マドレーヌは結婚したくない 6
翌日から正式に“仮の婚約者”として、公爵家での生活が始まった。
朝・昼・晩の食事はもちろん公爵一家と一緒。ゆっくりと落ち着いて食べることは出来そうにない。…というか、結局のところ自分は「余所者」なのだという事実が妙な緊張感となって食欲が湧かない。
「あら、それだけでいいの?遠慮せずにもっと召し上がりなさいな。」
「ありがとうございます…。ですがわたくし、もういっぱいですわ。」
公爵夫人から声を掛けられると、苦笑いでそう答えるマドレーヌ…。夫人は「女の子は可愛らしくていいわ」などと、呑気なことを言っていた。
…そんな事よりも、マドレーヌを悩ませたのが――…
「では時間もありませんから、今日から早速、公爵家における作法一式の勉強を始めて頂きますね!」
朝食が済むと、ガナシュはそう告げた。
来た…。マドレーヌにとって、最も意味のない勉強の時が。
「ほ…本当にやらなければならないんですの…??」
すでにウンザリとしながら、マドレーヌは恐る恐る尋ねてみた。
「もちろんですよ。昨日、そうお伝えしたでしょう?これから色々なところに出て頂く機会がありますからね、それに見合った所作などを身に着けておいて貰わなければ。課題は山積みですよ!」
「所詮は偽の婚約者なのに~!……こんなの、負担しかありませんわ…。うう…わたくしが一体何をしたって言うの……」
泣き言を言いながらマドレーヌはやさぐれた。
…たしかに、要求ばかりで少々横暴が過ぎているかもしれない。無理強いしている自覚のあったガナシュは、さすがになだめなければと思った。
「ええと……。では!ご褒美を差し上げますよ。」
「ご褒美…?」
「そう!」
「…って、何の…?」
口からの出まかせに近い“ご褒美”の中身を問われ、ガナシュは焦った。
「……そう…ですね…。何でもいいですよ。」
「何でも…?」
「ええ!だから、頑張ってくださいね。」
マドレーヌはそれを聞いて、沈んだまま考えた。そしてこくりと頷いた。
「…分かりましたわ。“何でも”ですわね?絶対!約束ですよ⁉」
「――まあ…、常識の範囲内で…」
一体何を要求されるのだろうか、とガナシュの視線は泳いだ。
そんなところに、執事のジェノワーズがやって来た。
「ガナシュ様、お時間です。」
「ああ、分かった。――では、よろしくお願いしますね。」
彼に促されたガナシュはマドレーヌを置いて、仕事へ向かうために屋敷を後にした。
そしてマドレーヌの“無意味な”修行は始まった。
「それではまず、基本的な礼儀作法の確認からいたします!」
「はいっ!」
主にそれを担うのは、マドレーヌの専属侍女となったブリゼだ。彼女は張り切っているのか時間的な問題からなのか、始めから飛ばしていた。
「お次は夫人として必要な社交について!」
「はいっ」
「お次は一般教養です!」
「はいっっ」
「そしてお次は――…」
「はいいっ」
…怒涛のような稽古と勉強の数々…。屋敷の中をあっちこっちと連れ回され、何人もの先生と会い、マドレーヌは目が回りそうだった。自由を満喫していた実家では、もちろんここまでの勉強に追われたことなど無い。
“ご褒美”に釣られたことに、早くも後悔する羽目になっていた。
次の予定まで少しだけあった休憩時間、マドレーヌはテラスの椅子に座りテーブルにもたれ掛かって、ぐったりとしていた。行儀が悪かったが、側に付いているブリゼもマドレーヌが疲れているのが分かっているからか、今だけは見て見ぬふりをしてくれているようだ。
するとそこへ、緊張感のない声が降ってきた。
「おお~やってるなー!」
この声は…
「……ジャンドゥーヤ様…」
マドレーヌはそのまま動かずじろりと目だけでそちらを見た。しかし、彼はそんなことなどお構いなしのようだ。にやにやとしながらこちらへやって来る。そして尋ねることもなく、さも当たり前のように向かいの椅子に座った。
「“ジャン”でいい。長いから。――で、何だ、行儀はどうした?」
この時間だけはそんな事は忘れたい、と思ったマドレーヌは無視をした。
「…何のご用ですか?」
