血生臭い現実
その男は、茶と緑の迷彩柄の戦闘服をまとい、銃と短剣の他には目立った装備を持たずに、危険領域に足を踏み入れていた。
この地において軽装で動くのは、自殺行為に等しい。常識から外れた愚か者——のはずだったが、リーペの脳内にその感情は浮かばなかった。
「危険領域にたったこれだけか? いや、隠れてるな……だが、戦える奴はやはり少ねえか」
男はリーペの姿を舐めるように観察し、余裕綽々の笑みを浮かべた。
次の瞬間——。
「……失せろ」
空気を裂くように響いた、聞き慣れぬ声。
「……あ?」
「戦うことしか能のない人族が、私らの前に立つなと言ってるんだ」
それはリーペの声だった。普段の気だるい調子とは一線を画す、殺気と怒りに満ちた低音。
温厚な彼女の裏側に潜む、もうひとつの獣性が露わになっていた。
その様子に対して男は一切怯むことなく「……へぇ。あんた、人語を介せるのかい」と会話する余裕さえ見せつけていた。
「教養と学がある証拠かね。羨ましい限りで」
「あんたに羨ましがられるのは気色が悪い」
「……教養はあっても口の行儀は悪いんだな」
軽口を叩きながらも、男の目に宿る殺気は鋭さを増していく。
次の瞬間——彼の銃口がリーペを捉え、銃声が森を裂いた。
弾丸はリーペの頬を掠める。反撃に転じようとしたそのとき——。
「——くっ……あぁぁぁ!」
後方から、仲間の悲鳴が届いた。
リーペの瞳が鋭くなる。
「やはり、いるか」
男はニヤリと笑う。今の狙撃は、リーペではなく、姿を消した仲間を狙ったものだった。
ーー……五体同時に仕留められる狙撃精度。それに、逃走中の隊員の位置を正確に……偶然じゃない。
リーペは男の視野と認識力が、自身の想定を大きく上回っていることを即座に悟った。
「……お前はここで、殺す——!」
直後、彼女が目にも止まらぬ速さで間合いを詰めた。
彼女の瞳が相手の芯を見通すかのように鋭くなる。
——瞬間。
「……っ、これは……」
迷彩柄の男が口からタラリと血を流した。そしてグラッと男の体がよろける。
——何が起きた……?
刹那的に、そんな疑問が男の脳裏によぎる。
だが、その解を与える隙を与えず、勢いを殺さずにリーペが男を力強く蹴り飛ばした。
彼女の足の甲が綺麗に男の眼前を捉える。
吹き飛ぶ身体。反応こそ見せた男だったが、数メートル後方で、体勢を崩して地面に膝をついた。
「そうか……てめえが英雄殺しか……大したもんだぁ……あ?」
男は薄ら笑いを浮かべながら、口元の血を拭う。
しかし——気付く。先ほどまでいたリーペの姿が、もうどこにもない。
——ズドン!
直後、後方からの衝撃。視界が跳ね、再び体が地面を転がった。さらに——。
「ぐっ……!」
真正面からの一撃。視認できない攻撃に連続して叩きつけられながらも、男は冷静に受け身を取っていた。
「なるほどっ……!」
男の思考が一つの仮説に辿り着く。
不可視化状態。だが、そこにはわずかな“隙”がある——。
微塵も焦る様子を見せることなく、男が虚空に銃口を向けた。
ーーパァン!
一発の発泡が森に響く。
その刹那—— 血を流しながら姿を現すリーペの姿があった。
不可視化状態での被弾。それが意味するものを、彼女は痛感していた。
「やはり、姿を隠せるメリットの反面、外界の情報にラグができてるな。じゃなきゃ常時隠密行動をしない理由がないし、さっきより動きも大味になりつつある。違うか?」
一つの核心を得た男が、銃口を突き付けながら意気揚々と語りかける。
対するリーペは無言のまま、瞳の奥で僅かな焦燥を滲ませていた。
ーーこの男……並じゃない!
