30話 決戦前夜
部隊を率いてネモリスに到着すると、街の空気はすでにパニックの一歩手前だった。
内地に伝手のある商人や富裕層は、いち早く馬車を仕立てて街を脱出した後だった。残されているのは、逃げるあてのない平民たちばかりだ。
彼らは俺たち軍の到着に安堵の色を見せつつも、不安に満ちた目で森の方向を怯えるように見つめている。
「……ひどい有様ですな」
街の外周を見渡し、ラウルがぼやいた。
ネモリスには、要塞都市ヴァラリアのような堅牢な石造りの防壁はない。申し訳程度に築かれた、古びた木の柵が街を囲っているだけだ。
「万のゴブリンが相手だとしたら、こんな柵、一溜まりもありませんね」
レオが淡々と告げる。
「泣き言を言っている暇はないぞ。早速だが、レオとベルナデットは拠点整備を進めておいてくれ。ジュリアン! ラウル! 本部に行くぞ!」
俺たちは足早に、大隊本部が設置された領主の館へと向かった。
出迎えた領主は俺を見てびくりと身を強張らせたが、俺は至って笑顔で挨拶をする。
「これは男爵殿、久方ぶりだな――ロラン大隊長、到着が遅くなってすまない」
ロランは他の中隊長らと共に、机に広げたネモリスの地図で防衛戦略を練っていた。
「殿下。お待ちしていました。この封書の件ですが……」
「ああ。古い文献の内容だ。最悪の状況を想定するべきだと思ってな」
「俄かには信じがたい内容です。万を超える大群と、炎魔法を扱うゴブリンとは……」
「突拍子もないと感じるかもしれんが、第二中隊駐屯地の惨状を見る限り、あながち的外れじゃないはずだ。相手を見誤って全滅するくらいなら、最悪の条件を想定しておくべきだろう」
他の中隊長たちは懐疑的な反応を示す。仕方がないことだ。所詮、俺は数ヶ月前に南軍へ合流したばかりの『放蕩王子』。これまでの戦果はロランの手柄となっているし、俺の言葉に説得力など皆無だろう。
「……分かりました。殿下の仰る通り、最悪のケースを想定して防衛戦略を策定しましょう。私は殿下の戦略眼を信頼しています。他の中隊長にも従ってもらいます」
俺は少し驚いた。大隊長とはいえ、歴戦の中隊長たちを差し置いて即決するのは勇気がいるだろう。随分と俺のことを買っているらしい。
「それなら話は早い。では、万のゴブリンの大群と、炎を操るゴブリン・シャーマン……こいつらからどうやってこのネモリスを守り切るか、戦略を練るとしよう」
俺の言葉を合図に、作戦会議は重苦しい空気の中で始まった。
「基本戦術として、街の全周防衛を提案する」
大隊長ロランが、机上の地図に視線を落としながら口を開いた。
「街の外周に兵を薄く展開し、敵を押し留める。そして後方に弓兵を配置し、敵陣深くにいるであろうゴブリン・シャーマンを狙撃する案だ」
「しかし大隊長。敵が万の群れとして、我々は千足らず……その兵力で街の全周を守り切るのは困難では?」
中隊長の1人が渋い顔で異議を唱えた。
「同感です。引き伸ばした防衛線を1箇所でも突破されれば、背後の無防備な民が蹂躙される。さらには浸透したゴブリンによって、守備隊が内外から挟撃されかねません」
「それに、シャーマンの狙撃も非現実的です」
別の中隊長が嘆息した。
「炎魔法の射程距離を100メートル程度と仮定した場合、それより遠くから有効な狙撃を行うためには、高度な身体強化を扱える熟練兵と特製の強化弓、そして徹甲矢が必須となる。徹甲矢の数は少なく、シャーマンを射抜けるかは運任せになるでしょう」
議論は早々に紛糾し、堂々巡りとなった。誰もが決定打を見出せない中、恰幅の良い中隊長が苛立った声で対案を出す。
