1.突然の婚約話
その日もブランディーヌは朝の日課である薬草園の見回りを終わらせて、金糸のような淡く美しい長髪をなびかせながら自室へと向かい歩いていた。理知的なその空色の瞳は真っ直ぐに前を見据え、女性にしては高めの身長を気にすることなくしっかりと背筋を伸ばし、立ち姿であろうと歩き姿であろうと美しくも優雅な姿勢を決して崩すことはない。
薬草栽培を主とするダヴィッド伯爵家に生まれた彼女は、幼い頃から兄や父のあとをついて回り、薬草についての知識を余すことなく受け継いできていた。だがそれでも、すでに十八歳。領地で扱っている特産品が特殊なため慎重に相手を選ぶ必要があるとはいえ、そろそろ婚約者を決めて嫁がなければならない年齢に差し掛かっている。たとえ本人が、どれだけこの家に残りたいと願っていたとしても。
(貴族の令嬢として生まれてきた以上、避けては通れない道だと理解はしているけれど……)
できれば一日でも長く薬草と向き合っていたいと心から思ってしまうブランディーヌは、その美しい見た目とは裏腹に内面は確実にダヴィッド伯爵家の人間だった。
とはいえ、見た目を気にしていないというわけではない。薬草には様々な効能や使い方があることを知っているからこそ、個人的に調合した髪油や香油を使い見た目の美しさを最大限に引き出しているのだ。なぜならば彼女は、自らの容姿にも利用価値があるのだと理解していたから。
(嫁ぐ際には希少性や毒性の低い薬草ならば持っていってもいいと、お父様はおっしゃっていたけれど。わたくしが開発した美容に関する商品の扱いは、どうされるおつもりなのかしら?)
残念ながら彼女の父も兄も一般的な男性と同様、そういった商品に対する熱意はあまり高くはない。そのため現在美容部門に関しては完全にブランディーヌに一任されており、研究から開発・改良に至るまで全ての工程がその手によって行われている状況なのである。
(お父様もお兄様も薬草に関する研究にはなによりも興味を示す反面、その先の利益についてはあまり関心をお持ちでないようだから、もしかしたらわたくしが嫁ぐ際にその権利ごと持ち出すことになる可能性も否定できないわね)
彼らならば嫁ぎ先でも困らないようにという意味合いも含めて、そういった許可を出す可能性は非常に高い。そうでなくともブランディーヌがいなければ衰退していくだけの部門なので、おそらく今ですらあまりそのあたりのことは気にしていないのかもしれないが。
そんなことを考えていると、遠くのほうから誰かがため息をついた音がブランディーヌの耳に届いてきた。離れているはずの場所にまで届くほど特大のため息だったのかと、思わず彼女は足を止めそちらへと目線を向ける。するとブランディーヌの自室へと続く道とは別方向から、こちらへと歩みを進めている父の姿が目に入ってきた。だがその様子はどこか思い悩んでいるようで、腕組みをして下を向きながら普段よりもかなりゆっくりとした歩調で近付いてくるその視線が、前方にいる娘の姿を捉える気配など今は全くなさそうだった。
「お父様、どうなさったのですか?」
珍しい父の姿に思わず気になって声をかけたブランディーヌだったのだが、逆に突然声をかけられたと思ったダヴィッド伯爵は驚いてその顔を上げる。陽に当たると黄金に輝くその髪色も今は室内だからか普段のきらめきはなりを潜め、ブランディーヌが受け継いだ空色の瞳はどこか普段の精彩を欠いているようにも感じられた。
「あ、あぁ。ブランディーヌか」
そこでようやくこちらに気がついたとばかりに向けられた表情は、なんとも表現しにくい微妙なものだった。まるで今は顔を合わせたくなかったとでも言われたような気分になるブランディーヌではあったが、声をかけてしまった以上あとには引けない。
「お力になれるかどうかは分かりませんが、お一人で悩まれているようならばお話だけでもお聞きしますよ?」
薬草についてならば人に話している間にいい案が思いつくかもしれないし、経営についての悩みであれば女性向けの薬草化粧水などを開発するのもいいかもしれない。などと最近思いついた新作についての提案もできると考えていた彼女の思考は、次の瞬間完全に凍りつくことになる。
「……ブランディーヌ、お前に婚約話が舞い込んできているんだよ」
「…………はい?」
忙しそうに左右に視線を泳がせたあと決意したようにダヴィッド伯爵が口にしたその言葉は、ブランディーヌにとってはまさに予想外かつ突然の展開でしかなかったのだ。