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猫桜~悲しみのミルフィーユ仕立て~

作者: XI

*****


 稲葉くん、稲葉くん、稲葉くん、大好きだよ?

 私はきみのことが、大好きなんだからね?



*****


 突如として車に撥ねられ、しっちゃかめっちゃかに壁に打ちつけられ、身体が変なほうにぐねりと曲がりくねり、それでも視線の先に彼を捉えた私は、泣きながら迫ってくる彼に向けて、何度だって愛を叫んだ。もう死ぬ。それはわかっている、明白だ。だけど、それでも何かを伝えたいことってあるんだと思う。その行為が果ては相手を縛りつけることに繋がったとしても、私の場合、私は彼に私のことを忘れてほしくなかったんだ、永遠に。



*****


 ややあってから、転生した――のだと知った。目を開けると、私は私の名である香子(きょうこ)と香子としての記憶を持ち合わせていたから。左手を持ち上げ、それから右手を持ち上げ、目の前に晒した。ピンク色の肉球があり――「ふふ」と内心、小さく笑った。どうやら私は猫に生まれ変わったようだ。子猫だ。あらゆるパーツが、どれも小さい。稲葉くんに会わないといけないから駆けだそうとしたのだけれど、お尻が重くてうまく動けない。脱走を試みたように見えたのか、母猫に首の裏を噛まれ、連れられ、元いた場所に戻されるより他になかった。ああ、そうか。私は猫なんだもの。子猫なんだもの。母親には大切にされてあたりまえだし――どうやらここは立派な家らしいので――だからやっぱり大切にされてあたりまえなのだろうから、きっと抜け出すことなんて許してもらえないのだ。それでも、私は彼の名前を覚えているのだから、彼の顔を覚えているのだから、彼に会いたいと考えるのだ。


 稲葉くん、待っててね?

 私は結構元気だから、必ずあなたを訪ねます。



*****


 二歳を迎え、身軽に動けるようになった私は脱走をがんばった。いつもいつも寸前で失敗していたのだけれど、今日はうまくいった。家の敷地から出ることに成功したのである。私は駆けた。ここがどこかはまったくもってわからないけれど、あらゆる看板からの情報をもとに走った。猫って身軽だ、イイ感じ。だから、東京は大田区にある彼のアパートまでも絶対に辿り着けると思った。一つ、不安があった。稲葉くんは私のことなんて忘れてしまって、もうとっくに新しい女のヒトと仲良くなってしまっているのではないのか――。もしそうなら諦めようと考えている。もしそうなら、仕方がないのだ。やむをえないのだ。むしろ、そうあってもらったほうが健全なのかもしれない。その一歩はステップは、稲葉くんがポジティブであることを示しているのだから。私は後ろ向きな稲葉くんよりも前向きな稲葉くんのほうがよっぽど好きだ――矛盾している。稲葉くんには私のことを永遠に想っていて欲しいいっぽうで、誰かと幸せになってほしいとか考えている。私は駆けた。なかば稲葉くんの愛を信じて、猫の私は、一生懸命に駆けた駆けつづけた――。



*****


 稲葉くんは今も昔のアパート暮らしだった。朝、ゴミステーションのそばの電柱の陰にひっそりと潜んでいると、今日も冴えない紺色のスーツ姿の稲葉くんが小さなゴミ袋を片手に現れた。目をしょぼつかせていること、だるそうに肩を落としていること、それでもがんばろうと背を正したこと、どれもこれもが稲葉くんの稲葉くんらしさを示している。だから私は泣きそうになった。ああ、稲葉くんだ。稲葉くんだ、稲葉くんだ、稲葉くん。都会の荒波。北海道から出てきた稲葉くんはしばしばその不自由さに遭遇し、そのたび、「田舎者だから」と自らの無能を嘆き、苦しんだり、情けなく感じていたりしていたけれど、だからこそそれは稲葉くんであって、その不器用さがたまらなく好きだから、生まれてからずっと都内暮らしだった私から見ても、まあなんというかこう……うん、私は稲葉くんの一生懸命なところが、とにかく好きで……。


 元気?

 ――訊きたい。


 新しい恋人はできた?