「ならば、街の大半を放棄してはどうだ。民を中心部の建物に押し込み、防衛線を極限まで短くする。これなら千の兵力でも分厚い壁を作れるはずだ」
「確かに、それなら背後を突かれる心配もないな」
幾人かがその籠城案に賛成へと傾きかけた時、最も年配の中隊長が首を横に振った。
「机上の空論だ。付近の農村からの避難民も合わせれば、ネモリスにいる民の数は1万に迫る。それだけの人間を中心部に密集させればどうなるか」
彼は地図の中心部を指で叩いた。
「内部に緩衝領域を持たないまま、周囲を厚く包囲されてみろ。敵の圧迫だけで中心部は大混乱だ。そこにシャーマンの炎魔法を撃ち込まれたらどうなる? 密集した守備隊も1万の民も、逃げ場のないまま丸ごと火の海にされて全滅だぞ」
その指摘に、賛成しかけていた隊長たちも青ざめて押し黙った。
広く守れば突破され、狭く守れば焼き尽くされる。完全な手詰まりだった。絶望的な沈黙が室内を支配した時――俺は静かに口を開く。
「俺から、全く別の戦術を提案させてもらう――『斬首』と『遅滞』、そして『総力戦』だ」
俺の言葉に、中隊長たちの視線が一斉に集まる。
「大規模群行の鍵は、群れを統率する上位種にある。こいつさえ倒せれば群れの統率は崩壊し、炎魔法の脅威も消え去るだろう。敵の包囲の外に斬首部隊を潜伏させ、ゴブリン本隊が街への攻勢に前がかりになった隙を突き、背後から急襲してゴブリン・シャーマンの首を落とす」
「部隊を街の外へ!? 街の防衛を疎かにするのですか!」
「だから街中で『遅滞戦闘』を行う」
俺は街中の路地に、防衛側の駒を散らすように配置した。
「全周防衛も、一点集中もやめる。街の路地や建物を障害物として使い、血みどろの撤退戦を行いながら敵の進軍を徹底的に遅らせるんだ。街の中央には遊兵を置き、防衛線を抜けてきた少数の群れを排除する」
「お待ちください。遅滞戦闘は極めて難易度が高い! 少しでも崩れればただの敗走に変わりますぞ!」
「ああ。だからこそ、熟練兵や下士官たちは、すべて街の守備隊に投入する。彼らを核にして防衛線を構築しろ」
「ならば、斬首部隊はいったい誰が担うのです?」
「俺直下の打撃小隊だ。無論、俺が指揮をとる」
俺は淡々と告げた。
「そこに、力と体力を持て余している血気盛んな若い兵を追加して編成する。神経をすり減らす遅滞戦闘よりも、命を懸けた突撃の方が向いているだろう」
王子自らが最も危険な任務に就くと宣言し、場が静まり返る。
「それから、兵を使って中心部の家屋を崩す。炎魔法対策の『防火帯』を作るんだ。その木材や瓦礫は路地を塞ぐバリケードに転用する」
住人の家を戦略のために事前破壊するという非情な提案に、息を呑む音が響く。だが俺は構わず続けた。
「さらに、1万の民をただ震えて待たせるな。彼らを労働力として徹底的に組織化しろ」
「民を、戦わせるというのですか!?」
「前線には立たせない。だが、バリケード補強や負傷者の対応、物資の運搬を行わせる。さらに大量の水と砂を用意させ、民による『消火班』を編成しろ。炎魔法が飛んできても、着弾と同時に民衆自身の手で消火させるんだ」
「そのように民が冷静に対処できるとはとても思えません。火が放たれれば、大パニックが起きますよ!」
「ああ、その可能性は高い……だから避難区画を頑丈な柵で区切り、移動を封鎖する。万が一火の手が上がっても、パニックの連鎖を物理的に遮断するためだ」
一部に犠牲が出ても、全体を崩壊させない。あまりにも冷徹で、しかし極めて合理的な作戦に、室内は水を打ったように静まり返った。
