10.最悪の事態
「けれど、まだまだお忙しいのではありませんか?」
「い、いえ、その……ちょうど、休憩する予定でしたので……」
「まぁ。ではせっかくですし、一緒に休憩にいたしませんか? わたくしも先ほどから、ポレットに働きすぎなのではないかと心配されていたのです」
ブランディーヌの提案に本気で驚いたのか、びくりと体を揺らした反動でジスランの目元を隠している白銀の前髪が割れ、その奥から緑青色の瞳が顔を出す。その表情は思った通り、驚きに満ちていて。
「えぇ、えぇ! そういたしましょう! すぐに談話室にご用意いたしますね!」
反対にポレットはよほどその提案が嬉しかったのか、未来のリッシュ伯爵であるジスランの返答を待たずして、足早にその場を離れて準備に向かったのだった。
「あ……」
「まぁ。ポレットは気が利く侍女なのね」
止める間もなかったと中途半端に空中で行き場を失ったジスランの腕と、小さく漏れ出た声。そんな彼の様子を横目で見つつも、あえてこの場からいなくなってしまった侍女を褒めることでその先の言葉を完全に封じてしまったブランディーヌは、困惑しているジスランに向かって当然のように声をかける。
「わたくしたちは、ゆっくり参りましょう? それにせっかくですから、ジスラン様のお話もお聞きしたいのです」
屋敷の中で今後こうして二人きりになる機会など、滅多に訪れることはないだろう。であれば使用人がいては話しづらいような話題は、今のうちにしておくに限る。
(とはいえ、まだまだ核心に迫るような部分に触れられるほど、仲を深められているわけではないのですよね)
本当は、数年前までこの屋敷の中でジスランはどういう扱いを受けていたのか、いったい今までどんな立ち位置だったのかや現状について本心ではどう思っているのかなど、聞いてみたいことはたくさんあるのだが、残念ながら今はまだその時ではない。
なのでその代わりに、というのもおかしな話かもしれないが、なにを話すべきかと戸惑い焦っている様子を見てふと思い出したかのように、ブランディーヌはこう問いかけたのだった。
「あぁ。そういえばリッシュ伯爵のご様子は、今どのような状態なのでしょうか? さすがにこちらに到着したばかりのわたくしでは面会することも叶わないので、ピエールから聞いている限りでしか知らないのです」
さらに言ってしまえば、家令であるピエールはあまり主人の病状について詳細を語ろうとはしなかった。使用人としては正しい行為なのかもしれないが、これでも薬草を専門的に取り扱うダヴィッド伯爵家の令嬢としてはそのあたり気になるところでもあり、またもしかしたら役に立てるかもしれないとも思うところではある。
「ち、父上の、ですか……? そう、ですね……」
それに対してジスランはといえば、嫡男としての教育は着実に進んでいるようだが、なにぶん警戒心が薄い。この場合は口にして特に問題はないのだが、確かにこれではまだまだ社交界に出すとなると不安が残ると、ある意味利用していながらも同時に心配になってしまうブランディーヌであった。
「その……正直なところを言ってしまえば、あまりいい状態とは……」
「そう、なのですね」
彼の顔が普段以上に下を向いたので、これは想像していたよりも深刻な状態で実はもうあまり時間は残されていないのではないかと推測しつつも、表面上は痛ましそうに見える表情を浮かべるブランディーヌ。しかし、その直後にギリギリ聞き取れるくらいの小さな声でこぼされたジスランの言葉に、若干の引っ掛かりを覚えることとなる。
「それに……」
「……それに? なにか、気になる点があるのですか?」
普段はあまり自分から話そうとはしないというのに、今はどこか迷うようなそぶりを見せている彼の様子にこれはもしかしたらなにかを知っているのかもしれないと、焦らせないようにあえてゆっくりと問い返してみると。
「その……私の思い過ごし、かもしれないのですが……。実は、その……母が亡くなった時と、よく似た症状が出ているような気が、していまして……」
「お母様の?」
予想もしていなかった人物が出てきたことで、リッシュ伯爵邸でのブランディーヌの警戒心が一気に跳ね上がったのだった。
そもそもジスランの母親ということは、とある男爵家出身だというリッシュ伯爵の妾を指しているのだろう。となると病の種類によっては、何年もの間その原因となる細菌などがリッシュ伯爵の体内で眠っていた可能性も否定できない。いくら医者が感染症ではないと判断しているとはいえ、病の感染経路とはなにもひとつとは限らないのだから、身体的な接触が理由だとすれば――。
「もしやリッシュ伯爵夫人やそのご子息も、同じような症状が出ていたのではありませんか?」
「え、っと……。私は直接お会いしていないのですが、その……お話を聞いた限りですと、おそらく同じだったのではないかと思います……」
「……そのことを、ジスラン様はどなたかにお話しになられたのですか?」
「い、いいえっ、まさか! 私の話など、その……話す価値もない、ですから……」
即座に否定してくるあたり、やはりそういった言葉を誰かに向けられて育ってきたのだろうとは思うのだが、今はそちらを追及している場合ではなかった。
「ちなみに、どんな症状だったのかをお聞きしても?」
「あ……その、えっと……。あ、頭と視線が、ずっと下を向いているような……」
「具合が悪いからではなく、無意識にずっとそうなっているように見受けられた、と。そういうこと、なのですよね?」
「は、はい……」
自信なさそうに口にしているように見えて、けれどその実しっかりと必要な言葉だけを選んでいるあたり、おそらく地頭はいいのだろう。そしてなによりも、観察眼が優れている。
到着が遅くなって不審がられならないよう談話室へと向かいながら、それ以外にはそれぞれ別の症状が出ていながらも倦怠感だけは共通していたり、最後には起き上がることすら困難になってしまうのは病だから仕方ないとしても、全員発症から亡くなるまでがとても速かったのだという事実をジスランから聞いたブランディーヌは、あるひとつの可能性にたどり着く。
(これは、もしかして……)
けれど同時に、彼から聞いた症状がもし本当に予想した通りのものだったとするならば、一刻の猶予もないかもしれない。
今ならばダヴィッド伯爵領へと戻る馬車と気心の知れた使用人の両方がそろっている状態なので、無事に到着したという報告の手紙を書きたいからと言って領地へ戻るのを少しだけ待ってもらうことにする。そうしてブランディーヌは最悪の事態を避けるために、急いで父であるダヴィッド伯爵宛ての手紙をしたため、ある薬の調合を依頼したのだった。
しかし……。
「そんな……」
その薬がブランディーヌの手元へと届くよりも先に、病に倒れたと聞いてから一度も顔を合わせることなく、翌日リッシュ伯爵が突然の発作で亡くなったと聞かされることとなる。
報告を聞いた瞬間、ブランディーヌは生まれて初めて頭の中が真っ白になってしまい、心配したポレットが思わずその体を支えてくれていたのだが。なぜ彼女がそこまで動揺しているのかを知る者は、残念ながらこの場には存在していなかった。
こうしてブランディーヌは、今後のリッシュ伯爵邸での生活に一抹の不安を抱えながら日々を過ごすことになったのである。