それでも——敗北の未来は見えなかった。経験と自信、そして耳元に届く仲間の通信。
『——隊長……総員、離脱に成功いたしました……まだ森の中ですが、安全圏内にはいます』
シュレーヒンの報告に、リーペの表情がわずかに緩む。
そしてマスクを脱ぎ捨てて、男を直視し鋭い眼光をもって殺意をぶつける。
「ぐふっ……っ……」
またしても突如として吐血し咳き込む男。恐らく、それもリーペの能力なのだろう。
それでもなお——男の薄ら笑いは消えない。
「オタクの能力は、随分と便利だな……心身共に健康な体が、このざまだ」
言葉とは裏腹に、やはり男はどこか嬉々として佇んでいる。
「それ以上可哀想な見た目になりたくなければ、降伏しろ」
青いブレスレッドに触れながら、殺気をぶつけるリーペ。効果は、簡易的な応急処置。
それを使用して直ぐにリーペの肩の出血が治まっていく。
「生憎と、俺にも部下がいるんでね。無理な話だな。それに、いずれあんたを殺す必要があるし、これはこれで好機なんでね」
「……そうか」
その言葉を最後に、リーペは黒い球体を周囲に展開しながら、超高速で動き出した。男を翻弄し、正面からの蹴りを放つ。
確実にリーペは今、男を仕留めに行くつもりだ。その事実を、彼も瞬時に理解する。それでもなお平然を装い——。
「——すぅ……」
聞き取るのが困難な程に、穏やかな深呼吸を見せた。
そして——瞬く間に銃声を響かせた。
一つ、二つ、三つ——。度重なる銃声音。見事な早打ちと連射。
だがその全てが虚しくリーペの周囲に漂う球体に吸い込まれていく。
「そんなことしても……意味無いよ」
呆れ顔で囁き、次の瞬間、彼の顔面に強烈な蹴りが叩き込まれる。
「……どうだかな!?」
だが男はリーペの言葉に苛立ちを見せることなく、依然薄ら笑いを浮かべながら腕一本で攻撃を防いだ。痙攣を見せる腕。
そしてーーあさっての方向を向く銃口。
その先にあるのは、無だった。
だというのに、一発の銃声音がリーペの耳に届く。
男の意図の見えない発砲に、リーペが直感的に指を突き出す。
黒球を放ち、殺意をぶつける——が、男はそれすらも予測していたかのように回避する。
黒球が地面を抉り、森に衝撃が走る。そこに男の姿は無かった。
——どこだ、どこにいる……?
動きは止めても、思考だけは常に巡らせていた。
男は移動しながら発砲をしているが、弾丸は全て球体に吸い込まれるため問題はなかった。問題は、他の隊員の元に標的を変えられることや逃亡されることである。
——やむを得ない。
リーペは即断する。
黒球を三十体以上展開し、周囲一帯に放出。
そして——。
≪※※※※≫
リーペの周囲一帯がえぐり取られた。
地面には無数のクレーターができ、軸を失った木々は勢い良く倒れ、何も無い空間を埋めるかの如く風が強く荒れ狂う。
「……」
そしてその中心に、迷彩の男の姿。
左腕を失いながらも、なお立ち尽くしていた。
「……やっぱすげえなぁ」
そう呟く男の顔には、絶望ではなく――感嘆が浮かんでいた。
右腕は力なくぶら下がって銃を地に伏せているというのに。
左腕はもう無く、勝負は目に見えているというのに。
それを見据えてなおリーペは油断することなく、確実に息の根を止めるために狙いを定め、黒い球を展開。
そして、男との間合いを一気に詰め、自身の指先を力強く男に突き出す。
——直後。
「——だが、俺の勝ちだ……!」
勝ち誇ったかのように、男の笑みがリーペの視界に映る。次の瞬間には、黒い球体が空間をえぐっていた。
だがそこに男の姿は既になかった。体全体が消失したのなら良かったのだが、現実はそこまで甘くない。
——ちっ……逃げられた!