「別に。特別な用は無いな!」
その答えに、気楽なものだとマドレーヌは無性に腹が立った。
「…わたくしはとっっっても、忙しいんです‼この後だって、ダンスのレッスンが待っているのだから…」
「へえー。ああ!それなら、俺が付き合ってやるよ!」
「はい⁉」
ジャンドゥーヤから、思わぬ提案が出てきた。
「ダンスのレッスンなんだから、練習相手が必要だろ?ちょうど暇だったんだ~。いいよな?ブリゼ。」
「え?ええ…。問題ないと思います。」
「よぅーし!じゃあ、やるか!さあ行くぞマドレーヌ‼」
「えぇ⁉わたくしはまだ…」
マドレーヌの了承も無しに、ジャンドゥーヤは腕を掴むとさっさと歩き出した。
「……なんて勝手な……!!」
こうなれば練習台にし倒してやる、とマドレーヌに火が付いた。軽々しく請け負った事をジャンドゥーヤに後悔させてやろうと、鬼気迫る様子でレッスンを始めた。
「ほらほら、型が崩れてきたぞ?」
「う…うるさいですわ…」
先生だけでなく、ジャンドゥーヤからもからかうように指導がくる。それがマドレーヌの反発心に触れ、ますますヒートアップする。おかげで腕前の方はめきめきと上がりそうな勢いだ。
「表情が怖いなあー」
「うぐぐ…」
後悔させてやるつもりがその逆になりつつあるとは…。ゼーゼーと息を切らすマドレーヌと違って、ジャンドゥーヤは終始涼しい顔をしてヘラヘラとしている。しかもペースも乱れない。体力差なのかもしれない。
『こんなはずでは……悔しいぃ!!』
ここで降りては負けたような気がする…。後でくたくたになろうが関係ない。勝手に勝負をしているつもりになっているマドレーヌは、必死に食らいついていった。
それからというもの、ジャンドゥーヤは度々マドレーヌのダンスレッスンに乱入してはその練習相手となるのだった。
―――そんな日々が続いていた時、マドレーヌはある欲求に駆られた。
「ああ…緑の中でぼうっとしたい…」
実家を離れてどれくらいが経っただろう…。これほど長く、野山に触れないことは初めてだ。マドレーヌは本気で故郷が恋しくなってきた。今すぐそれが叶わないとしても、せめてそこに近い場所に行きたい…
『よし。逃げよう。』
限界が来て目の据わったマドレーヌがそう思うまでに、それほど時間は掛からなかった。
思い立ったが吉日。ブリゼの目を盗むと庭園を駆け出した。
「――マドレーヌ様がお逃げになったぞー!!」
…しかし、そう上手くいくはずもなく、勉強から逃走を図った事はすぐに屋敷中に知れ渡った。そして、使用人が総出の勢いでの捜索が始まってしまった。もはやマドレーヌが一人逃げる役の、鬼ごっこ状態だ。
『い…いやあああああっ!!』
ドレスのスカートをたくし上げ、マドレーヌは走った。
『ほんの少し、休みたいだけなのに…!』
もちろん家に帰ろうなどとは思っていなかった。まずここから出られると思えなかったからだ。
とにかくしばらくの間、どこか外に隠れる場所が欲しかった。だがそんな場所は…なかなか見付からない。整然として隙間もない庭園に、死角のないようなだだっ広い芝生の庭――…
使用人たちから逃げ回り、マドレーヌは息も絶え絶えになってきた。
「はあっ…わたし…なにをしてるの…!?」
思考が鈍る…。何だかもう、よく分からなくなってきた。なぜこんなに苦しい思いをしているのだろう……
――そもそも、だ。
偽物の自分が完璧な婚約者のふりをする必要がどこにあるというか?…単に名門貴族が、その体裁を保ちたいというだけの事だろう…。そんな事に付き合うなんて、自分はお人好し過ぎるのではないだろうか…
そんな事が頭を巡っていた時、ある所で突然腕を掴まれた。
「⁉」
「――何をしているんですか⁇」
その顔を見たマドレーヌは青くなった。そこにいたのは、仕事に行っているはずのガナシュだった。
…一番捕まってはいけない人に捕まってしまった…そう思った。
「ど…どうしてここに……お仕事中なのでは……??」
「今日は終わりました。ほら、もう夕方ですよ?」
そう言われて空を見ると、いつの間にか辺りは薄紫に包まれていた。
