6.5.ジスラン・リッシュの困惑①
その日、ジスランはかなりの緊張状態にあった。今まで縁がないと思っていたはずの貴族の嫡男としての生活をしてきた中で、初めてリッシュ伯爵家以外の人物と直接顔を合わせることになっていたからだ。
(この瞳は、毒の色だから……)
なるべく不快感を与えないように、顔を伏せておくべきだろう。当然のように彼がそう考えてしまうほど、これまでの人生の中でそれは何度も言われ続けてきたことだった。緑青色の瞳になぞらえて『毒の子』と。
それに突然夫婦になるのだと言われても、誰からも愛された経験のない自分では愛し方など分かるわけもなく、相手の令嬢に対して申し訳ないと思う気持ちばかりで。けれど伯爵家の嫡男となることが決定してしまった以上どうしようもないのだと理解しているからこそ、最初に告げておこうと決めていたのだ。
「あなたを愛せるか、自信がないのです」
と。
それは間違いなくジスランの本音だった。隠していてもどうせすぐに見破られてしまうだろうからと考えて、情けないと分かっていてもあえて先に伝えておくべき真実だろうと判断した。嫌われる可能性がさらに高くなるのだと、そのことも理解したうえで。
けれど婚約者であるダヴィッド伯爵令嬢の反応は、彼が想像していたものとは全く違っていた。
「わたくしが全力でジスラン様のことを愛して差し上げますので、ぜひともそこから学んでくださいませ」
笑顔で告げられた言葉の意味が最初は一切理解できなくて、どうして目の前の女性は自分に対してそんな優しい表情を向けてくれているのかと、ただただそこに対しての驚きしかなかった。この瞬間、毒と呼ばれてきた瞳の色もしっかりと見えているはずなのにと、ジスランはただ混乱してばかりいたのだ。
けれど同時に、ジスランはその優しく気高い姿に、初めて胸の高鳴りを覚えてしまっていて。彼女の一本芯の通っているその強さを尊敬しながらも、今まで経験したことのない感覚に戸惑うばかり。風になびく淡い金の髪も、優しく澄んだ空色の瞳も、その全てが輝いて見えて。まぶしすぎるその姿を直視していられないような、けれどずっと見ていたいとも思ってしまうような、そんな不思議な感覚だった。
だが、ジスランにとって予想外の展開はまだ終わる気配を見せることなく、ダヴィッド伯爵令嬢ブランディーヌはさらにこう言葉を続ける。
「まずは手始めにお互い名前で呼び合うことにいたしませんか?」
と。
正直本当に意味が分からなくて、ジスランは完全に思考が停止してしまっていた。必死に頭の中で情報を整理しようとはしているのだが、どうにもうまく処理しきれずに彼女の空色の瞳を見つめたまま、ただただ瞬きを繰り返すだけの存在になってしまっていたのだ。
そんなジスランを見かねたのか、この微妙な空気を切り替えるようにダヴィッド伯爵令嬢はひとつ咳ばらいをしてから、なぜ突然そんなことを口にしたのかをしっかりと説明してくれた。
「わたくしたちは今日初めて顔を合わせたばかりですが、書類上では婚約者であり将来は夫婦となる仲ですから。今からお互い少しずつ現状に慣れて夫婦となる日までに距離を縮めておけるよう、できることから始めていく努力が大切なのではないでしょうか」
「そ、れは…………そう、ですね……」
確かに言っていることは間違っていないのだが、それがなぜ名前を呼び合うという結論に至ったのかがよく分からなくて、口では同意を示しながらも心の中では首をかしげ続けているジスランである。
だがもしかしたら、彼女はそんなジスランの本心ですら見抜いていたのかもしれない。
「なので、わたくしは今後もジスラン様とお名前でお呼びいたしますね」
「え……あ。は、はい……。……っ!!」
あるいは同意を得たと解釈した可能性も否定できないが、いずれにせよ彼女の中で名前を呼び合うという行為は決定事項になっているのだという事実にうなずきを返してから気づき、ジスランは一気に焦り始めた。これはつまり、自分も同じように名前で呼ばなければならないのではないのだろうか、と。
そしてそんな彼の予想は、まるで当然とでもいうように的中する。
「ですからどうかジスラン様も、わたくしのことはブランディーヌとお呼びくださいませ」
「い、いやいやいやいや……! そんな……!」
「夫となる方にいつまでもダヴィッド伯爵令嬢と呼ばれていては、わたくしも周囲も困ってしまいますもの」
「うっ……」
一度は否定したものの、夫となるのだからと言われてしまえば正論すぎて、もはやなにも言えなくなってしまう。
そのまま言葉に詰まって、どうにか回避する方法はないだろうかと視線をさまよわせてみても……。
「さぁ、ジスラン様。まずはそこから頑張ってみましょう」
「~~~~っ!!」
期待に満ちた目で、しっかりとこちらを見上げてくるその視線にいつまでも耐えられるわけがなく。結局本当に名前を呼ぶまで、かなりの時間粘られてしまったのだった。
それが、今日の昼間にあった出来事。
「……ブランディーヌ様」
すでに何年も使用しているというのにいまだに慣れない豪華な自室のベッドの上で、一人うつ伏せに倒れながらふと思い出して、ポツリと彼女の名前をつぶやく。その瞬間、なんだかとても恥ずかしくなってきてしまって。
「~~っ!!」
急いで枕に顔をうずめて、こみ上げてきた羞恥心と別の感情を逃がそうとするジスランだったのだが、この時の彼はまだ理解していなかった。婚約者のことを思い出すたびに胸の奥から湧き上がってくるその感情が、世間ではいったいなんと呼ばれているものなのかということを。




