公爵様が選んだのは、妹じゃなくて私でした
鏡の中に映る私は無表情で色がない。灰色の髪、灰色の服、灰色の瞳。
じーっと目を合わせていると、私の存在そのものが薄れていくような気がする。
コンヴェント子爵家の長女、ステラリア・コンヴェント。
その名前を授かってから今年で19年目になる。けれど、最近、私は自分の名前を忘れそうになる。「ステラリア」、そう呼ばれることがめっきりなくなったからだ。
「ねえ、いつまで部屋にいるの?」
母の鋭い声が、廊下から聞こえてきた。
「今夜はハーウッド公爵家の晩餐会よ。ヴェロニカのためにも、あなたもきちんとした格好で出席する義務があるんだから」
ヴェロニカ。
三つ年下の妹で、私とは正反対の存在だった。
鮮やかな金髪、澄んだ緑の瞳、そして常に微笑みを絶やさない華やかさがある。
いつだって彼女の周りには人が集まっている。
対する私は、部屋の隅に立って誰にも話しかけられない。地味な女だ。
話しかけられても、決まって「ヴェロニカのお姉さんですよね?」という前置きから始まる。
私は鏡の前からそっと立ち上がり、クローゼットに向かった。晩餐会用の服を選ぶ。けれど、どれを選んでも、妹の華やかさには敵わない。
結局、いつものように灰色のドレスを選んだ。地味だけれど、それが私らしい。
妹の引き立て役として、私は存在しているのだから。
晩餐会の会場は公爵家の大広間だった。煌びやかなシャンデリアが天井から吊るされ、色とりどりのドレスを纏った令嬢たちが花のように咲き誇っていた。
私はその片隅で、静かにグラスを傾けていた。もちろん一人で。
「……こういう場は退屈だよな」
低く静かな声が耳に届いた。
顔を上げると、背の高い青年が立っていた。漆黒の髪に淡い金の瞳、整った顔立ちをした彼は、ひと目で只者ではないと分かる雰囲気を纏っていた。
「えっと……?」
「レオニス。ハーウッド家の次男だ」
私の息が詰まった。私なんかが、主催家の次男に話しかけられるなんて。
「失礼しました。ご挨拶もせず……」
「堅苦しいのはやめてくれ」
「は、はあ」
「名前は?」
「ステラリア・コンヴェントです」
「ステラリアか、いい名前だな」
その言葉が本心なのか冗談なのか、私には判断できなかった。
ふと、何かに引き寄せられるように顔を上げた。大広間の高い天井から吊るされたシャンデリア。そして、その奥の大きな窓越しに、静かな夜空が広がっていた。
わずかに覗く星の輝きが、まるで私だけに向けられた光のように瞬いていた。
「星が好きなのか?」
「はい。昔から、夜空を眺めるのが好きなんです」
「星はいい。騒がしくないからな」
その言葉に、私は思わず口元が緩むのを感じた。
「そうですね。子どもの頃、父が天球儀を贈ってくれたことがあって……夜がくるたびに星の名前を覚えるのが楽しくて」
「君も天文学に興味があるのか」
「ええ、少しだけ。星の巡りには、安心感があります。決まった季節に決まった星が現れて……まるで裏切らない約束みたいで」
「……裏切らない、か。いい言葉だな」
レオニス様の瞳が、わずかに細められる。そこに浮かぶ微笑は、ごく僅かなものだったけれど、不思議と胸に残った。
「天球儀にあまり興味を持つ人はいなかったけれど……私は夢中になりました」
「僕も同じだ。誰にも理解されなかったが、星の運行には確かな理がある。そういうところが好きだ」
「ええ、わかります。星は決して嘘をつかない」
自然と笑みがこぼれる。こんな風に、自分の好きなことを誰かと共有できたのは初めてだった。
私たちの会話に、少しずつ人目が集まり始める。普段、こんな風に誰かと会話する姿を見せたことはなかったからだ。
そんな空気を割って、華やかな声が割り込んだ。
「まあ! レオニス様。お久しぶりですわ!」
ヴェロニカだった。
艶やかなドレスを翻しながら、満面の笑みで彼に近づいていく。
「あなたと会えることを、ずっと楽しみにしていたのです。私と一緒に踊ってくださいませんか?」
しかしレオニス様は、ヴェロニカに一瞥をくれただけで背を向けた。
「遠慮する。騒がしいのは苦手なんだ」
その冷たい言葉に、ヴェロニカの笑顔が一瞬引きつるのが見えた。
その場では取り繕ったものの、ヴェロニカの不機嫌さは夜が更けるほどにあからさまになっていった。