「守備隊の崩壊が先か、民のパニックが先か。それとも、斬首部隊の刃がシャーマンの首に届くのが先か。――一か八かの時間勝負だ」
俺の言葉が落ちた直後、バンッ!と乱暴に会議室の扉が開かれた。
「ほ、報告しますッ!」
伝令が息を切らして転がり込んでくる。
「森に放っていた斥候部隊より急報! 森の深部より、ゴブリンの大群がネモリスへ向けて進軍を開始しました! その数、確実に1万以上! 動きは緩慢ですが、明日の昼には間違いなくこの街に到達します!」
その絶望的な知らせに、中隊長たちの顔から血の気が引く。猶予はもう、1日も無いのだ。
俺の覚悟を問うような視線を受け、大隊長ロランが深く、そして力強く頷いた。
「……分かりました。殿下の策を採用し、直ちに全軍を再編します」
こうして、ネモリス防衛における大隊の戦術は決した。
◇
作戦会議の後、街はすぐさま喧騒に包まれた。守備隊と住民が総出で、家屋の解体とバリケードの構築を開始したのだ。
一方、俺たちテオドール小隊は、全軍から志願した若兵らを加え、約百名からなる『斬首中隊』を組織した。
出撃の準備を進める俺の前に、目を真っ赤に腫らしたコレットが立ち塞がった。
「いけません、テオドール様! これっぽっちの部隊で万の大群に突撃するなんて……今度こそ、本当に死んでしまいますっ!」
我が子を案じるような彼女の号泣に、俺は微笑んで優しく肩を叩く。
「心配をかけてすまない。だが、俺には王族として、そして『武神の聖痕』を持つ者として、この民を守る義務がある。必ず任務を成功させ、生きて帰ってくるよ」
隣で不安げに俯くセシルにも向き直った。
「セシル、お前には負傷兵と民の治療を頼む。王宮仕込みの癒術、頼りにしているぞ」
「……どうかご武運を。まさか民のためにここまで命をかけるとは……思っても見ませんでした」
「少しは見直したか?」
俺は苦笑する。
(もちろんこんな役回りはごめんだが……ここで逃げ出せば南軍で成り上がる目は完全に途絶えるからな)
「コレットとルネは、民と共に一番安全な後方にいろ。絶対に前へ出るなよ。それとルネ、万が一にも『魔女』だと悟られないようにな」
「はいっ、大人しく待ってます……! 必ず……戻ってきてくださいね!」
3人を残し、俺は整列した斬首中隊の前に立った。
百の瞳が、一斉に俺を見つめている。俺は息を深く吸い込み、腹の底から声を張り上げた。
「諸君! これより君たちには、命を懸けてもらう!」
俺の第一声に、兵たちの空気がピリッと張り詰めた。
「ゴブリンの大群が押し寄せれば、守備隊は血を流して時間を稼ぐ。1万の民もまた、生き残るために全力を尽くすだろう。我々に課せられた任務はただ1つ。敵の背後に潜伏し、万の群れを統率する頭領――炎魔法を扱うゴブリン・シャーマンの首を叩き落とすことだ!」
言葉に力を込め、全員の顔を見回す。
「必ずやり遂げなければならない。もし我々が失敗すれば、このネモリスの街も、大隊の同胞たちも、1万の民も、すべてが炎に巻かれ灰燼に帰すだろう……だが、恐れるな!」
俺は腰の剣を抜き放ち、切っ先を天高く掲げた。
「俺はアストリア王家の名にかけて、そしてこの身に宿る武神の聖痕にかけて、命を懸けてこの任務に立ち向かうと誓おう! 諸君らも、決死の覚悟で俺についてこい!」
「「「おおおおおおおっ!!」」」
怒号のような歓声が空気を震わせる。
士気は最高潮だ。俺たちは自らを鼓舞し、街を抜け出して暗い森へと身を投じた。
明日を終える時、この街が生き残っているか、それとも灰燼に帰しているか。すべては俺たちの双肩にかかっている。
絶望的な『緑の津波』を迎え撃つための、決死の潜行が始まった。




