3.リッシュ伯爵家の事情
「ですが、そもそもリッシュ伯爵家はどうして今頃、我が家にそんな打診をしてきたのでしょうか?」
息子との婚約だというのであれば、もっと以前からそういった話が来ていてもおかしくなかったはずだ。それがなぜか突然、しかも過去のことを持ち出して脅すようなまねをしてまで、今この婚約話を強引に進めようとしているのか。
そもそも発表していないだけでこちらにすでに内定している相手がいた場合には大問題になるだろうし、そうでなくともリッシュ伯爵家の嫡男であれば幼い頃からの婚約者が存在していたとしてもおかしくはない。だというのに、なぜ今さらなのか。そこがブランディーヌにとっては一番の謎だった。
だがその答えは、父であるダヴィッド伯爵の口からすぐに語られることになるのである。
「もともとリッシュ伯爵家には、正妻が生んだ嫡男がいたんだよ。けれど数年前に病で亡くなってしまったらしく、新しく跡継ぎとなったのが念のためにと妾に生ませていた子供だったようでね――」
長年正妻との間に子供ができなかったリッシュ伯爵は、最悪の場合自分の血が流れている子供ならば問題ないと考え当時愛人だったとある男爵家の三女を妾として迎え入れ、念のため子供を産ませていたのだという。それがたまたま運よく男児が生まれ、これで安泰だと誰もが思った頃に、まさかの本妻の妊娠が発覚した。しかも生まれてきた子は、正真正銘の男児。
結局、正妻を説得してまで迎え入れた妾に生ませた子は必要なくなり、正妻が生んだ子を嫡男として育ててきたのだが、あと少しで成人というところで悲劇が起きる。なんとシーズン終了後に戻った領地でリッシュ伯爵夫人とその息子がそろって同じ病に倒れ、ほどなくして息を引き取ってしまったのだそうだ。
「それ以前にも妾が同じような病で亡くなっていたらしくてね。結局リッシュ伯爵は急いで残っている唯一の息子に跡継ぎとしての教育を始めたのだけれど、とっくに成人しているはずのその息子のことを誰も目にしたことがないから、きっとまともな教育も受けさせてこなかったために外に出すこともできず焦っているのだろうという話で、今期のシーズンは持ちきりだったよ」
普段は社交界を飛び交う数々のうわさなど気にも留めない父ダヴィッド伯爵が、完全な偶然とはいえまさかここまで重要な情報を仕入れているなどとは思いもしていなかったブランディーヌは、その内容以上にこの状況に驚いて思わずその顔をまじまじと見つめてしまった。いくら自分がデビュタントで当日も忙しくしていてうわさ話に耳を傾けている暇がなかったとはいえ、同じ会場内にいたはずの父がこんなにも有益な情報を手に入れているなんて、と。
だが、そこはやはり親子。娘の考えていることなどお見通しな父は、頬を膨らませながらジトっとした目をしてこちらを見てくる。
「ブランディーヌ、失礼なことを考えているね? 私だって、時にはこういう貴族らしいこともするのだよ」
少し子供っぽいこの仕草は、ダヴィッド伯爵が家族だけに見せる表情だ。わざとだと知っていても、ブランディーヌは久々に見た父のその姿に思わず笑みがこぼれてしまう。
「ふふっ。ごめんなさい、お父様。なんだか珍しくお父様の貴族らしい一面を見たものだから、つい」
「普段は薬草ばかり相手にしているからね。シーズン中も商談ばかりであまり夜会などには出かけないから、お前がそう思ってしまうのも無理はないのかもしれないね」
二人でそう笑って言葉を交わすものの、依然として問題は目の前に立ちふさがっている状態で。けれど今の話を聞いて、ブランディーヌはひとつ決意をしたのだった。
「ねぇ、お父様」
「なんだい?」
「わたくし、今回のお話をお受けしようと思っているのです」
「……えぇ!?」
今までの会話の中でそんな素振りは一度も見せていなかったせいか、彼女が予想した以上に驚いたような反応を見せてくれるダヴィッド伯爵なのだが、どうやら突然聞かされた伯爵本人にとってはかなりの衝撃発言だったらしい。その証拠に言葉が出てこないのか声もないまま口をパクパクと動かすだけで、一向に話が進みそうな気配がない。
けれどブランディーヌはそんな父の心境を理解したうえで、さらにこう言葉をつなげるのだ。
「本当にうわさ通り跡継ぎとしての教育が間に合っていないのであれば、きっとあちらはかなり焦っていることでしょうから。どうせならばその現状を利用して我がダヴィッド伯爵家がリッシュ伯爵家を乗っ取るくらいのつもりでいたほうが、あえて今わたくしが嫁ぐ意味が出てくるというものではないでしょうか?」
成人しているのに表舞台に出てこないということは、おそらく本当になんらかの問題があるのだろう。それがリッシュ伯爵家全体のものなのか、それとも今回の婚約相手本人に関することなのかは、今はまだ判断できないところではあるが。しかしだからこそ、飛び込んでみないと分からない真実がそこにはあるのだろうとブランディーヌは考える。
そして、もう一つ。リッシュ伯爵家がうわさ話を広げるのが得意だというのであれば、それは今後の彼女の発明品の宣伝に役立つ可能性が高いという、なんとも打算的な理由もあった。
「仮に毒にまみれた家柄だった場合には、わたくしにも考えがありますから。ご安心ください」
ニッコリと笑みを浮かべてみせた娘の表情にダヴィッド伯爵は目を見張ると、その直後に長いため息をつく。
「……最悪の事態を想定しておくのはいいけれど、やりすぎないようにだけは注意しなさいね」
「もちろんですわ、お父様」
そう、ここは薬草に関する専門家を育てる、ダヴィッド伯爵家。その知識量は膨大で、もはや領地にあるカントリーハウスには最先端の技術が詰め込まれた薬草園が存在しているほど、他の追随を許さない。
だからこそ、彼らには奥の手が存在していた。
「どの薬草を調合して持っていこうかしら」
鼻歌でも歌い出しそうなくらい上機嫌なブランディーヌの頭の中はすでに薬草のことでいっぱいだったが、その効能は薬になるだけのようなものたちばかりではない。少しでも用量を間違えれば毒にすらなる、紙一重の植物たち。
薬と毒は、まさに表裏一体。普段は決してそんな使い方をすることはないのだが、万が一の場合に備えて彼らは毒の調合の仕方もしっかりと頭の中に叩き込まれているのだ。
そんな人物を屋敷の中に招き入れるなど本来ならば大変危険な行為でしかないのだが、世間は基本的にその事実を知らずダヴィッド伯爵家が実際に毒を使用した歴史も表には存在していないため、利用できる無害な家柄なのだと認識されている節がある。しかし実際には、誰に知られることなく人を死に至らしめることのできる恐ろしい知識も有しているのだということは、ダヴィッド伯爵家の直系だけが知る真実だった。