俺は異世界にて独りぼっち
独りぼっちだ。
こんなにも明るい日差しの下で、石造りの城砦を中心に据え置いた風光明媚な街中で。
ついこの間までここには多くの者が行き交っていた筈なのに、今となっては文字通り影も形も見当たらない。
街の名所であるこの大噴水もピクリとも動かず、広場はしめやかに静まり返っていた。
完全なる孤独の中での生活。それは異世界転移によって腑抜けきっていた俺の目を覚まさせる薬としては、あまりにも効き目の良すぎるものだった。
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事のあらましは5日前まで遡る。
ある朝、いつもなら起床と同時に部屋へ入ってくる筈の給仕係の女が居らず、俺は待つことができずに自ら部屋を飛び出した。
するとどうだろう、廊下では物音ひとつ聞こえてこないではないか。
まあ、基本的にその階層は人通りが少ないため、普段から静かな場所ではあった。
しかし、いくらなんでも静かすぎた。
「おい! おーーーい! 誰か居ないのか!」
俺は一抹の不安を胸にダイニングルームへと向かった。時間帯からして多くの人間が朝食を嗜んでいるはずだが、そこには誰も居なかった。
レティア姫も、エスト王子も、グルデン公爵も、バルトール伯爵も、メンデの奴もセヴァの奴も、いつもこの時間にここで顔を合わせる人間が誰一人として居ない。
聞こえてくる音は、自分の声、自分の足音、そして自分の腹の虫がなる音のみ。食卓の上にわずか1人分の食事が載せられているのが、逆に不気味に感じられた。
――新手のドッキリとかじゃないだろうな。
日本生まれ日本育ちの俺は思わずそこを疑った。
だが、そんな高度なエンターテインメントも娯楽も無いこの世界で、誰かがそれを思いついたとして、誰がそれを実行しようというのか。
「一体どうなってるんだ……?」
喋っても、言葉は石壁に当たって自分に跳ね返ってくるばかり。
俺はたまらず城の外に出た。
誰も居ない。
誰も居なかった。
城下町を歩き、目に見える建物全てを調べた。
城壁の外を歩き、草をかき分け根を踏みしめあらゆる場所を探した。
人間に飼われていた家畜の動物、人間を避け生きてきた野生の動物は以前と変わりなく、いっそ元からそうであったかのように日常生活を営んでいる。
………………。
誰も居ない、自分しか存在しない世界……かつて俺はそういったものに憧れたことがあった。世界が俺だけのものになり、他人と干渉し合う煩わしさから解き放たれる。
割と本気でそう思ったときがあった。
ところが、実際にこういう状況になってみてどうだ? 俺は町の外に見える断崖の向こう側、青い空の色を映す大海を見つめて、まざまざと身の程を知る。
こんな雄大な大自然の中で、ちっぽけなこの俺が、いかに無力で、いかに寂しいやつであるかを、思い知らずにはいられなかった。
「これから、俺にどう生きろっていうんだ……」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
一人きりの暮らしは、精神的には間違いなく苦痛だった。今まで周囲に人間が居たのが当たり前だったのに、突然人間が自分だけになるとそれがどれほど救いだったのかが解る。
よく「人は孤独になると生きることができない」というような言葉を耳にすることがあるが、それがどういう意味で言われていたのか、今となっては痛いほどに分かる。
「まっず……ローゲンってこんな苦いのかよ」
俺が丸かじりしているこのライムグリーンの果実は『ローゲン』といい、この世界ではよく知られた食品である。
この果実から作られるジャム『ローゲン・マージュ』は、三食すべてで使われるほど汎用性が高く、さらに元いた世界でいう柑橘類と似た風味を持っており、かなり美味なのである。
しかし、ジャムにしなければローゲンは基本的に苦味が強く、食用には不向きであった。
今まで保護者に料理を任せきりだった俺は、当然フルーツジャムなんて生まれてから一度も作ったことがない。
つまり、俺はこいつを美味く食べる方法を知らない。
苦痛だ。
「……歩くか」
俺は青汁みたいな味がするこいつを数個手に持ったまま、青果店を後にした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「バウッ! バウアウワウワウッ!!」
とある家の前を通りすがろうとしたとき、突然獣の吠える声が静寂を突き破る。
「うおっ!?」
これには流石の俺も、驚き声を出さずにはいられなかった。体が後ろに吹き飛びそうになるのを抑えながら、声がした方を凝視する。
そこにはどこかで見覚えがある、真っ白で毛むくじゃらな犬に似た獣だった。そいつは民家の軒先に繋がれていた。
こいつは、近付いて来た者には誰彼構わず吠えることで少し有名だった獣だ。何故か俺に対しては、ワンともスンとも吠えてくれることは無かったが。
「そっか、お前もずっとそのまんまだったんだな」
前に見たときより明らかに体がやせ細っている。
街から人間が消えて以来、ここで何も出来ないまま5日の時を過ごしていたのだろう。
さぞ辛かっただろうに。
同じ苦しみを味わった俺は、柄にもなくそいつに同情の念を抱いた。そして、そいつの目が自分の手元に向いていることに気づいた。
視線を手元に落とすと、まだギリギリ鮮度があるローゲンの実が4つあった。
「……食うか?」
そいつは返事をしない。だが、少し俺が歩み寄ろうとすると、立っていた脚を折り曲げて屈んだ。
敵意を持たれてはいないようで、安心した。
俺はそっと、そいつの目の前の地面に果実を置く。
「ウ……バウッ、ガムッ、ハヴガヴガゥ」
俺の手が引いていくや否や、そいつは目の前の瑞々しい果実に食らいついた。
人間の俺には生食はキツかったが、どうやらこいつは違うようだ。むしろ「最高のご馳走にありつけた」と言わんばかりに、黄緑色の皮の一片すら残さず平らげていく。
思わず屈んでその様子を見ていると、そいつの円い目に光が戻ったような気がした。
いや、あるいはあまりの空腹に舌がバカになっていて、食べた物をなんでも美味しく感じるようになってしまっているのだろうか?
