僕はただ、馬鹿だった
僕にとって、幼馴染である新納茅乃はとても特別な存在だった。
家は隣同士、親同士も仲が良く、僕ら自身も小さな頃は事あるごとに、いつも一緒に過ごしていた。
一緒にいる理由なんて必要なかった。
僕らはお互いがお互いのことを大好きだったし、ふたりでなにかをしているだけで、それがどんなことであろうと楽しかった。
追いかけっこにかくれんぼ、ままごとからゲームまで、なんであろうと良かったんだ。
ぼくはただ、茅乃が側で笑っていてくれたら、ただそれだけで心が満たされた。
だけど、心とは移ろい行くものだ。
幼稚園から小学生、そして中学生になる頃には、僕らの関係もそれまでとは変わっていた。
それは何故か。
そんなことを考えるも、それは結局僕が男で、茅乃が女の子だったからという単純だけどどうしようもない、生まれた時から定めれた運命によるものだったのだと今は思う。
成長するごとに、僕らを取り巻く環境は変化していた。
新しい人間関係。新しい友人。新しくできた、茅乃にとって大切な人。
僕と茅乃だけで完結していた世界に、多くの異物が流れ込んできた。
それでも、僕にとって一番大事なのは茅乃だった。
どんな時でも茅乃のことを優先したつもりだし、そのせいで他の友達を失うこともあったけど、僕はそれでも構わなかった。
茅乃の近くにいたかったのだ。
それはきっと、目には見えない焦りのようなものもあったんだと思う。
日を追うごとに、茅乃は綺麗になっていた。
明るい性格はそのままに、容姿は女の子らしく、可憐なものに変化していた。
昔は僕に合わせて短く切っていた髪も、長くなった。
部活を引退してから肩口までだった髪もさらに伸び、今では背中まで届く美しい黒髪を肩で切り、靡かせるほどになっている。
烏の濡れ羽のような彼女の髪を見るたびに、僕の胸はかきむしられた。
僕の知っている茅乃ではなくなっていくことへの焦燥感と、女の子らしくなっていく彼女へと芽生えた恋愛感情。
その両方が僕の中でない交ぜになり、ごちゃまぜになっていたのだ。
僕を置いていかないでほしい。
僕の知っている茅乃のままでいてほしい。
そんな女々しくもあり、ワガママな子供のような本音を抱え、だけど吐き出すこともできないジレンマが、僕の精神を日々苛んでいく。
救いは茅乃だけだった。
僕は茅乃みたく、容姿が良くなったわけでもなく、どこにでもいる普通の顔。性格だってこの通り、卑屈で内向的なものだ。
だというのに、それでも茅乃は僕の側にいてくれた。
茅乃はその頃には既に美少女として有名であり、多くの人間が彼女を求め、遊びに誘っていたというのに、それでも僕を常に優先してくれたのだ。
それが僕には誇らしかった。
幼馴染としての情だろうが構わない。
茅乃も僕を一番の優先順位として心の中に置いていてくれていることに、変わりはないのだから。
そんな考えが僕の中に満ちていく。
それが好きな人と一緒にいれる喜びではなく、自分の自尊心を満たすものにすり変わっていることにも気付かずに。
だから僕らがああなるのは、結局必然だったのだ。
それはある日の放課後、冬に近づきつつある、肌寒い日のことだった。
「ごめん、かっちゃん。今日は先に帰ってくれないかな」
帰るためにカバンを整理していた僕のところにやってきた茅乃が両手を合わせ、そんなことを言ってきた。
「…………どうして?」
「部活の子達と、遊ぶ約束があるの。どうしてもって、断れなくって」
茅乃の言葉に、僕は思わずムッとなった。
多少強引だろうと、断ればいいじゃないか。
僕はそうして毎回茅乃と帰ってる。
茅乃もそうすればいいんだ。
そんな考えが口に出そうになるも、僕は咄嗟に口をつぐんだ。
「そっか。わかったよ」
……わかってる。これは僕の考え方だ。
茅乃とは違うんだって、わかってるつもりだった。
「良かった。明日は一緒に帰れるから、またね」
茅乃はホッとしたようにそう言うと、僕の席から反対側へと歩いていく。
そこには何人かの女子が固まっており、こちらの様子を伺っているようだ。
彼女達に向けて茅乃がOKのサインをおくるのだが、途端に色めくような黄色い声が聞こえてきて、僕をイライラさせていた。
…………なんだ、その反応。まるで僕が、お邪魔虫みたいじゃないか。
元々僕を優先してくれているのは茅乃のほうだ。
遊ぶことを許可しただけでそんなに喜ぶなんて、まるで僕が茅乃を縛り付けていたように思えて気分が悪い。
「おい武田、ちょっといいか」
さっさと帰ろう。
そう思い、急ぎ席を立とうと思っていた僕に、話しかけてくる声。
振り向くと立っていたのは、クラスメイトの後藤だった。
