32話 炎の津波
「ルネちゃん。私といれば安全ですからね」
コレットさんが私の肩を抱き寄せ、安心させるように背中を撫でてくれる。
広々とした商館の1階は、避難民の女子供でぎゅうぎゅう詰めだった。不安から来るすすり泣きと、人の熱気でひどく息苦しい。
「コレットさん、私は大丈夫ですから。お仕事に行ってください。私につきっきりじゃなくても……」
「いいのよ、ルネちゃん。ルネちゃんの側にいることが私の仕事なの。テオドール様からも、絶対に守るようにと強く言われているしね」
コレットさんは優しく微笑んでみせたが、その手は微かに震え、笑顔の奥には隠しきれない不安が張り付いていた。とてもじゃないが、楽観できる状況ではないのだ。
「……ありがとうございます、コレットさん。……先ほどから炎の魔法は飛んでこなくなりましたね。これなら、なんとかなるんでしょうか」
私に戦争の難しいことは分からないが、恐ろしい炎魔法を操る敵とゴブリンの大群に、街が襲われていることだけは聞いていた。
「……そうね。きっと、テオドール様たちが頑張ってくれているのよ。あとは守備隊の防衛線がいつまで持つか……」
気がかりなのは、商館の外から聞こえる喧騒が、先ほどから徐々に――そして確実に、こちらへ近づいてきていることだった。朝方に街中を歩いていた時、兵士がバリケードを築いていたのは、もっとずっと街の外側だったはずだ。
――その時だった。
ダァンッ!!
乱暴な音とともに、商館の分厚い扉が蹴り開けられた。
「もうここはダメだ! 防衛線が抜かれる! 指示に従って中央広場まで後退しろ!!」
血に塗れた兵士が、血相を変えて飛び込んできた。開け放たれた扉の向こうでは土埃が舞い、むせ返るような鉄と血の匂いが流れ込んでくる。
兵士のただならぬ剣幕に、怯えていた子供が火が付いたように泣き始め、瞬く間に悲鳴が伝播する。大人たちも恐怖にパニックを起こし、数百人の避難民が我先にと出口へ殺到しそうになった。
「落ち着いて! パニックになったら子供たちが危ないわ! 大人が冷静にならないでどうするの! とにかく、入り口に近いグループから順に外に出て!」
コレットさんがサッと立ち上がり、凛とした声で指示を飛ばす。その気迫に気押され、色めき立っていた避難民たちはわずかに理性を取り戻し、足早に玄関へと向かい始めた。
「大丈夫だからね、ルネちゃん。念のために、もっと安全な場所へ移動するだけだから」
「……はい」
(敵が、すぐそこまで来てるんだ……)
コレットさんの気丈な言葉とは裏腹に、私は間違いなく危機が迫っていることを悟っていた。
私はフードを深く被り直し、コレットさんに手を引かれて外へ出た。生温かい風が吹き抜け、表通りの土埃が晴れる。
思わず、息を呑んだ。
ほんの50メートルほど先の中心通りに築かれたバリケード。そこに、おぞましい数の『緑色の怪物』が群がっていた。対する守備隊の数は、もはや数十人しか残っていない。
「こっちだ! 止まるな、坂を上れ!」
兵士が避難民を誘導する。だが、私はバリケードの方から目を離せなかった。
絶え間なく押し寄せるゴブリンの津波に対し、兵士たちは血反吐を吐きながら剣や槍を振るい、必死に防衛線を維持している。だが次の瞬間、横の細い路地から数匹のゴブリンが壁を這うように現れ、死角から兵士の首筋に薄汚れた石斧を深々と突き立てる光景を目にしてしまった。
「くそッ! お前らは先に行け!」
それを見た誘導役の兵士が、剣を抜いて疾風のように援護へと駆け出していく。
「ルネちゃん! 見ちゃ駄目、ちゃんと前を向いて! 急ぎますよ!」
鬼気迫るコレットさんの声にハッと我に返り、私は惨状から無理やり目を引き剥がして、領主の館がそびえる中央広場へと走り出した。
◇
領主の館の前に広がる広場は、目を覆いたくなるような酷い喧騒に包まれていた。
街の各所から逃げ延びてきた避難民が押し寄せ、もはや足の踏み場もないほどに人が溢れかえっている。
「おい、押すな! これ以上入らない!」
「領主はどこにいるんだ!? 俺たちを盾にして逃げたわけじゃないだろうな!」
「静かにしろ! もっと奥へ詰めろ、まだ入り口に取り残されている者がいるんだ!」
「いやぁぁっ! ゴブリンが……緑の化け物がすぐそこまで来てる!」
「怪我人はこっちへ運んでくれ! 手が空いてる大人は手伝うんだ!」
「おい、さっき防衛線が破られたって……俺たち、ここで死ぬのか!?」
恐怖と混乱が渦巻き、絶望に満ちた怒号と悲鳴が絶え間なく飛び交う。
普段は見せないコレットさんの険しい顔が、この街に、そして私たちに『終わり』が迫っていることを残酷なまでに示していた。
「ルネちゃん……絶対に逸れないで。私と一緒にいれば……きっと大丈夫だから」
震える冷たい手で、コレットさんが私の手をぎゅっと握りしめる。
自分だって怖いはずなのに、必死に私を守ろうとしてくれるその優しさに、思わず涙が込み上げてきた。
気が動転するのを抑えようと、深く息を吸う。周りの惨状は、平和だったころのネモリスと同じ場所とは思えなかった。
(ネモリス……まさかこの街に帰ってくるなんて……)
かつては、優しい家族と、ご近所の温かい人たちに囲まれて育った大切な場所だった。そんな平和な日常を、私の魔力暴走が奪った。
私の中から溢れ出した燃え盛る業火は、大好きな家族も、親しくしてくれた住民の人たちも、家も……すべてを容赦なく焼き殺してしまった。
私は大罪人として死刑になるはずだった。あんな恐ろしいことをしたのだから、生きる資格なんてないと、私自身が一番そう思っていた。けれど、テオドール様は私の死刑を偽装し、自分の直属部隊へと拾い上げてくれた。
テオドール様にとって、私はただの戦争の駒に過ぎないのかもしれない。それでも、天国のお父さんお母さんが私を誇りに思ってくれるかもしれない、そんな道を示してくれた。それが、真っ暗だった私の心にとって、何よりの救いだった。
(ここで終わるわけにはいかない……!)
