0.プロローグ
「あなたを愛せるか、自信がないのです」
先ほど初めて婚約者として顔合わせをしたばかりだというのに、二人でリッシュ伯爵家の庭園へと足を踏み出してからそう時間も経たないうちに未来の夫となる予定の人物からそんなことを突然告げられてしまったブランディーヌは状況についていけないまま、その空色の瞳を二回三回と瞬かせる。
リッシュ伯爵家の跡継ぎであるジスラン・リッシュの事情については、あらかじめ知っている部分は確かにあった。だがリッシュ家のほうからダヴィッド伯爵家に打診があったというのに、まさか二人になって最初に彼の口から出てきた言葉がこんなにも弱気発言になるなどとは、さすがのブランディーヌでも予想していなかったのだ。
(これは……わたくしが想像していた以上に、闇が深いのかもしれないわ)
けれどそれについて考察するのも調べさせるのも、今は後回しでいい。それよりも先にやるべきことは――。
「まぁ。でしたらわたくしが全力でジスラン様のことを愛して差し上げますので、ぜひともそこから学んでくださいませ」
「!?」
はい分かりましたと受け入れてしまうのは簡単だが、それでは意味がないのだ。これから正式に夫婦となった際に、あなたのことは愛せませんでしたなどという理由で避けられてしまっては困るし、なによりも自信がないだけだというのであればこれから自信をつけてもらえばいい。
笑顔でブランディーヌが告げた瞬間ジスランは緑青色の瞳を大きく見開いたのだが、彼女はそれに構わずさらに言葉を続ける。
「なにか分からないことがありましたら、その都度わたくしに確認していただければ問題が起きることはありませんもの。夫婦の形は人それぞれなのですから、わたくしたちはわたくしたちだけの正解を見つけていけばいいのですよ」
「ダヴィッド伯爵令嬢……」
柔らかな風の吹く中、淡い金糸のような長髪を手で押さえながら優しく微笑むブランディーヌの姿に、ジスランはまるで迷子になった子供のようにどうすればいいのか分からないという表情を浮かべながら、それでも緑青色の瞳だけは真っ直ぐに空色の瞳を見つめ返している。彼の心の内にある困惑を表すかのように、高い位置で結いあげた光り輝くその白銀の長髪が風に遊ばれ、毛先があちらこちらへと揺れ動いていた。
声が聞こえないほど遠くから見守っている使用人たちからすれば、二人のその姿はまるで一枚の絵画のようにも見えていたことだろう。まさか男性側が弱気発言をしたために、女性側がそれを補って余りあるほどの強気発言をしている場面だなどとは、露ほども思わぬまま。
そうしてこの日から、顔を合わせるたびにブランディーヌがジスランのどこか一カ所を必ず褒めるようになったのだが。
「ジスラン様は大変長身でいらっしゃるのですね。わたくしも令嬢としては比較的背が高いほうなのですが、横に並ぶとまるで普通の背丈になったようで少しうれしくなりますの」
「……ありがとう、ございます?」
初期の頃はそう言って実際に横に並んだブランディーヌが見上げた先で、ジスランはどう返答すればいいのか分からないという困惑顔をしながらも、小首をかしげ瞬きしつつなんとか絞り出すように応えるのが精いっぱいだった。
しかし、とある事件が解決したことをきっかけに少しずつ意識が変わっていったジスランとその中で深まった二人の絆は、やがて大きな変化をもたらし。
「ジスラン様の白銀の髪は、陽の光に当たると本当に美しく輝きますね」
「その……あなたの髪のほうが、私にはずっと美しく見えます」
ブランディーヌの言葉に対して若干の恥ずかしさが残っているのか淡く頬を染めながら、それでも懸命に自分の思いを口にするようになったジスランを誰もがあたたかく見守るという、出会った頃には考えられなかった彼の進歩と成長がみられるようになるのだが。それは二人が初めて出会ったこの日から、まだまだずっと先のこと。
そう。これは政略によりある日突然婚約者となった二人が、ひとつの大きな謎に立ち向かうことで絆を深めつつ、愛し合える夫婦を目指して奮闘する物語である。