1章④
夥しいほどの手形。
それぞれ形が異なっている。子供の手や大人の手、肉球や蹄の様なものもある。
「式神の類か。いやはや、何と恐ろしい光景だろうか」
目の前の惨状に白威は愚痴をこぼす。その顔は飄々としている。そのことが夜幡にはほんの少しの安心感を与える。
壁が黒一色に塗り潰される。その時。一瞬だけ、部屋は静寂に包まれた。
ひたり。
足音。
白い床にだけが足跡だけが浮かんだ。姿は見えない。
ふと、夜幡は気付く。
文章。
それが足跡を形作っていた。踵から爪先に向かって、縦書きで書かれている。
『今日は放課後、友達とゲームセンターで遊んだ。UFOキャッチャーでぬいぐるみをゲット。好きな子に渡すつもりだったのに、と落ち込む友達に譲ろうとしたが同情するなと断られた。断られたけど、なぜかぬいぐるみは僕の手から彼の手に渡っていた——』
ひたり。また足跡が増える。
『今日は中間テストの返却があった。目標としていた上位五十名の中に入ることができた。人間としてはかなり優秀なんじゃないかな。ただ、やっぱり数百歳のエルフなんかには敵わないなあ——』
読んではダメなんだ。
『今日の夜もいつもと同じ夢を見た。怖い何かが追ってきて、誰かに助けてもらう夢だ。あの女性は誰なんだろう。気になることを言っていたが、本当に夢なのか?』
ひたり。
『今日は学校をサボって、噂で聞いていた稲荷屋という便利屋を尋ねてみた。対応してくれたのは白威という綺麗な狐の女性であった。九尾と聞いていたが残念ながら一尾しかない。夢の相談をすると、夜にまた来るように言われた。相当深刻なのかもしれない。落ち込むなあ——』
鼓動が早くなる。
『約束通り、夜にまた稲荷屋に来た。魔法陣やらお札やら沢山ある部屋に通された。お祓いみたいだけど、僕が勉強してきた魔術とは全然違う気がする。やはり実践的なものになると様々な術を組み合わせるのだろうか。まだまだ勉強したかったけど——僕はここで死んでしまった』
「これ……僕のことじゃん」
ぽろり。無意識に呟いてしまった。
「バカ、喋るなと言っただろ!」
瞬間、二人を囲っていた魔法陣が黒く溶けてしまった。
白威は夜幡に覆い被さり、そのまま床を殴りつけた。
拳の隙間から漏れ出る眩い光が足跡の主を照らし、可視化した。
異形。
黒い粘液で覆われた数百の手足と頭。胴は見当たらない。粘土で作った人を無作為にこねくり回してできた化け物のようである。
異形は光に怯んだそぶりを見せるも、一直線に二人の方へ駆け出した。
恐怖が最高潮に達した夜幡は伏したまま嘔吐する。白威は殴りつけた拳を開き、異形に突きつける。
雷鳴。掌から出た雷鳴は空気を切り裂き、異形の腹を撃ち抜いた。
「ギイィィィィィィィィイイ——」
初めて異形が声を発する。その声は夜幡と同じものであった。
「白威さん、助けて……」
異形から声がする。が、白威の勢いは止まらない。
「へえ、パワー系の見た目な癖にモノマネが上手いんだな。ただ知能が追いついていないようだ」
再び掌から雷を打ち出した。今度は中央を的確に撃ち抜く。
「痛い、死にたくない……」
先ほどとは別の声が聞こえてくる。白威の手が少しだけ止まる。その隙に、異形の体はみるみると修復される。
一発、また一発と打ち込むもやはりすぐに復活する。
彼女の攻撃に押されてはいるものの、少しずつこちらに迫ってきている。
「全身まとめて吹き飛ばすしかないか……夜幡君、動けるか?」
白威は突っ伏したままの夜幡に声を掛けた。夜幡は首を縦に振る。
「今からアイツの全身を吹き飛ばすための魔術を発動する。発動までの間、数秒間アイツを足止めしてくれ。出来るかい?」
夜幡は一瞬考えて、また首を縦に振る。
夜幡はようやく立ち上がる。ゲロまみれの口元を拭うと、手のひらに吐瀉物で文字を書き上げた。
彼が書き上げたのはルーン文字。たった一文字に魔力を込め、異形に向ける。
ピタリと、異形の動きが止まった。
時間にしてたった五秒ほど。
その五秒は、白威が一撃を打つ為には十分過ぎるほどの時間であった。
「なかなかやるねえ、もしかして君一人でも対処できたんじゃないのか?」
そんな軽口が彼女の口から溢れた。
掌を口の前に持っていき、ふう。と息を吹きかける。
吐息は掌の上で爆炎へと姿を変えて異形を包み込んだ。
爆炎は数千度の熱をあたりにも撒き散らし、すぐに消える。
そこに残ったのは僅かに赤熱を帯びる燃え滓だけであった。
ため息一つ。緊張の糸が切れた夜幡は、ゲロまみれの床に座り込んだ。
当たりを見渡す。黒くなった壁にドロドロに溶けた魔法陣、幾つもの足跡。
足跡の一文から『僕は死んでしまった』という一文だけが消えていた。