 ――聞かせてもらいたい。


 なんだかたまらなくなって、ゴミステーションから駆け出そうとする稲葉くんの前に躍り出てしまった。立ちはだかったとも言う。稲葉くんはきょとんとなって、私のことを見てきた。ビー玉みたいに深く青い瞳。セックスの折、私が「綺麗だね」と褒めてあげると、「えへへ」と照れてばかりいたっけ。


 いきなりだ、稲葉くんはぽろぽろぼろぼろ泣き出した。原因はわからないけれど、つらかったのだと思う、悲しみまくっていたんだと思う。だからって、猫に過ぎない私のことを見て、「うああああんっ! キタハラぁっ!」って泣く? 私のことを、一目で見抜いたりする? 「うああんっ、キタハラっ、キタハラぁっ!」って、私を抱き締めたりする? ……ま、嬉しかったんだけどね。



*****


 稲葉くんは私を部屋に連れ帰り――それからきちんと「いってきます」を言って出社するあたり、稲葉くんは稲葉くんだ。真面目さ加減に加点も減点もない。微笑ましいし、そのままであることがなんだか嬉しかった。


 夜になると――定時上がりを実践したのだろう――十八時過ぎには稲葉くんの姿があった。「うーん、そかぁ、キタハラは猫になっちゃったのかぁ」と阿保みたいなことをあたかも納得顔で言い、「でも、メチャクチャかわいいから俺的にはオッケーっ」とか語尾跳ねで嬉しそうにのたまう。何と返したものかわからないので、だけど、「そーだよ、私はキタハラだよ!」と伝えたい思いだけは確かだったので、私はとにかく――まあ楽しいのもあったのだけれど、「にゃあにゃあ」鳴きまくった。ネコエサでいいのに赤身と白身の刺身を出してくれたことにはいちゃもんをつけたかった。いや、嫌いじゃないしむしろ好きなんだけど、ネッコに生魚は良くないんだぞ? 特にいい暮らしをしているネッコのおなかなんてメチャクチャ弱いんだからな? くらいは訴えてやりたかった――微笑みが漏れた。



*****


 稲葉くんは馬鹿だから、翌日の土曜日、私をケージに入れて旅に出た。まず向かったのは横浜だ。京急のほうの横浜だ――とはどうでもよく、ケージの中で揺られていると、そのうちコスモクロックに乗せられた。海沿いにあるデカい観覧車である。海風に吹かれるものだから結構揺れる。私は高いところは平気だ。いまや、いやまぁ猫だしね。だけど稲葉くんは苦手だ。なのにコスモクロックだ。だから「どうしてコスモクロック?」と訊ねたかった次第だけれど、私は猫だから訊ねられなかった次第だけれど、ただ意図はなんとなく伝わったらしく、稲葉くんは「女のコと観覧車に乗ることが夢だったんだっ」とかやっぱり軽快に語尾跳ねで言った。ああ、それくらい、言ってくれたら良かったのに。いくらでも付き合ってやったのに。でも事実として私と稲葉くんは原則プラトニックな関係で、あんまり……そう、イチャイチャしたりはしなかったなぁ……。求められたらなんでもしてあげただろうなって思う。先っちょをしきりに舐めてもあげたし、深く根っこまでくわえてあげもした――先っちょとか根っことか、何がとは言いませんが。とにかく、もっと変態的な要求にだってなんなく応じてあげただろうとは思う。



*****


 葉山のほうの海岸にいた。すぐ近くに一緒に泊まったホテルがあって――そこは窓からの景観がウリだったのだけれど、だけど宿泊した時期はすぐ前の道路でガンガン工事が行われていて、始終重機ががあがぁ鳴っていてすごく残念だった。それもこれも楽しい思い出なのだけれど。彼と過ごした日々は、どの一日だって宝物なのだけれど。


 妙に日差しが強いので、私はケージの外に出てやらない。「キタハラは冷たいんだね」などといきなり心外なことを言われたので外に出た。稲葉くんは立てた両膝を抱えていて――前を見たまま、はらはら泣いている。深く息を吸い込んでみせると、はぁぁぁぁと長く吐き、「キタハラぁ……」と声に出した。「なんだよぅ、稲葉くん」と言いたい。「なんだよぅ、稲葉くん?」と問いたい。だけど当方、しがない猫であるわけですから……。


「キタハラがいなくなってからね? 変わったことがあるんだ」


 なんだい?