「うまいか、それ」
「ハムッ、グシュッ、アグ、アヴ」
……まあ、何はともあれ、それで空腹を満たせたのなら良かった。それじゃあ、と俺は立ち上がり、その場を去ろうとする。
しかしその獣は再び、俺に向かって高らかに吠え始めた。
今度はどうした。
別に俺がそいつに構ってやる義務は無い。だが、なぜだろうか、こいつとわずかに意思疎通ができることが嬉しいのだろうか、
俺はまたそいつの方を向いていた。
「飼い主が居なくて寂しいか」
それとなく質問をする。対して、回答はフンフンという荒い鼻息のみ。
けれども、そのジタバタとした足の動きによって、なんとなくそいつの言わんとしていることが分かった。
「違うか、お前が欲しいのは……」
俺はまたそこで屈み、そいつの首に巻かれたお粗末な縄に手を伸ばす。
固く結われた縄は、力が強い方ではない俺にとって強敵となった。時間がかかり、何度もそいつの体を不必要に揺らしてしまう。
だが、そいつは不思議と無抵抗であった。全く、信用されているのかいないのか、どちらなんだ。
「……っし、やっと解けたか。ほら毛むくじゃら、これでお前も自由の身だぞ」
かなり苦戦しながらも、なんとか俺はそいつを呪縛から解き放つことに成功した。
手を引き戻して縄のほつれカスを払っていると、そいつはワンテンポ遅れて、やっと自分の身の自由に気が付いたようだ。
……何故か、じっとこちらを見つめている。
「なんだ? 悪いが俺はもう、お前にやる分のメシを持ってはいないぞ」
俺の言葉が通じたのか、はたまたそうでないのか。
分からないが、俺が再び体を引くと、そいつはトコトコと道を歩き出した。
てっきりそのまま離れていくかと思ったが、そいつは一定の距離を歩くたびに俺の方を振り向く。
まるで、人の手を離れて自然界に帰っていくペンギンを見ているようだった。
……正直なところ、俺は一度そいつを保護することも考えた。だが冷静に考えて、それはやめるべきだと結論付けた。
小難しいことは何もない。ただ、一緒に行動するということは、俺とあいつの両方にとっての負担が増えてしまうことにもなる。
残念だが、これは仕方の無いことだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
事の発端から既に5日が経っていたが、俺に冒険をする程の気力は無く、物資が残っているこの街になんとか居残って耐え忍んでいた。
しかし、食材はいつまで鮮度を保ち続けられるか分からず、管理者が不在になった街がいつ外敵に襲われるかも分からない。
決断をするなら、今しかない。
「出かけよう、野垂れ死ぬよりかはマシだ」
俺は覚悟を決めた。自分の分身と思うほどに大きな鞄を背負い、街を出ることを選んだ。
「……」
門の外に出た瞬間、一瞬だけその覚悟が揺らいだ。
誰も止めてくれる人間が居ないこと、付いて来ようとする人間が居ないこと、見送ってくれる人間が居ないこと――何故、誰も居ない中でそういったわずかな望みを抱いてしまうのだろう?
ふと後ろを振り返る。
……堅牢な門の内側に動くものは見当たらない。木箱の揺れる微かな音が、俺の無言の問いに応える。
振り返るだけ無駄だった。そう思い、俺は前に向き直る。まだ後ろからは物音がする。俺を見送ってくれるのはこの音だけか、と少し寂しくなる。
でも、ようやく決心がついた。重い一歩を前へと踏み出す。
するとどこからか、聞き覚えのある一頭の獣の遠吠えが聞こえてくる。だが、俺は気にしない。
望むらくは、俺の旅程に安寧のあらんことを。
この後も続きそうな終わり方をしていますが、続きません。
その点なども踏まえて、感想・評価などいつでもお待ちしております。
この度はご拝読ありがとうございました。