薄い境界
気を失い視界が暗転した天海であったが、不思議なことに、彼の目にはある光景が広がっていた。
自分の知らない街——覚えていたはずの街——そして懐かしさを感じる街。それが無残に破壊される光景。
それが現実ではないことは分かっていた。けれどそれが夢なのか、或いは記憶なのか。その区別まではできなかった。だが、その崩れ行く街の中を駆け巡っていることだけは分かった。
何か重要な使命感を感じて足を動かしている気がしてならない。けれど、それが何かは思い出せない。
ただ、それが夢にしろ記憶にしろ、天海にとっては重要なことが不思議なくらい理解できた。その心と気持ちに身を任せて足を動かし続ける。
地響きを起こしながら亀裂の入る地面、辺り一帯で燃え始める建物。街の崩壊は既に佳境に入っており、辺り一帯で悲惨な音が鳴り響く。それに紛れるように、人々の怒声や悲鳴が飛び交っており、正常な人を見つける方が難しかった。
その音が耳に入る度、天海の焦燥がさらに増していく。緊張と焦りと走る熱で、呼吸が荒くなり鼓動も早くなる。
それでも、足を止めることなくとある施設内に辿り着いていた。
施設一帯を有刺鉄線や背の何倍も高い塀が囲っていたが、正門らしき場所は開いたままであり、警備員の姿はどこにも無かった。
それを無視するように、建物内へと駆ける天海。そしてとある一室に入り、すぐさま何かの装置を起動し始めた。
そこは体育館程の広さであり、天上、壁、地面が白いタイルで埋め尽くされており、中央には大きな透明の円柱が天井まで伸びていた。
その柱をドアのついたガラス壁が余裕を持って四角く囲んでいる。さらにそれを覆うように、コントロールシステムにあるようなディスプレイやボタン、キーボードなどが、各辺に設置されている。そして天海が付近の装置を起動し始めたことで、中央の柱が赤や青、緑といったように、鮮やかに変色し始めた。
と——。
「お前もいたのか」
唐突に後方から声が聞こえた。天海が勢い良く振り向くと、視界に竜の姿が映った。
「当たり前だ。タイミング的にはもう今しかないだろ」
天海がそう言いながら付近に置いてあるブレスレッドを両腕にはめ始めた。
「お前も行くつもりなら、着けろ」
そして竜にも同様に装着するように促す。
「こんな不安定な状況でやるなんて、どうかしてるな」
愚痴をこぼしながら眉をひそめる竜。だがそう言いつつも、素早くブレスレットを装着し始める。そして身につけた直後、何かのデータを見始めた。
「それはお互い様だろ……さて、稼働状況がセーフティならいいんだが」
「おい——」
と、竜が唐突に緊迫した声で天海に訴えかけた。
「どうした……?」
「ヘッドリアクターが防衛保守モードに移行した。時間がない……やるならリアクターなしで行くぞ」
「……無茶だろ」
「だがこれしかない。こんな状況だ、早く決断しろ……お前が行かなくても、俺は一人で——」
「一人で行かせねえよ。俺も行く。先に準備室入ってろ、確か試作中のリアクターがあったはずだ。幾分かはマシだろ」
「試作品で実践投入とか、正気じゃねえな」
「かもな」
清々しい程の笑顔でそう返事して、隣接している部屋に入る天海。そこは先の部屋に比べればかなり狭く、物が綺麗に陳列された倉庫の様な場所であった。
天海はそこに入ってすぐ、薄い板の様なゴーグル型の装着物を手に取り、そのまま元の部屋へと戻る。
竜は既にあの円柱のある空間に入っており、それに続くように、天海もいくつかのスイッチを起動した後に入っていく。
「試作品って、これのことか?」
天海が足を踏み入れるなり、竜がゴーグルを眺めながら苦言を呈した。
「……不安か?」
「いや、寧ろ興が乗ってきた」
「そうか」
そんなやり取りをしながらゴーグルを手渡す天海。そしてお互いにそれを装着し始めた。