晩餐会が終わる帰り道の馬車の中。向かいの席で腕を組んだまま、ヴェロニカはとうとう口を開いた。
「……ねえ、お姉様。あれは何のつもりだったの?」
「あれ、とは?」
「とぼけないで。レオニス様とあんなに長く話しちゃって。こっちはずっとタイミングをうかがってたのに、割り込む隙もなかったじゃない!」
「そう……ごめんなさい。話しかけられたから、つい話を合わせてしまって」
ヴェロニカは唇を噛んだ。
「お姉様には分不相応だわ。釣り合ってない。まーったく釣り合ってないんだから」
私は何も返さなかった。ただ静かに窓の外を見つめた。星はもう、雲に隠れていた。
それからの数日間、ヴェロニカは妙に愛想よく振る舞っていた。でもその笑顔の裏に潜む棘を、私は背中に感じていた。
そして、次の社交の場——公爵家主催の午後茶会が開かれた日。
「ステラリア、あなたも同行なさい。ヴェロニカの引率役としてね」
母のその言葉に、私は小さく頷いた。
会場に着くなり、ヴェロニカはすぐにレオニス様を見つけて、笑顔で駆け寄った。猫撫で声で話しかけている。
「レオニス様、先日はご挨拶もそこそこに失礼しました。今日は改めて、お話しできればと」
「そうか」
レオニス様はヴェロニカから視線を外す。
それでもヴェロニカはめげずに話し続ける。
「実は私、星が好きなんです。夜空に浮かぶ星たちはとても綺麗で、心が洗われますよね。レオニス様もそう思いませんか?」
ヴェロニカが星?
オリオン座すら見分けがつかないでしょう?
「ほう。なら、どの星が好きだ?」
「え、ええ……あそこの“第三宵星”とか、綺麗ですよね。夏の代表星でしたっけ?」
レオニス様は一瞬、まばたきをした。
「“第三宵星”? ……そんな名の星は聞いたことがないな。それに、今夜見えているのは春の星座だ。夏の星は、まだ昇ってもいない」
「……あっ、そ、そうでしたか? えっと、どこかの本で見たような……」
「ふむ。では、その本の名前を教えてくれ」
「……っ」
レオニス様の声音には、薄っぺらな言葉を受け流す冷たさがあった。
ヴェロニカが顔を赤くして俯く。そんなヴェロニカを横切り、レオニス様は私に向かって右手を差し出してくる。
「ステラリア嬢。少し外の空気を吸いにいかないか」
「……ええ、喜んで」
私は微笑み、そっと立ち上がる。
ヴェロニカはグッと拳を握りながら、睨みつけてきた。
屋敷の回廊を抜けて、バルコニーへ出る。夜風が心地よく肌を撫でる。しばらく無言のまま並んで夜空を眺めていた。
「……あの子は、君と同じことを話そうとしていたな」
レオニス様の問いかけに、私は小さく肩をすくめる。
「ええ。先日、私がレオニス様と話していたことが気に入らなかったのでしょう。昔からそうなんです。誰かが私に関心を向けることが嫌みたいです」
「昔から?」
「小さい頃は、私の持っていた本や玩具を欲しがっていました。しかも大人たちはそれを『可愛い』と笑って受け入れてしまう始末で。なので私は、いつも我慢する側でした」
「なぜ我慢する必要がある?」
「……家のためです。子爵家の長女として、波風を立てないことが美徳だと教えられてきましたので」
レオニス様は静かに頷いた。
「君は、ずいぶんと損な役回りを演じさせられてきたんだな」
「そうですね。でも慣れました」
そう口にしながらも、胸の奥に残る痛みは消えていなかった。
「慣れる必要なんてないと思うが」
レオニス様の静かな声が、夜風に溶けて響く。
「そうかもしれませんね」
レオニス様はそれ以上、何も言わなかった。ただ、そっと私の隣に立ち、同じ夜空を見上げ続けていた。
その翌朝、家族との朝食の席で、母が言った。
「ヴェロニカの婚約の話、もう少しで正式になるそうよ」
父は嬉しそうに頷いた。
「ヴェロニカが将来伯爵夫人となれば、我が家の地位も盤石だ」
私は黙って紅茶を口に運ぶ。
「あなたも感謝しなさい。ヴェロニカがこうして縁を結ぶことで、あなたの将来にも好影響があるかもしれないのよ」
「そうですね。妹の縁談に、私の将来がかかっているのだとしたら……少し、不思議な話ですけれど」
母が眉をひそめた。
「そういう言い回しは感心しないわ」
そのまま話題はヴェロニカの服や宝石に移っていった。私の存在は最初からそこにはないかのように、誰とも目が合わなかった。
