8.未来の女主人
「最低限必要な分だけでいいわ。残りはあとから順次運び入れてちょうだい」
「かしこまりました」
リッシュ伯爵が病に倒れてしまったという知らせを受けてからひと月と経たないうちに、ブランディーヌは未来の女主人としてリッシュ伯爵邸を取り仕切ることになった。というのも、今まで全ての指示を出していたというリッシュ伯爵が、ついに話すことさえ困難なほど病が進行してしまったのである。
そもそも正妻が亡くなってから後妻を迎え入れていないため、この屋敷はもう何年もの間女主人が不在だったのだ。そのため本来の仕事をするべき人物が存在しないまま、かなり長い期間屋敷の中は同じ状態を保つことだけが優先され、女性らしい感性で流行を取り入れながら華やかに飾り立てるようなことなど一切されていなかった。
そんな中、突然の管理者不在。領地の経営については重点的にジスランが学んでいたためすぐに混乱が起きるようなことはなかったらしいのだが、彼も屋敷のこととなると完全にお手上げだったようだ。どうにか助けてほしいという懇願の手紙が、ジスランだけでなく家令からもダヴィッド伯爵家宛てに届いたため、こうして急いで準備を整えてブランディーヌはリッシュ伯爵邸へとやってきたという次第である。
「ダヴィッド伯爵令嬢様、長旅お疲れ様でございました。またこの度は私どもが至らぬばかりにお手間をおかけしてしまい、大変申し訳ございません」
玄関ホールに入ると、数人の使用人に出迎えられる。その中で最も高齢の、白髪交じりのロマンスグレーの髪をオールバックにしている鉛のような灰色の瞳の男性に話しかけられたブランディーヌは、即座にこの人物こそがリッシュ伯爵家のカントリーハウスを取り仕切る役職を与えられている使用人なのだと見抜き、彼へと向き直る。同時にこの慌ただしい中でも一切表情を崩す様子すら見受けられないところからして、しっかりと冷静に物事を見極められる人物なのだろうと瞬時に相手の特徴を分析した。
「私はリッシュ伯爵家の家令、ピエールと申します。そしてこちらは、侍女長のジスレーヌです」
案の定、彼は使用人の最高責任者だったらしい。そしてそんな家令のピエールが紹介してきたのは、なめし革のような色の髪と濃い紅茶色の瞳を持つ、少々ふくよかな女性。侍女長ということは、今後ブランディーヌが指示を出すことが最も多いであろう使用人だ。そんな人物を最初に紹介してくるあたり、さすが家令を任されているだけあってピエールは仕事ができるのだろう、大変効率がいい。
「お部屋は整えてありますが、いかがなさいますか?」
「先に現状を把握しておきたいから、ジスレーヌは荷物整理の人員をもう少し確保してくれるかしら?」
「かしこまりました」
侍女長である彼女は屋敷に着いたばかりのブランディーヌに対して、休憩する予定があるのかどうかの確認をしたかったのだろう。だが未来の女主人として足を踏み入れた以上、ブランディーヌにはそんな悠長なことをしている暇などない。ただ、ダヴィッド伯爵家から持ってきた荷物の運び入れを早く終わらせてしまいたかったのも事実なので、先にあちらから声をかけてくれたこと自体はありがたかった。
今後使うことになる部屋の確認も必要なのでそれに関してはまた後ほど声をかけようと決めて、ブランディーヌはジスレーヌに指示を出してから再び家令のピエールへと向き直る。
「ジスラン様は、今のお時間は執務室かしら?」
「はい。領地経営に関する書類を確認しておられます」
「そう。ではご挨拶は後回しにして、私が今するべきことを教えてくれるかしら? それから屋敷の中の現状とここ数年の記録、そしてリッシュ伯爵のご様子についてもね」
「かしこまりました」
本来ならば真っ先に屋敷の主へと挨拶に向かうべきところではあるが、その主自身が倒れてしまったからこうしてブランディーヌがリッシュ伯爵邸へと足を踏み入れている以上、はじめから顔を合わせること自体は諦めている。同じ屋敷の中にいるので急ぐ必要もないというのがひとつと、外から入ってきたばかりなのでどんな菌を引き連れてきてしまっているのか予想できないからというのが、その主な理由だった。そしてジスランに会いに行かないのは、単純に仕事の邪魔をしないため。
