙には「余った時間の使い道」と、ひどく雑な字で書かれている。中を捲ると、意識高い系の「死ぬまでにやりたいこと」なんて代物じゃなく、「ハーゲンダッツの蓋を舐めとる」とか「隣のクラスの佐々木の靴に画鋲を入れる(未遂)」とか、どうでもいいゴミみたいな執着が書き殴られていた。
鼻を突く、埃とカビの匂い。
それが僕の、十七歳の五月の匂いだった。
「勝手に見ないでよ。それ、私の呪いの書なんだから」
佐倉春菜の声は、全然透き通っていなかった。少し鼻が詰まったような、湿り気のある声。
彼女は僕の隣にどさりと座ると、消しゴムのカスを指で弄りながら、「私、もうすぐ死ぬんだよね」と言った。
ドラマみたいに深刻な顔はしていなかった。ただ、今日のおかずが気に入らないと言わんばかりの、投げやりな口調。
僕は、人生をログアウトする……なんて気の利いた言葉を探したけれど、結局出てきたのは「ふーん」という、自分でも嫌になるくらい薄っぺらな相槌だった。
五月十四日。僕の誕生日。
その日に死ぬ準備は、一応していた。 でも、準備をしている自分に酔っているだけのような気もして、カッターの刃を出すたびに、指先がひどく冷たくなった。
「ねえ、秋山くん。もし私が死んだら、葬式で私の代わりに笑ってよ」
「……無理だろ、そんなの」
「そうだよね。じゃあ、百円あげるから、葬式に来てよ。それで、私のことなんか忘れて、自販機でコーラでも買って飲んで。それが私の復讐だから」
彼女の言っていることは支離滅裂で、僕は彼女のことが少し、嫌いだった。
でも、一人で死ぬ準備をしている時の、あの静かすぎる部屋の音に耐えられなくて、僕は彼女の「余った時間」に付き合った。
特にエモいことは何も起きなかった。 夜の学校に忍び込もうとしたら、普通に警備員に見つかって怒鳴られたし、海を見に行ったらフナムシが大量にいて、彼女は「最悪」と呟いて吐いた。
五月十四日の朝。
僕は崖の上に立っていたわけじゃない。
自分の部屋の、万年床の上で、天井のシミを数えていた。
スマホに届いた「佐倉春菜が死んだ」という通知は、文字化けしているみたいに現実感がなかった。
葬式は、ひどく蒸し暑かった。
泣いているクラスメイトたちの声が、耳の中でハウリングしてうるさい。
僕は焼香の列に並びながら、彼女が言っていた「百円」のことを思い出していた。
会場の外にあった古い自販機。
コインを入れてボタンを押した。でも、ガコッという音はせず、百円玉は取り出し口の奥で詰まったままになった。
僕は指を突っ込んで、必死にそれを取り出そうとした。爪の間が汚れて、指の腹に鋭い痛みが走った。
涙が出たのは、彼女が死んだからじゃない。
たぶん、百円玉が取れなくて、自分の指が汚れたのが、無性に情けなかったからだ。
彼女がノートの最後に書いていた言葉を、僕は覚えている。
『秋山くんへ。生きて。私があげられなかった明日を、君が使い切って』 ……なんて、そんな綺麗なこと、彼女は一言も書いていなかった。
ただ一言。 『秋山くんの誕生日に、雨が降ればいいのに』
最低な呪いだ。
おかげで、僕は今でも、五月十四日に雨が降るたびに、あの中途半端に鼻が詰まった声を思い出して、死ぬタイミングを逃し続けている。
生きる理由なんて、どこにもない。
ただ、あの詰まった百円玉をいつか取り返しに行かなきゃいけないような、そんなくだらない義務感だけが、僕の泥のような日常を引きずっている。