屋敷の廊下を歩いていると、ヴェロニカが声をかけてきた。
「昨日のこと、誰かに言いふらしていないでしょうね?」
「昨日のこと?」
「とぼけないで。レオニス様のことよ。わ、私は別に嘘をついたわけじゃないんだからね。ただ、少し星の位置を見間違えただけ。だ、だいたいね、公爵家の方が、あなたみたいな地味な娘を相手にするはずないわ。身の程を知りなさいよね」
「……そうかもしれないわね」
私は静かに微笑んだ。
ヴェロニカの瞳が揺れた。
「あなたって、本当に昔から鬱陶しい!」
その言葉を最後に、彼女は踵を返して去っていった。
私はその背を見送ってから、ゆっくりと歩き出した。
数日後、レオニス様から書簡が届いた。
公的な文面ではあったが、端々に彼らしい誠実な言葉がにじんでいた。内容は、次の晩餐会への招待と、個人的に話したいことがあるという申し出だった。
私は手紙を胸に当てたまま、しばらく目を閉じた。
私という存在を、まっすぐに見て言葉をくれる。それだけで胸がじんわりと温かくなる。
そして迎えた晩餐会の夜。
私は灰色ではないドレスを選んだ。控えめな藍色に、小さな星のような刺繍が散りばめられている。それを纏った私は、鏡の中でほんの少しだけ笑っていた。
会場の一角で待っていたレオニス様は、私を見るとわずかに目を見開き、それから小さく頷いた。
「よく似合っている」
「ありがとうございます」
それから間もなく、レオニス様は正式に私との婚約を申し出た。公爵家からの申し入れに、家族は騒然とした。
「なぜステラリアなの? ヴェロニカではなくて?」
母のその言葉に、私はもう何の感情も抱かなかった。
父はしばらく沈黙していたが、やがて静かにうなずいた。
「公爵家が選んだのだ。断る理由はあるまい」
「でも、どうしてヴェロニカではなかったのかしら。見た目も華やかさも、すべてにおいてヴェロニカの方が公爵家にふさわしいはずよ。ハミルトン伯爵家との婚約の話も公には出ていないはずだし……」
ヴェロニカも不満げに言葉を重ねる。
「きっと一時の気まぐれよ。お姉様がちょっと星の名前を知っていたくらいで、公爵家の方が本気になるなんておかしいわ」
「そうよね、ヴェロニカと違って何の取り柄もないのに……急に評価されても困るわ」
「レオニス様も見る目がないんだから」
母とヴェロニカは愚痴を続けていたが、私はそれを背に静かに扉を閉じた。
そしてその夜、私は自室で荷造りをした。
この家に私の居場所はない。
褒められた記憶も、抱きしめられた記憶もない。
「ヴェロニカの姉で良かったわね」
「地味でも我慢強いのがあなたの取り柄」
そんな言葉ばかりが、この家での私の価値だった。
私は、一度として“ステラリア”として扱われたことがない。
だから、出ていくの。
もう、誰かの飾りじゃない。
もう、誰かの引き立て役じゃない。
「お父様、お母様」
翌朝。
荷造りを終えた私は、扉口で振り返った。
「これまで育ててくれて、ありがとうございました。でも、私はこの家の娘ではなくて結構です。これからは、公爵家の婚約者として、自分の名前で生きていきます」
母の顔が引きつり、父は何も言わなかった。
けれど私は、ようやく“私の言葉”を口にできた気がした。
玄関を出ると、そこにはレオニス様が待っていた。
「準備はできたか?」
「はい」
「そうか。まぁもし忘れ物があればまた戻ればいい」
「いえ。もう、ここに戻ることはありません」
私ははっきりと宣言した。
レオニス様は「そうか」と一言だけ返してくれた。
馬車に揺られながら、屋敷との距離がみるみる開いていく。
静かに、けど確かに私は新しい場所へ向かっていた。
そしてその先には、あの晩に見上げた夜空のように、確かな光が広がっていた。
新たな生活は静かで、穏やかだった。誰にも遠慮せずに言葉を選べる時間が、これほどまでに心地よいものだとは知らなかった。
これからは“ヴェロニカの姉”ではなく──“ステラリア・ハーウッド”として生きていく──。
★
公爵邸での生活を始めて二ヶ月が過ぎた頃のことだった。
レオニスとの婚約は正式に公爵家から発表され、社交界には様々な噂が飛び交っていた。
「コンヴェント家の長女が公爵家に嫁ぐなんて」
「あの地味な娘か? どうして公爵家の次男と?」