「今更だが、いいのか? あいつに言わなくて」
ゴーグルを身につけた直後、竜が意味深にそう尋ねた。
「……ああ、大丈夫だ。きっといつか、また——」
天海の言葉はそこで途切れたが、竜はすべてを察して「そうか」と頷き、二人で円柱の中へと足を踏み入れる。
五人同時に入れるくらいには広く、また外からは透明に見えたが、中にはコントロールパネルが搭載され、壁を緑の光線グルグルと回っている。
「セット完了。ふぅ……いつでも行けるぞ」
ため息と共に、準備完了の旨を竜が伝える。
「そうか……よし、頼む」
意を決して装置を起動させた、その時——。
「天海!」
突如として天海の名が二人の耳に入って来た。
声がした方に視線を向けると、そこには一人の女性がいた。
天海や竜と同じくらいの年齢であり、ポニーテールの黒髪と可愛らしい大きな目、そして汚れ一つない白衣が特徴的であり、今にも泣きそうな顔で天海に何かを訴えかけている。
「お願い……!」
涙と共にそう言った彼女が手を差し出した。
「——」
天海が何かを口にした。だがそれを知ることは無く、映像はそこでザザっとノイズが走り……途切れてしまった。
※※※
「はっ……!」
その真相を知るよりも先に、天海は目を覚ました。
もう少しで何かを思い出せそうな歯切れの悪い目覚めとなったが、その曖昧さは体の痛みで吹き飛んだ。
「……痛っ」
未だに体全体がずきずきと疼く。竜を庇い衝撃を直に受けたのだから、寧ろこれだけで済んだのが幸いだったかもしれない。
——そうだ、俺は竜を庇って。
「竜!」
弟の身を案じて周囲を見渡し始める天海。
あれからどのくらい時間が経過したかは定かではないが、意識を失う前よりも光がかなり少ない。恐らく夜になったのだろう。だが、理由は分からないが森が燃えていることに加えて、目の前に焚火があることで完全な暗闇ではなかった。
そしてその焚火を挟む形で、竜の姿があった。
「ん……起きたか」
天海の視界に竜が入り込むと同時に、竜も天海の目覚めに気付き軽く声をかける。見たところ竜は軽傷らしく、倒木に腰を下ろして天海の怪我を他人事のように眺めていた。
「まだ痛むようなら、安静にしてろ」
とはいえ、多少は心配してくれているようで気遣う言葉を天海に投げかけた。
「悪い……」
だが一つ重要なことを思い出して「そうだ、あの化け物どもは……!」と唐突に大声を出した。
急な大声であったが、竜は特別反応することもなく、間髪入れずに「そこにいるよ」と言いながら天海の後方を指差した。それに反応して天海が勢い良く振り返る。
「——これは」
そして、そこにあったのは既に息絶えた後の氷虎と雷蛇であった。双方ともにかなりの損傷が目立っている。そして、お互いが相手の体に噛みついた状態で亡くなっている。
ともかく、これで脅威が去り命拾いをしたのだが、天海の心は依然として穏やかではなかった。
「一体……何があった?」
あれだけの猛獣が双方ともに亡骸になっているのだから、困惑するのも無理はない。だが竜はあくまでも冷静に「相打ちだよ」と事の結果を告げた。
「俺も一度意識を失ったから具体的な詳細は分からないが、恐らく氷野郎が雷野郎の首に噛みついたと同時に、体内の電流に触れて感電したんだろう。そこで感電した氷野郎が硬直して離れられなくなり、死んだ後も雷野郎の首を抑えて窒息死させた、というところだと思ってる。森が燃えたのは、放電が原因だろうな。まああくまでも推測に過ぎないが、この際死因なんて関係ないだろ」
「そうか……」
「ともかく、これで食料問題は解決されたわけだ」
「そうか……あ? こいつら食うの?」
「当然。貴重なたんぱく源だからな。嫌なら飢え死にするだけだ」
「……まあ、そうだけど」