「癌になった」


 はいぃっ!?


「俺、もうすぐ死ぬんだよ」


 稲葉くんは悲しそうに、だけど頼もしげに微笑んだ。

 ああ、ほんとうに、強くなっちゃったんだな、稲葉くん。



*****


 そのうち、稲葉くんはケプコンケプコンと咳込んでは血を吐くようになった。時折、胸が痛くて痛くてしょうがないのだと言う。肺癌なのだろうか。詳しく訊いたところでしかたがないから詳しく訊いたりしていないのだけれど、稲葉くんの先が長くないことだけは、どうやら確からしい。


「キタハラ、きみは家に帰らないと」


 あるとき、稲葉くんが神妙な面持ちでそう言った。


 私は嫌だ嫌だと「にゃーにゃーっ」鳴いた。

 せめて最後までいさせろよ、稲葉くん、一人は寂しいし怖いだろ――?


 稲葉くんは猫の言葉を解せる稀有な天才なので、だから、「だったら最後に五稜郭の桜を見に行こう」などと突拍子もないことを言ったのだった。


 五稜郭の桜?

 なにそれおいしいの?



*****


 五稜郭タワーから五稜郭の桜を「わぁ」と見下ろし、それから稲葉くんはケージに入ったままの私を五稜郭の中に連れてってくれた。涙が出そうになるくらい綺麗な桜だった。「キタハラと一緒に来たかったんだ、夢だった」とか平然と言ってくれた。「夢が叶って良かったよ」とか、言ってくれた。私はキタハラでしかないけれど、相棒は稲葉くんでしかないけれど、私は猫で、彼はニンゲンでしかないけれど、美しい桜を見れたことは、殊の外、僥倖で、しかもかなり嬉しかった。


 桜の真下。

 休憩用の木製の椅子に座り――。


「両親には話してないんだ」


 癌のことだろう。


「静かに逝こうと思う。だけどホント、苦しいんだったら嫌だなぁ……」


 稲葉くんらしい言い方だ。


「キタハラは生きてね」


 嫌だ。

 稲葉くん、きみが死ぬってんなら、私も死ぬよ。


「結婚して、赤ちゃんが生まれて、じじばばになってもキスをして……。そんなふうに、なりたかったのになぁ……」


 やめてよ、馬鹿。

 そんなこと言われたら、泣きたくなっちゃうじゃないか。


 五稜郭――絶対ダメなのに、稲葉くんがこっそり、ケージから出してくれた。私は彼の膝の上に乗り、ピンクだらけの空間にあって、一つ、にゃあと鳴いた。にゃあにゃあと鳴く。にゃあにゃあにゃあと泣く。「綺麗だね綺麗だね」って、泣く――。


 稲葉くんよ、私たちがうまくいかなかったのって、今回に限っての話だよ。次の私は交通事故になんて遭わないし、次のきみは癌にならないの。そう信じよう。じゃないとあまりに救いがなさすぎるじゃぁないか。


 ケプコンケプコンと咳込み、また稲葉くんが血を吐く。深紅のそれは桜の花びらの上にどしゃっと飛び散り広がった――正直、醜い。


 稲葉くんはぜはぁぜはぁと荒い息をつきながら、苦しそうに涙した。


「キタハラぁ、しんどいよぅ……」


 だから私も涙した。

 猫のくせに、涙した。


 稲葉くんは立ち直り、「夢だったから」とまた軽く夢を語り、それを理由にラキピでハンバーガーを食べた。おいしいおいしいと言ってまた泣き、周囲の客をドン引きさせた。


 帰りのレンタカーの中で、ドライバーの稲葉くんは、「ありがとう」を言った後、私に「ごめん」と謝り、三度(みたび)泣いたのだった。


 馬鹿だなぁ、稲葉くん。だけど、ホント、私は幸せだったんだから、やっぱり私からは、「ありがとう」――。


 ほんとうに、「ありがとう」――。


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― 新着の感想 ―
[一言] このふたりにあとどのくらいの時間が残されているのか、でもキタハラさんが猫として転生したように、輪廻転生を繰り返す可能性はゼロではないですよね。 限られた時間をふたりが愛おしく過ごすことができ…
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