「コンヴェント家ならヴェロニカの方が相応しいだろう」
そんな声も耳に入ったが、もう私は気にならなかった。
朝の光が窓から差し込む。以前の私なら想像もできなかった大きな部屋。ベッドに横たわったまま、天井の装飾を眺める。
公爵邸の執事のアルバートが、朝食の準備ができたことを告げに来た。
「ステラリア様、朝食の用意ができております」
私は小さく頷いた。この家では、私を名前で呼んでくれる。
食堂では、レオニスが既に席に着いていた。彼は私を見ると、わずかに表情を緩めた。
「おはよう、ステラリア」
「おはよう、レオニス」
私たちは静かに朝食をとりながら、今日の予定について話した。レオニスは政務で忙しく、私は公爵夫人から公爵家の歴史や作法について教わる日々を送っていた。
食事の後、執事が一通の手紙を持ってきた。
「ステラリア様宛の手紙が届いております」
私は不思議に思いながら手紙を受け取った。美しい筆跡で書かれた宛名。差出人の名を見て、私は息を呑んだ。
ヴェロニカ・コンヴェント。
封を開けると、そこには妹からの訪問依頼が記されていた。
『お姉様へ
突然の手紙をお許しください。
この度は、あなたに心からお詫びをしたいことがあります。
どうか、私に会う時間をいただけませんでしょうか。 お姉様の幸せを、心から祝福したいのです。
ヴェロニカより』
私は少し考えたあと、執事に返信を託し三日後にヴェロニカを迎えることにした。
そして、約束の日。
公爵邸の客間で、私はヴェロニカを待っていた。窓から庭の景色が見え、花々が風に揺れている。ドアが開き、ヴェロニカが入ってきた。
彼女はいつも以上に華やかに着飾っていた。淡い緑色のドレスに、金色の髪飾り。その姿はまるで春そのものだった。
「お姉様……」
ヴェロニカの声には、か細さがあった。彼女は私の前に立ち、深々と頭を下げた。
「本当に、ごめんなさい。私はお姉様にたくさん酷いことをしてきました」
ヴェロニカの目には涙が浮かんでいた。
けれど、その瞳は部屋の隅々を探るように動いていた。
「ヴェロニカ、顔を上げて」
ゆっくりと顔を上げ、涙を拭った。
「お姉様の幸せを心から祝福したいの。レオニス様との婚約、おめでとう。私、ほんとはね、嫉妬してた。でも今は……お姉様の幸せを願ってる」
その言葉は、どこか練習したような響きがあった。
そしてヴェロニカの視線が、またもや部屋の中を彷徨う。
「あれ、そういえばレオニス様は、今日はいらっしゃらないの?」
やはりそうか。
「彼は公務で忙しいのよ。もしかして、レオニスに会いたいの?」
「え、ええまぁ。親戚になるんですもの。挨拶くらいしたいわ」
私たちは表面上は穏やかに会話を続けた。ヴェロニカは時折涙ぐみながら、私への謝罪の言葉を繰り返した。そして、帰り際にこう言った。
「また来てもいい? お姉様とちゃんと姉妹になりたいの」
私は小さく頷いた。
その日の夕方、私はレオニスの姿が見えないことに気づいた。執事のアルバートに尋ねると、彼は庭に出ているとのことだった。
私は彼を探しに庭へ向かった。暮れかかる空の下、花々は静かに揺れている。
庭の奥、藤棚の下で話す二人の姿が見えた。レオニスと……ヴェロニカ。
私は思わず足を止めた。心臓の鼓動が早くなるのを感じながら、私は木陰に隠れるように立ち止まった。
ヴェロニカがレオニスの腕に手を添え、距離を縮めている。彼女の声が風に乗って聞こえてきた。
「レオニス様、本当にお姉様と結婚するおつもりですか。お姉様を生涯の伴侶として迎えて満足ですか?」
レオニスは微動だにしない。
「私なら、もっと楽しくして差し上げられる。公爵夫人の務めもお姉様なんかよりきちんと勤め上げられます」
その言葉に、私の胸が痛んだ。やはりヴェロニカは変わっていなかった。彼女はまた、私のものを奪おうとしている。
レオニスは一度深く息を吐くと、ヴェロニカの手を払った。その動きは静かながらも、強い拒絶を示していた。
「しつこいぞ。僕の選んだのはステラリアだ。君じゃない」
「でも、レオニス様……私の方がお姉様より顔もいいですし、教養だって」
「顔? そんなものが何だというんだ」
レオニスの声がわずかに上がった。
「僕が見ているのは、その人の内面だ。ステラリアの静かな強さ、誠実さ、そして彼女の目に映る星の輝きを、君には見ることができないだろう。それに、君がステラリアより教養があるとは思えない」