「心配なら、こいつに毒味でもさせるか?」
竜がそう言ってクイっと軽く首を横に振った。その先には、見慣れない翼を携えた少女が横たわっていた。
その姿を見て曖昧な記憶が徐々に蘇ってくるのと同時に、彼女が飛ばされてきたことを思い出す。あれだけ豪快に飛ばされてきたというのに、目立った外傷は一つも無く、痣どころか出血すらない彼女。その理由は運が良かったのか、或いは彼女の体が人知を超えたものだからか。
とはいえ、全くの無傷という訳ではなく、未だ意識を失っている様である。
「普通、意識不明の少女に毒味させるかよ。サイコパスかよお前」
「普通、か……いったいどこまでがそれを指すのか。そもそもこいつ自身が異質だろ」
「この翼のことか……どう見ても、本物だよな。背中から生えてるし」
彼女の背中を覗きながら、天海がそう言葉をこぼす。
そのセリフ通り、翼は紛れもなく彼女自身のものであった。
「まあ、翼の件は置いておくとして——」
だが、竜はそれについて言及することなく、別の話題を投げかけた。
「これからのことだが……」
「毒味の話か?」
「ちげえよ。冗談に決まってんだろ……こいつをどうするかだよ」
「どうするって、取り敢えず目を覚ますまで待機でいいんじゃないか?」
当然だと言わんばかりに、天海が彼女の心配をする。しかし、竜はそれに頷くことは無く、眉をひそめながらため息をついた。
「俺は正直、こいつを見捨てるのが最善だと思ってる」
「……それ、本気で言ってんのか?」
竜の提案に、天海の言葉が一瞬詰まった。
「この状況で冗談は言わねぇっつうの。冷静に考えてみろ。恐らくこいつはこの世界の住人で間違いない。だとすれば、この森に猛獣が出ることはある程度知っていたと考えるのが自然だ。だが、こいつは武器どころか護身用の道具すらない上に、猛獣の攻撃を喰らってほぼ無傷。間違いなく俺らより強い。そんな奴が、俺らの助けを請う必要もないし、味方になるとも限らない。いや、それ以前に人ですらないかもしれないんだ。だから、こいつが傍にいることで俺たちが死ぬリスクも高まる。だから見捨てるんだ。まあ、見捨てるというよりは、関わらないというべきかもしれんが」
感情を抜きにした竜の意見に天海は納得できなかったが、理解はできた。理にかなってはいたし、何より驚異的な攻撃を食らった後なのだから、まずは保身を優先するのは当然のことだろう。
それに、天海も心のどこかでは彼女に恐怖心を抱いていたから。
それでも、すぐに竜の意見を頷くことはしなかった。
「確かに竜の言い分は正しいと思う。ただ、依然として何も知らない状況下で、情報を持っているこの子と別れるのは、それはそれで勿体ないと思う。俺らにとって情報の有無は死活問題に直結するんだから。俺が彼女を助けてようとしたのは、それが理由の一つだ」
あくまでも論理的に振る舞って意見を述べる。だが実際、天海の言葉もまた間違いではなかった。
「……なら、敵意を向けられてもいいようにこいつが目覚めるよりも先に強くなるか?」
「無茶言うなよ。そもそもこの子が危害を加える前提なのもどうかと思うが」
「最悪の状態を常に考えた方がいいだろ」
「まあそうなんだけど。……いや、ここでいう最悪ってのは、多分全滅することだろ。だったら、最善策は他にあるんじゃないか?」
「具体的には?」
「そうだな……この子が目覚める時、ちょっと距離を置くとか?」
「不自然過ぎるだろ。第一、危害の有無を確認できる訳じゃないし、不信感を与えかねん。情報を聞くなら目覚めた時にすぐ近くにいた方がいい。安心感を与えられるし」
「雛鳥じゃあるまいし……でも、ある程度の信頼関係は不可欠か……なら、竜だけが距離を取って待機、俺が傍で少女の目覚めを待つってのはどうだ?」
