1話 星に願いを
「凛の余命は、あと数ヶ月だそうだ」
父の掠れた声が、無機質な消毒液の匂いが漂う廊下に落ちた。
ユーイング肉腫。若年層に発症する悪性度の高い骨のガン。
すでに全身への転移が進んでおり、限界まで繰り返した抗がん剤や放射線治療をもってしても、病魔の勢いを止めることはできなかった。
――あの絶望的な宣告から、数ヶ月。
◇
午後六時。数本の電車を乗り継ぎ、俺は大学病院へ向かう道を小走りで進んでいた。
今日は妹の凛の検査結果が分かる日だ。数ヶ月前の絶望的な余命宣告の後、一縷の望みを託して開始した治験中の新薬――その効果の有無が判定されるのだ。
(こんな日に限って講義が遅れるなんて……! 頼む、良い結果であってくれ……!)
息を切らして病院のエントランスを抜け、エレベーターを急かして病棟へ駆け込む。
無菌室の前にたどり着くと、ちょうど中から両親が出てくるところだった。その表情は、先週見た時よりもさらに暗く、深い絶望に沈みきっている。
「父さん、母さん! 検査の結果は……?」
俺の問いかけに、父は重々しく首を横に振った。
「……蓮。残念だが、新薬の効果は全く見られなかった」
「そんな……」
最後の一縷の望みすら絶たれた事実に、俺は言葉を失う。
「しかもな……」
言い淀む父の隣で、母が耐えきれずに顔を覆って泣き始めた。
「凛が、これ以上の治療を拒否したんだ」
「……なんでだよ! 意味わかんねぇよ!」
頭に血が上る。
(それはつまり、死を受け入れたということなのか……?)
「別の新薬の治験もあるそうだが、あの子はもう、これ以上辛い治療に耐えられないと……もう、楽にしてくれと言うんだ」
「ふざけるな! 父さんと母さんはそれでいいのかよ!」
「いいわけないだろう!……だが、あんなに痛がって苦しむ凛を、これ以上見ているのも辛いんだ。親として何をしてやるのが正解なのか……もう、分からないんだよ……」
力なく項垂れる父の姿に、俺は奥歯を強く噛み締めた。
「……俺が、話してくる」
「蓮。どうか、あの子を責めるようなことだけは言わないでやってくれ」
父の悲痛な願いを背に受けながら、俺は病室のドアを開けた。
アクリル板で仕切られた無菌室。ベッドの上には、抗がん剤の副作用で抜け落ちた髪をニット帽で隠す、ひどく痩せ細った妹の背中があった。
受話器を取り、ガラス越しに声をかける。
「……凛」
「……アニキ。お父さんたちから聞いたんでしょ」
ゆっくりと振り返った凛の顔には、無理に作った歪な笑顔と、拭いきれない涙の跡があった。
「ああ。治療をやめるって、本当かよ」
「うん。もう決めたの」
「なんでだよ。他の新薬もあるらしいじゃないか。まだ希望は……」
「希望? ねえアニキ、その希望ってどこにあるの?」
一瞬だけ鋭い視線を飛ばす凛。だがすぐに、達観したかのように目を緩めた。
「この半年、ずっと希望に縋ってきたよ。先生の言う通りに、つらい治療にも全部耐えてきた。でも、結果はどう? 髪は全部抜けて、骨はボロボロになって……毎日、内側からナイフで抉られてるみたいに痛い」
「それでも生きるためだろ! 生きていれば……」
「生きてどうなるの? ベッドの上で管に繋がれて、ただ痛みにのたうち回るだけの毎日が続くの?」
「……治るかもしれないだろ! お前なら絶対に乗り越えられる!」
「治らないよ! アニキだって、お父さんたちだって、本当は分かってるんでしょ!?」
「俺は……」
「お父さんもお母さんも、私のために無理して笑って……それが一番辛いの。私がいるせいで、みんなの人生まで壊れちゃう……」
「……っ……」
「お願い、アニキ。もう私を許して……解放してよ……」
絞り出すような凛の哀願に、俺は受話器を握りしめたまま、一言も返すことができなかった。
かつてバレーボールのコートを跳び回っていた彼女のしなやかな脚は、今やベッドから降りることすら許されない。
すべてを諦めきったような、けれどどこかホッとしたような妹の涙顔を見て、俺の心は完全に叩き割られた。
「…………ッ」
俺はそれ以上、妹の壊れていく姿を見ていられなかった。受話器を乱暴に置き、逃げるように病室を飛び出した。
◇
夜九時前、薄暗いアパートに帰り着いた俺は、カップ麺の湯を沸かしながらいつものようにPCの電源を入れた。
現実世界では、俺は何の力も持たない無力な兄でしかない。妹の痛みを取り除く魔法も、奇跡を起こす金もない。
だからせめて、すべてを自分の思い通りに動かせる盤上が必要だった。
画面に映し出されるのは、何百回と見たオープニング。――『ヴィクターナ戦記』。
リアルタイムストラテジー(RTS)において、知る人ぞ知る名作だ。
舞台となるのは、毎回再構築されるファンタジー世界。大陸の形状、国家、そこに住まう種族までもが、開始するたびにランダムで決定される。
経験や知識だけでは太刀打ちできない。常に臨機応変な戦略が要求されるこの世界に、俺はいつしかのめり込んでいた。
難易度は初心者向けの『賢王の揺りかご』から始まり、最上級となる難易度5の『神々の沈黙』では、便利機能がごっそり削られ、ミニマップも没収、UIまでスカスカになる。俺はこの理不尽な廃人モードを愛用し、最近ようやくクリア率が半分に達したところだった。
(ゲームに集中している間だけは……全てを忘れられる。武力と知略が全ての世界……現実とどちらが残酷なんだろうな……)
そう思いながら、いつも通り最高難易度を選ぼうとスクロールしたときだった。
ノイズが走ったかのように画面が一瞬瞬き、その下に、見たことのない文字列が浮かび上がる。
「難易度6……『星に願いを』? 大型アップデートなんて予定されてたか?」
詳細をクリックすると、あまりに詩的で、今の俺には酷く響く説明文が表示された。
『運命に叛逆し、奇跡を掴むための試練。世界を一つに統べしとき、流星は地上の王の願いを一つだけ叶えるという』
「……願いを一つ、か」
(馬鹿げている。ただのゲームの説明文だ)
だが、暗闇の中でそれにすがりつきたくなるほど、俺の心は摩耗していた。
「開発も悪趣味だな……もし、万が一にでも凛の病気が治るなら、どんな不条理なゲームだってクリアしてやるよ」
自嘲気味に笑い、俺は祈るような気持ちでマウスをクリックした。
――その瞬間、視界が真っ白な光に塗りつぶされる。
底なしの穴に落ちていくような浮遊感とともに意識が急速に遠のき、そして――消失した。