「…………なに?」
僕は後藤のことがあまり好きではなかった。
男女の違いこそあれ、茅乃と同じバスケ部ということもあって、ふたりが話している姿をたまに見かけることがあったからだ。
「ちょっと顔かせよ」
言いながら、後藤は扉のほうをチラリと見る。
僕も釣られてそちらを見るが、どうやら茅乃を先頭に先ほどの女子グループが教室から出ていくところらしい。
(姑息だな)
茅乃には今の姿を見られたくないってことか。
ならわざわざ話しかけずに、外見だけかっこつけてりゃいいものを。
僕は内心、後藤の小物加減をせせら笑っていたのだが、最後の女子がこちらを見て、さっきの茅乃みたくOKサインを送ってきたのを見て思わず顔をしかめてしまう。
「グルってこと?」
「人聞きの悪いこと言うなよ。あいつらも新納と遊びたがってたんだ。利害の一致ってやつだよ」
後藤は肩をすくめてそう言うが、その態度が腹立たしい。
利害だって?利は当然茅乃として、じゃあ害は僕ってことかよ。
「あっそ。じゃあ行こうか。どこに行く?」
よくもまぁ僕の前で直接そんなことを言えたもんだ。
後で茅乃に後藤のことを告げ口でもしてやろうと心に決め、席を立つ。
「人気のないとこだな。言っとくけど、別にリンチしたいとかじゃないからな。他のやつが待ってるとか、そんなことはしねぇよ」
どうだか。僕はもうお前のことを、一切信用しちゃいないよ。
「あっそ。じゃあベタだけど、校舎裏あたりでいいだろ?」
「ああ、構わない」
存外素直に後藤は頷く。
彼の言ってることは案外本当なのかもしれないが、それはそれとして後藤はバスケ部で僕は帰宅部。
体力には歴然とした差があることは確かであり、ひとりだろうがふたりだろうが、大した違いはないだろう。
(面倒だな…)
早くも茅乃に会いたくなる。
こんな面倒に巻き込まれるより、僕は茅乃とふたり、閉じた世界にいたかった。
「単刀直入に言う。新納を束縛するのはやめろ」
校舎裏に着いて早々、後藤はそんなことを言ってきた。
「前置きとかないんだね」
「俺とお前はそんなに親しくないだろ。そんなことをしても今さらだしな」
まぁそれは確かに。
しかし後藤の言い分には語弊がある。
「僕は茅乃を縛った覚えはないけど?」
「なら、なんで毎回毎回一緒に帰ってるんだよ。新納だっていくら遊びに誘っても、今日は武田と帰るからの一点張りだぞ。理由を聞いても言葉を濁すし、お前に原因があるのは明らかじゃないか。彼氏ってわけでもないんだろ?」
後藤の追及は続く。
彼の言葉の中に引っかかるものがあるのを覚えるが、それはそれとしてこちらにも言いたいことがあるのは事実だった。
「確かに茅乃とは付き合ってはいないよ。だけど、そんなこと言われる覚えはないね。わざわざ僕にこんなこと言ってくるってことは、後藤が茅乃を好きだからなんじゃないの?」
ぼがそう言うと、後藤はバツが悪そうな顔をして目をそらす。
ほうらやっぱり。下心があったからじゃないか。
妙な正義感を見せたって、所詮そんなもんなんだよ。
「……別にいいだろ」
「いいさ。いいけど、それならこんな遠回しなことしないでくれよ。直接茅乃に告白すれば?受けてもらえるかは知らないけどね」
僕はいかにも皮肉げに笑ってやる。
なんせ勝ちは決まってるのだ。
この会話自体が切り札であり、茅乃に告げればすぐに終わる話である。
「…………武田、お前、わかってたけど性格最悪だな」
「なんとでも言いなよ。ほら、もういいだろ。僕はもう帰るからさ」
歩き出す僕を、後藤は止めてくることはなかった。
「ふふーん…」
最後にやり返せたようで、すこしばかり気分がいい。
茅乃にこの話をするのが楽しみだ。明日は後藤の顔をみて、きっと溜飲も下がるだろう。
そんなことを考えながら、僕は足取りも軽く帰宅する。
僕はまだ、自分の歪みには気付かなかった。
「…………そうなんだ。後藤くん、そんなことを…」
茅乃が帰宅してきた時間を見計らい、僕は彼女に連絡を入れていた。
「うん。わざわざご丁寧に、そんなこと言ってきたよ。困るよね、全く」
今は僕の部屋、ふたりで話している最中だ。
やや得意げに事の経緯を語ってやると、案の定茅乃は困ったように顔を俯かせていた。
「あとさ、こんなことも言われたよ。茅乃は僕と帰る理由聞かれて、言葉を濁すって。変なこと言うよね。僕らが一緒にいるなんて、当たり前だって言うのにさ」
「…………それは」
「茅乃も僕と一緒にいると楽しいよね?僕は楽しいし、別に他のやつなんて、どうでもいいじゃないか」
当然のことのように僕は言う。
だって当たり前だ。茅乃だってそう思っているからこそ、僕を一番に優先してくれるのだから。