「安直な案だが、名案もないしなぁ……まあ、それでいいよ。だが、言っとくが俺はまだお前を兄と確信してる訳じゃない。いや、仮にそうだとしても、お前が危険な目にあった場合でも俺は迷わず自分の身を案じるからな」
「そうか。なら、何でさっき俺を見捨てなかったんだ?」
その問いに竜の言葉が一瞬詰まったが、「さあな」と軽くあしらい横になってしまった。
「……」
答えが気になったが深く追求することはせず、代わりに視線を頭上に向けてぼんやりと今後のことを考え始めた。
星は一つも見えない。周囲が明るいからと言うのもあるが、怖いくらいに暗闇だけが広がっていた。まるで天海と竜の未来を示唆しているかのように、どこまでも、ずっと暗かった——。
朝になった。森は既に鎮火しており、黒と灰色の煙だけが空へと続いている。だが、焚き火はまだ猛っており、パチパチと音を立てながら燃え続けている。
記憶にないが、どうやら寝落ちした様である。
「すまない、寝てた」
眠い目をこすりながら竜に声を掛ける。だが、反応は無く天海と謎の女性だけがそこにいた。焚き火の音だけが静かな空間に響いている。
火が消えていないということは、竜が定期的に燃料を足していた証拠であるのだが、寝起きのせいか竜の消息を疑い「竜……!」と気を動転させながらそう大きな声を出した。
「何だよ、朝っぱらから」
と、天海の背後から竜の声が聞こえてきた。そう言った竜の目元には目立つくらいの隈ができていた。
「そこにいたのか……良かった」
「何がだよ。というか、てめえの方が雛鳥みてえじゃねえか…………くそっ、眠っ」
「何だよ、寝てないのか?」
「この状況で寝られるかよ。それより、こいつはいつまで寝てんだ?」
そう言って竜が女性に目を向けた。それにつられて天海も視線を移す。
「俺が知るかよ」
「なら、もうお前が起こせばよくねぇか?」
「は?」
「というか、もう限界。俺は少し離れた場所で寝るわ。おやすみ」
「おい! ……たくっ」
いきなりの睡眠宣言に戸惑った天海であったが、竜の言動全てが限界に見えたうえに、自分は寝てしまっていたため何も言うことができず、竜が距離を取るのを見送った。
「それこそ危険行為じゃねえか」
竜の姿が見えなくなった後に愚痴をこぼす天海。ともかく、周囲に人がいない場所で睡眠を取るのは自殺行為に等しい。だから竜の提案通り、自分から彼女を起こしてそのまま竜の元へ行くことにした。
「……さて、そろそろ起きてももらおうか」
そして早速彼女を起こす為に彼女の肩を軽く叩いた——のだが。
——ドスッ……!
肩に触れた瞬間に、何かが落ちる音がした。それと同時に自身の顔が僅かに濡れた。
「——は?」
一瞬の出来事であったが、その落ちたものが何かはすぐに分かった。それは、肘の関節部分で綺麗に切断された、自身の右腕であった。
切断された瞬間に飛び散った血と肘から垂れ続ける血のせいで、服や顔は汚れ、地面は赤く染まっていく。
何が起きたのか、誰がやったのか。それを把握するために顔を前に向ける。
そこには、左手が真紅に染まり鋭い目つきで天海を睨む、目を覚ました少女が体を起こしていた。そして、彼女が自身の手を切断したのだと瞬時に理解し、天海が距離を取ろうとした。だが——。
——グジュ……ッ。
何をする間もなく、天海は腹部に違和感を覚えた。思わず下に視線を向けると、彼女の左手が自身の腹部を貫通していた。
「——あ」
そして勢い良く彼女が左手をスパッと抜くと同時に、天海が力なくズタッと背中から落ちた。
腕と比べて血はあまり出なかったが、痛みは比にならない程であった。だが、その痛みに悶絶する間もなくして、天海の視界は再び暗転していった。
そんな男の生死など気にも留めず、少女は血にまみれた左手で顔半分を覆い隠すようにして、自身の顛末を思い出し始めた。