マドレーヌはその場にへたり込んだ。
「帰って来てこの騒ぎなので、何事かと思いましたよ…。一体何があったんですか?」
マドレーヌはしばらく無言でむくれていた。それからやっと口を利いた。
「…………勉強が…きつ過ぎます…。ここのところ朝からずっと、秒単位のように予定が組まれているんですよ⁉逃げたくもなりますわ‼」
破れかぶれのように、マドレーヌは涙目でガナシュに訴えかけた。
「やっぱり私には無理です‼もう嫌!!」
そう言って、終いには泣き出した。
…あれからもやはり、食事はずっと公爵一家と一緒だった。ガナシュが仕事で留守にしている時も、マドレーヌは参加だ。もちろん悪い人たちではないのだが、自分の境遇でそこにいるのは、やはり針のむしろのようなのだ。結局あまり食べられず、力も出ない…。
自分の神経は図太い方だと思っていたのだが、存外繊細だったらしい。というより、ただの内弁慶のようなものなのかもしれない。
他にも色々なものが混ざり合い、それが一気に溢れ出してきた…
「――…何がいいですか?」
「…はい?」
脈絡のないような問い掛けに、座り込んで泣きじゃくっていたマドレーヌは顔を上げた。
「ご褒美です。」
目線を合わせるように、ガナシュはしゃがんで話し掛けていた。
「すみません。あまり、女性の機嫌を取った事が無いので…こういう時、どうすればいいのか分からないんです。どう、したいですか?」
後ろめたさがあるせいか、少し困ったように彼はマドレーヌの顔を覗いている。
正直、ご褒美なんて些細で、もうどうでもいいとさえ思っていたマドレーヌだったが…
「では帰…」「それ以外で。」
弱みのようなものに付け込もうとしてみたが、被せるようにバッサリと言葉を切られてしまった。
罪悪感があるくせに抜け目がない男だ、とマドレーヌはふくれっ面をした。
「ほら、またそういう顔をする。」
それを見たガナシュは、笑いながら彼女のその頬をつまんだ。
突然、自然とそうされたことにマドレーヌは思わず赤面し、動揺した。
「ちょ、ちょっと…⁉」
「あっ…と…。失礼。昔、弟にしていた癖でつい…」
マドレーヌの反応に、ガナシュは慌てて手を離した。そのまま二人とも、何となくそっぽを向いた。
…気まずい…。何だか、妙な空気になってしまった…。
「……森。」
「え?森⁇」
唐突に、今度はマドレーヌからおかしな発言が飛び出した。聞き間違いかと思ったガナシュは聞き返した。
「森がいいです…。ご褒美!」
そのおかしな望みはもちろん、マドレーヌとしては意地悪のつもりだった。少しは悩めばいいと…。これだけ色々と我慢してきたのだから、それくらいは許されるだろうと思った。
…それに、シャルトルーズに帰れない今、野山の代わりにそれに近いものに触れたいという気持ちが本当でもあったから出てきたものだ。
『まあ、無理でしょうけれどね。』
そんな事を考えている横で、ガナシュもまた、何かを考え込んでいた。
「――…分かりました。いいですよ。」
にっこりと、ガナシュは笑顔で了承した。
「ええっ!?本当に…⁇」
「はい。ただ、少しお時間を頂きますが…。」
まさかそんな話が通るとは思わなかったマドレーヌは驚いた。
『…お休みに、連れて行ってくださるってことかしら?…まあ、悪くはないわ…。』
この近くの森とは、どこだろう…。そう考え始めると、何だかそわそわしてきた。乗せられているようで悔しい気もするが、貰えるご褒美は貰っておこうと思う事にした。
「…約束ですわよ。」
「ええ。では、戻りましょうか。じきに晩餐ですから。」
そう言うと、ガナシュは手を差し出した。
「――王宮の夜会はもうすぐです。とりあえずは、そこを一つ目標としましょう。ね?」
「それが終わったら、少し余裕をくださる⁇」
「はい、もちろん。」
王宮の夜会…。それこそが、自分の本来の目的を果たす場だ。名目は国王への挨拶だが、“婚約者”と発表する前のこの時の方が、正式な相手を探すのには絶好に違いない。
すっかり気を取り直したマドレーヌはガナシュの差し出した手に引かれ、邸宅の方へと戻って行ったのだった。