ヴェロニカの顔が引きつった。
「で、でも! 私はお姉さまなんかより!」
「帰って、ヴェロニカ。もう二度と、私の前に現れないで」
ヴェロニカは私の登場に目を泳がせる。
下唇を噛み、不服そうに私を睨みつけるが、レオニスがいる手前、強い口調で罵ることもできずにいる。
やがて居た堪れなくなったのか、ヴェロニカは何も言わずに小走りで立ち去って行った。
レオニスと目が合う。レオニスはそっと私を抱きしめてきた。
「ステラリア……」
「あ、えっと、ごめんなさい、私、盗み聞きしてしまって」
「いや、聞いていてくれて良かった」
彼は私の顔を覗き込むように見つめた。
「僕の目に映るのは君だけだ。それは今も、これからも変わらない」
その言葉に、私の目から涙がこぼれた。レオニスは人差し指でそれを拭い、再び私を抱きしめた。
夕暮れの庭で、私たちはしばらくそうして立っていた。
その出来事から一週間も経たないうちに、社交界は新たな噂で持ちきりとなった。
「聞いた? コンヴェント家の次女、ヴェロニカが姉の婚約者に手を出そうとしたんですって」
「まあ、なんて恥知らずな……」
「公爵夫人になりたさに、身内の足を引っ張るなんて」
ある晩餐会で、私はそんな会話の断片を耳にした。噂は既に浸透していた。一体どこから話が漏れたのやら。
社交界の人々は、真偽を確かめるよりも「ヴェロニカならやりそうだ」と判断したようだった。彼女がこれまで見せてきた華やかさと傲慢さが、今や彼女自身を追い詰めていた。
次第にヴェロニカは社交界の招待から外されるようになった。そして、決定的な出来事が起きた。彼女との婚約話が進んでいたハミルトン伯爵家から、正式に婚約破棄の通知が届いたのだ。
ある日、公爵邸に母が訪ねてきた。
母の顔色は悪く、目の下には隈ができていた。
「ステラリア……お願い。ヴェロニカのために、一言公爵家に取り成してほしいの。ハミルトン伯爵家との婚約を元に戻すために、レオニス様から伯爵家に何か言ってもらえないかしら……」
「それはできません」
「でも、あなたの一言で状況が変わるかもしれないのよ。このままじゃヴェロニカの婚約が破談になって、家の名誉が……」
「私はもうコンヴェント家の者ではありませんので」
その言葉に、母の顔が硬直した。
「そんな……あなたはコンヴェント家の娘よ」
「いいえ。私はもうすぐハーウッド家の人間です。それに……」
私は窓の外を見た。日が傾き始め、空が徐々に紺色に染まっていく。
「ヴェロニカは自分の行動の結果を受け止めるべきです」
母は何も言えず、ただ肩を落とした。公爵夫人が現れ、母を別室へと案内した。
窓の外では、最初の星が瞬き始めていた。
夜が更けていく。邸内は静かに眠りについていった。
私はそっとベッドから抜け出し、バルコニーへと向かった。夜空を覆う無数の星々が、静かに瞬いている。
「まだ起きていたのか」
レオニスが私の隣までやってくる。
「ええ、星を見ていたの」
レオニスはそっと私の手を取った。その手は温かく、力強かった。
「君は強くなったな」
「えっと、どこらへんが?」
「さあな」
私は軽く頬を緩ませ、再び夜空を見上げた。冬の星座が、澄んだ空気の中で輝いている。
「あの星の名はなんだ?」とレオニスが尋ねた。
彼の指す先には、ひときわ明るく輝く星があった。
「あれは“ステラリア”。静かに、でも確かに最初に光を灯す星」
「そうだったな。やはりいい名前だ‥……」
その言葉に、私の胸は温かさで満たされた。
かつての私は、灰色の影のような存在だった。家族からも、周囲からも、そして自分自身からも認められなかった。
しかし今、私は自分の光を放ち始めている。それはまだ小さいかもしれないけれど、確かに輝いている。
レオニスと肩を寄せ合いながら、私は静かに誓った。いつか、ステラリアのように強く、輝く存在になると。そして、この温かな光を、決して消さないと。
冬の夜風は冷たかったが、私の心は暖かい希望で満ちていた。星々が見守る中、私たちの新しい物語は、ゆっくりと、しかし確実に紡がれていくのだろう。
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