自身の失態を悔いるリーペ。そう判断して追撃に移る——はずだった。
だが男を追う足が一瞬にして制止する。彼女の背筋を、恐怖と悪寒が一瞬にして走ったのだ。
背筋を凍らせる気配が、リーペの背後から突き刺さった。
振り向いた先にあったのは——神獣。
全身から黄金の光を放ち、十一の球体を首の体毛に吊るし、四肢を地に突き立てる。
狐のような顔立ち。だが、瞳は虹に輝き、眼光は万物を圧する。
リーペは一瞬にして理解する。
逃げれば死。戦えば……やはり死。
だが、怯みはしなかった。
神獣を屠る為に、黒球を展開。そして、自身の脚に力を入れたーー瞬間。
「——くっ!」
何かが彼女の右肩を貫通する。速度は弾丸を凌駕し、痛みも感覚も異質だった。
そして、それが通った軌跡は煌びやかに輝いていた。
その正体は——奴の羽根。
神獣は自身の翼の一部であった羽根を飛ばしただけ。
たかが羽根一枚。されど、その威力は常軌を逸しており、リーペの黒い球体をかいくぐったホーミング性も備えている。
その事実を理解するのにかかった時間は僅か数秒。それでも、彼女にとっては永遠のようだった。
それでも、構えを崩さぬリーペ。
先の戦いよりも一際早い移動速度。その速さを以て間合いに入り込み、蹴りを放つ——が。
「——は?」
ただ地面へと落ちていく羽根。それ当たっただけで、衝撃が反射し思わずバランスを崩す。
さらに蹴られた羽根は、ひらひらと何事もないかのように舞い落ちていく。
何かが違う。あれはただの羽根ではない。
リーペは即座に理解する。
羽根一枚で、神獣は世界の物理法則をねじ曲げている——と。
ならばと。男の時同様に、明確な殺意を奴にぶつける。
——その直後。
「……ッ」
神獣の口元から血がタラリと垂れた。手応えは、ある。
——次は確実に……!
自身の能力が効くことが分かり、リーペが再び間合いを詰めた。
それに反応するように、神獣が周囲に羽根を打ち放う。
まさに光の如く、気付いた瞬間には辺り一帯が光り輝いている。当事者でなければ心躍る光景だろう。
だがリーペ本人にそれを愛でる余裕は一切ない。
反応する暇もなく、リーペの全身を光が貫く。
——それでも、止まらない。
リーペの足が、神獣に向けられる。その軌道上に、またしても宙を舞う羽根。
またもや攻撃が阻まれる……そう思えた。そう思うのが普通だった。
しかしリーペは違った。
攻撃と思われたその左脚で羽を蹴り上げ、上空へ跳躍し、黒球を指先に集めて——。
≪虚穴翫星・第三番≫
リーペの攻撃が放たれた。
黒球が神獣の胴体をかすった直後、地面に着弾する。
そして、人であれば容易にひしゃげるほどの圧力が、神獣を襲った。
黒球が嵐を生み、地を穿ち、神獣の身体を削る。
その巨体が揺らぎ、口から血が溢れ出る。
それでも尚——立っている。四肢は地を踏み、目は死んでいない。
「……ちっ」
仕留めそこなった事実を上空から確認し舌打ちをこぼすリーペ。そこに——。
「っ……!」
羽根が、再びリーペを穿つ。
何度見ても隙のない羽根による狙撃。
流石に効いたらしく、リーペが落下を見せた。
——せめて距離だけでも。
落下地点を少しでも神獣から遠ざけようと、力を振り絞り大きく自身の翼を振るった……はずだった。
「……は?」
間違いなく神獣との距離はできていた。にもかかわらず、瞬き一つの直後、落下地点に神獣の姿が視界に侵入する。
——なんで、そこに……!
反応する間もなく、神獣の巨翼に吹き飛ばされ、遥か彼方の地に叩きつけられる。
外側からヒリヒリと痛みが襲う。出血もいくつか見受けられる。
それでも致命傷には至らず、青のブレスレッドで応急処置を開始する。
「ぅ……くはっ……」
何とか四つん這いになり呼吸を整える。外傷は消えた。それでも内部をえぐられる感触がじんじんと響き続けている。
「はぁ……仲間を——」
何とか立ち上がろうと、頭上を見上げる。
その視界に——新たな脅威。
巨大な蛇が、天を覆っていた。
指を突き出す暇もなく、蛇の薙ぎ払いが襲う。
「——かはっ!」
言葉にならない声が、掠れて喉から飛び出る。
同時に、遥か彼方へと飛ばされた。
そして何かに衝突した感触を最後に、リーペは気を失ったのだった。