もしこのままゴブリンの群れに飲み込まれて死んでしまったら、命を救ってくれたテオドール様や皆への恩返しができない。私の炎で命を落とした家族や、ネモリスの皆への罪滅ぼしも果たせない。
(そんなの……絶対に嫌だ)
ごめんなさい。
私は心の中で謝りながら、強く握られていたコレットさんの手を振り解いた。
「え……ルネちゃん!?」
広場へと雪崩れ込んでくる避難民の波に逆らい、私は押し寄せる人波を掻き分け、決壊寸前の中心通りへと駆け出した。
◇
群衆をすり抜けると、すぐ目の前に最後のバリケードが見えた。
その向こうからは血まみれの守備兵たちが敗走してきており、さらにその奥には、中心通りを埋め尽くすほどのゴブリンの群れが迫ってきていた。
(あいつらがこのまま突っ込んできたら……あんな木でできたバリケードなんて、簡単に踏み破られちゃう。後ろにいるコレットさんたちも、避難民のみんなも……!)
一瞬にして最悪の結末が脳裏をよぎる。この絶望を覆すには、守備兵が奇跡的な力を発揮して防衛線を維持し続けるしかない。だが、圧倒的な物量差を前に、そんな奇跡が起こるとは思えなかった。
テオドール様から贈られた言葉が蘇る。
『その身に宿した炎魔法の才――それこそが、両親がお前に遺した最大の贈り物だろう』
私は両拳を強く握りしめ、地面を蹴った。
負傷者を運ぶ兵士たちの脇をすり抜け、勢いのままバリケードに手をかけ、転がるようにして最前線へと飛び越える。
「ッ! ガキが何をしてる! 死にたいのか!」
背後で兵士の怒声が響くが、振り返る暇なんてない。
「下がってて!!」
喉が裂けそうなほど絶叫し、私は迫り来る緑の波に向かって右手を真っ直ぐに突き出し、震えないよう左手でしっかりと手首を支えた。
そして、己の内に眠る『怪物』を目覚めさせる。
かつて家族を奪った、あの忌まわしい『魔力暴走』。今では慎重に開け閉めしている魔力回路の堰を、今日、この瞬間のためだけに全開にした。
ドクン、と心臓が大きく跳ねる。
全身の血が沸騰するような感覚と共に、規格外の魔力が体中の血管を焼き切らんばかりの勢いで駆け巡る。常軌を逸した高出力の魔力回転に皮膚が粟立ち、突き出した右の手のひらから、チリチリと赤黒い火花が迸り始めた。
「早く! 私の後ろに!」
私の全身から立ち昇るただならぬ熱量と、鬼気迫る気迫に圧倒されたのだろう。敗走してくる兵士たちは必死に脚を回し、バリケードの内側へと飛び込んでいく。
数十メートル先まで迫ったゴブリンどもの、血走った眼球や薄汚れた牙がはっきりと見えた。
もう、躊躇いはない。
「消し飛べェェェェェェェッ!!」
私の咆哮を合図に、体内で限界まで圧縮され、出口を求めて暴れ狂っていた魔力が一気に解放された。
ズドォォォォォォォォンッ!!!
右の掌から、魔法とは呼べない荒れ狂う爆炎が噴出する。
強烈な反動で肩の骨が軋み、私の足元の石畳が粉々に砕け散った。放たれた業火は、圧倒的な質量を持った『炎の津波』となって中心通りを呑み込む。
悲鳴を上げる間もなく、先頭のゴブリンたちが一瞬で炭化し、灰となって吹き飛んでいく。
私が生み出した炎の濁流は、道を埋め尽していた緑の群れを跡形もなく焼き尽くし、真っ直ぐに街の入り口まで到達する勢いで駆け下っていった。