そう信じていたのに――――
「あの、かっちゃん。ちょっといいかな…?」
「ん?なに?」
「私ね…これからは、あまり一緒に帰れないかもしれない」
そんなことを、告げられた。
「え…?」
「今日ね、他の子と一緒に遊びに行ったでしょ?カラオケとかにも行ったんだけど、すごく盛り上がって楽しかったんだ。また遊ぼうって誘われて…かっちゃんと帰るのも、嫌いなわけじゃないんだよ?でもかっちゃんとはいつも同じ話ばかりだし、寄る場所も本屋とかコンビニとか、決まった場所ばかりじゃん」
僕は彼女がなにを言ってるのか、理解できなかった。
「だから、違うとこにも色々行ってみたいし、話しも聞きたいなって…私達、高校生になるわけだし。あ、もちろんかっちゃんとはこれまで通り…」
「僕といるのが、嫌になったの?」
気付けばそんなことを言っていた。
「え、そういうわけじゃ…」
「他のやつらを優先するんだ?そうなんだろ?」
違う。責めたいわけじゃない。
「え、ちが…」
「じゃあなんだってのさ!僕といるのが、つまらないのかよ!?」
ただ理由が知りたいんだ。
僕が悪かったというなら直すから。
理由を教えて欲しかった。
「そういうわけじゃ…」
「なら、どういうことだよ!?僕がいれば、それでいいだろ!」
それなのに、止まらない。止められない。
「待って、かっちゃん!話を…」
「もういい!出てってくれ!他のやつといたいなら、そうすればいいだろ!?」
そして結局最後まで、言葉は止まってくれなかった。
「…………」
「いいから出てけよ。当分は顔も見たくない」
俯きながら部屋を出ていく茅乃。
小さくドアが閉まる音を聞き届け、僕は大きく息を吐いた。
(…………なにやってるんだ、僕は)
ただ、一緒に帰れないかもしれないと、そう言われただけじゃないか。
それなのに、なんで僕はあんなに逆上したんだ?
自分でも意味がわからない。
……いいや、本当はわかってるはずだ。
あの瞬間、僕は茅乃に裏切られた気がしたのだ。
僕には茅乃が全てだったのに、茅乃は他のやつを求めた。
それが許せなかったんだ。
茅乃の気持ちを聞いたわけでもないのに、茅乃は僕から離れることはないと、自分で勝手に決めつけて、カッコ悪く逆ギレしてしまった。
「くそっ…!」
思わず頭をかきむしるも、今さらどうしようもない。
言ったことを取り消せるはずもないんだ。
すぐに頭を下げにいけたなら、もしかしたらまだ違ったかもしれないけど、この時の肥大化した僕の自尊心は、それを許してくれなかった。
茅乃が僕を選んだのであり、僕は茅乃に選ばれた。
その考えが僕の中で、気付けば真実になっていたのだから。
自分から謝るなんて、できなかった。
それからの日々は早かった。
茅乃が隣にいないだけで、こうも違うのかというほどに、僕は灰色の毎日を送っていた。
突如ポッカリ空いた茅乃の隣を、他のやつらが見逃すはずもなく、毎日茅乃は多くの友人に囲まれていた。
それに対し、僕はどうだ。
茅乃以外を切り捨てていた僕の隣を歩こうとする人なんて当然おらず、常に僕はひとりだった。
誰にも茅乃のことを相談できない。
この孤独は埋まらない。
だけど、茅乃は埋めてくれる人達に常に囲まれ、今ではすっかり笑えている。
その輪の中には後藤だっていた。
僕はしっかり告げ口だってしたというのに、今でも茅乃の近くにいる。
僕とアイツで、なにが違ったっていうんだ
そんな後悔に苛まれるなかで僕は高校生になり、今は帰りの電車を待っている最中だ。
当然、茅乃は隣にいない。
茅乃は別の高校に進学し、連絡も取り合うことはしていない。
通学時間も別々だから、朝かち合うこともなかった。
僕らの道は、完全に別れたのだ。
「なんでこうなったんだろう…」
僕はただ、茅乃とふたりきりの世界にいたかっただけなのに。
そう思う僕の視界に、ふと飛び込んでくるものがある。
見慣れた長い黒髪。茅乃だ!
「かや…!」
反対側のホームにいる幼馴染へと声をかけようとしたものの、声が続かなかった。
それは電車が構内に滑り込んできたために、向こうが見えなくなったというのもあるけど、なにより――――
「ぁっ………」
一瞬だけ、見えてしまったから。
茅乃の隣に、ひとりの男が立っていたのを。
そして僕といたときと同じように…いや、それ以上に楽しそうに笑う茅乃を、僕は見てしまったから。
「…………」
立ちすくむ僕の隣を、多くの人が行き交っていく。
立ち止まってくれる人はいない。
僕はずっとひとりだった。
そうして誰もいなくなった駅のホームで、僕はひとり、小さく泣いた
たまにはちょっとシリアスなお話をひとつまみ…