そもそもブランディーヌがここで求められているのは、女主人としての働きなのだ。となれば、まずやるべきことは屋敷の敷地内をどう整えていくのかという今後の指針を考え指示を出すことと、そのために使える予算を把握しておくこと。リッシュ伯爵の好みなどは、ここ数年の間は本人が屋敷の管理も主導していたというのだから、その記録を見ればある程度は理解できるだろうと推測してピエールに指示を出したのだった。
ところが、実際にピエールが用意してくれていた屋敷内に関する資料に目を通したブランディーヌは、そこで驚きの事実を知ることになる。
「これは……毎年完全に同じことだけをしていただけ、ということよね?」
「はい、おっしゃる通りです」
そこに書かれていたのは内装の変化などは一切なく、庭園の植物も毎年同じ時期に同じものを植えるだけの、ほぼ作業と化していたであろう記録のみ。確かに同じ状態を保つことを優先するとは聞いていたが、まさか本当に言葉通りだったとはと愕然とした。
(流行だとか女性らしい華やかさだとか、それ以前の問題だったのね)
これを見てひとつだけ分かったことがあるとすれば、リッシュ伯爵は屋敷の管理についてあまり関心がなかったということだけだ。
とはいえ人を招く可能性が高い王都のタウンハウスならばともかく、自分たちが過ごすだけの領地のカントリーハウスなど毎年同じだったとしても誰に見られることもないので、確かに問題はないのだろう。
「予算は? いくらまでの予定でいるの?」
「繰り越し分もありますので、毎年の予算との合計でこちらの金額になる予定です」
「っ!?」
そう言ってピエールから差し出された資料の数字は、ブランディーヌが予想していたよりもはるかに大きな額だった。その内訳を見ると、繰り越しをしすぎて本来の毎年の予算の倍以上になってしまっているようだが、逆にこれだけあれば十分すぎるくらいしっかりと屋敷内を整えることができる。
「これだけあっても、リッシュ伯爵は現状維持だけを指示していらっしゃったのね」
「亡くなられた奥様の指示通りに、とのことでしたので」
「あら。それをわたくしが変更してしまっていいのかしら?」
リッシュ伯爵と正妻の間に愛があったのかどうかは不明だが、その頃の思い出はこの屋敷の中に数多く存在していることだろう。それを息子の嫁になる人物とはいえ、今までの出来事をなにひとつ知らない人間が簡単に変えてしまっていいものかと疑問に思い口にしたのだが。
「以前、旦那様はこうもおっしゃっておられました。屋敷の中にまで目を向ける余裕はない、と」
「本来は妻の役目ですものね」
「はい。ですので、今後はジスラン様に嫁いてくださった方に全てお任せするつもりでいるのだとも」
「そう。それならば問題はなさそうね」
ピエールの言い方からして、おそらくリッシュ伯爵は思い出を残しておきたいというわけではなく単純にそこまで手が回らない、あるいは屋敷内のことにまで頭を使い指示を出すなど面倒だと思っていた可能性が高いと判断して、そういう状況ならば大幅な変更をしてしまっても大丈夫だろうとブランディーヌは結論づけたのだった。
「リッシュ伯爵のお体のことを考えて、まず花瓶は一度全て下げてしまいましょう。植物は虫や菌の温床になる可能性が高いわ」
「承知いたしました」
「それ以外は屋敷内をしっかりと見て回ってから考えたいから、あとで誰かに案内をお願いしたいわ。それから、先に使用人の管理についての資料も見せてちょうだい」
「各使用人の配置については、こちらにまとめております。屋敷内の案内についても、後ほどジスレーヌが選抜した侍女を手配いたしましょう」
「えぇ、ありがとう」
こうしてリッシュ伯爵邸へと到着したその日から、ブランディーヌの女主人としての仕事は始まったのである。




