再起の刻
竜の手から、静かに霊宝が滑り落ちた。
命綾が床に当たる微かな音が、異様な静寂を切り裂く。
加護に守られていたとはいえ、その身体は限界に近い。それでも彼の眼差しには、まだ闘志の残滓が宿っていた。
天海も同じだ。
血と汗にまみれたその顔には、どこか力強さすらあった。
訓練の積み重ねか、それとも身体を支配する昂ぶりのせいか——その答えは、本人にも分からない。
だが確かに、二人はまだ立っていた。意識を手放すまいと、必死に踏みとどまっていた。
対するダレンは、鏡張りの壁の向こうにいる者へ視線を投げ、淡々と指示を飛ばす。
「……医療班を。できるだけ急いでくれ」
それを見ていたクレンは、露骨に不満そうな顔をしていたが、黙って矛を戻す。
「……」
その動作には不満よりも苛立ちが滲んでいた。
ダレンはそれに対して何を言う訳でもなく、ただ一瞥すると、音もなくその場を後にした。クレンも、それに続く。
二人は、天海と竜に一言も言葉をかけることはなかった。
扉が閉まり、廊下に出た瞬間、クレンは堰を切ったように口を開いた。
「……やってくれたな、ダレン。今回の件で俺たちの信用は地に落ちた。決定打を何度も見逃し、霊宝の脅威を看過したままの戦闘……上の許可も、なかったな?」
足音は止まらず、矛も収めたまま。
だがその声は、まるで刃が石を削るようだった。
「……ああ」
ダレンの返事は短い。感情の起伏はなかった。
その無機質さに、クレンの苛立ちはさらに増す。
「……説明、してくれるよな?」
その問いに、ダレンは振り返らない。ただ、前を向いたまま答える。
「……最近、戦場から離れたことで色々考えたんだ。霊宝を使えば、英雄殺しは葬れる。だがそれで戦争が終わるとは思えなかった。……そう思っただけだ」
その語調に、弁解の色はない。覚悟を携えた男の静かな宣言だった。
「俺は本気でこの地獄に終止符を打ちたいと思ってる……逃げ出す訳じゃねえが、仲間の屍が積もる現状に、少し疲れたんだ……少しだけ、な」
「言っている意味が分からないな。それが今回の件に、どう関係が?」
「……直に分かるさ」
数歩、歩いてから——不意に立ち止まり、振り返る。
「……そう言うリーダーは、何で俺の戯事に付き合ってくれたんだ?」
煽りでも嫌味でもなく、純粋な疑問がダレンの口から飛び出る。
「……お前の無茶に付き合った覚えはない。俺は最初から、全力だった。情けないがな」
「……そうか。すまんな」
「ともかく、今回は重く受け止めた方がいい。お前の望み通りに事が進んだとしても、それは結果論だ。場合によっては死人が出ていた。そういう可能性もあったってことを忘れるな」
「……ああ、分かってる。報告は、俺からする。全部、俺の責任だ……」
そう言ってダレンが再び歩き出す。
そして廊下の角を曲がり、音もなく姿を消した。
その背中を見送りながら、クレンは小さく息を吐く。
ダレンの願いは、クレンが誰よりも知っている。
どれだけ血塗られた手であっても、彼は仲間の命だけは、決して見捨てない男だ。
冷酷と認識されながらも、誰よりも痛みを抱えている。
——だから、信じた。理屈抜きで。口では言えないが、理由なんて、それだけで十分だった。
「せめて相談ぐらいしろよ……」
その呟きは、誰にも届かぬまま、廊下の石床に吸い込まれていった。
ダレンとクレンが部屋を後にした後、天海は、まるで糸が切れたようにその場に腰を下ろした。
「……よく、俺の意図がわかったな」
肩で息をしながら、天海がぽつりと呟く。
「……たまたまだよ」
竜がそう返した直後、その身体が大きく揺れて、膝をつく。限界はとうに超えていたのだ。意識こそ辛うじて保っていたが、今にも崩れそうな疲弊さだ。
そのとき、控えていた医療班が部屋へと駆け込んできた。白衣の男たちは手際よく竜の状態を確認すると、すぐに担架へと移し、別室へと運んでいく。
残された天海にも、すぐさま簡易的な診察が始まった。応急処置を施す隊員たちの目は、どこか張りつめたものを湛えている。若干の畏怖すら感じられたが、天海はそれを気にすることはなかった。
——命を拾った。
今はそれが、何よりも重要だからだ。
そしてそう実感した直後、天海の意識はふっと途切れた。気絶というよりも、深い眠りに落ちたような感覚だった。
◇ ◇ ◇
その後、天海と竜にはしばらくの休息が与えられた。
訓練や講義は一時中断となったが、生活に必要な衣食住はきちんと保証されていた。食事は一日三回、時間になると配膳され、希望すれば勉強道具や訓練部屋も提供された。
隔離に近い環境ではあったが、監視の目は緩やかで、強制的な管理というほどでもない。回復の時間と、静かな自由が与えられた数日だった。
そんなある日の昼下がり、金属が擦れる音が、乾いた訓練室に低く響いた。
それは他でもなく、束の間の休息の中でも訓練に勤しむ二人によるものだった。
互いに木製の訓練用武器を手に、天海と竜は淡々と間合いを詰め合う。攻撃の意図も、手加減もない。ただ、流れるように攻防を重ねていた。
天海の額に滲む汗が、頬を伝って落ちる。
竜の動きは無駄がなく、冷えた水のような整然さを保っている。呼吸の乱れも、打撃の迷いもない。だがそれでも、天海は確かに食らいついていた。
やがて数合打ち合った後、天海が小さく口を開いた。
「なあ、ひとつ聞いてもいいか」
竜は応えず、構えを崩さない。
「……お前、なんでダレンたちに抵抗したんだよ……合理的なお前が、あの場でああ出るのは……ちょっと意外だった」
数秒の沈黙。
やがて、木刀の一撃が天海の防御を崩し、軽く肩を打つ。
「……手合い中に、動き止めるなよ」
冷たく言い捨ててから、竜はふっと目を細めた。
「……まあ、深い意味はないさ。恩のある奴を、言われた通りに殺すほど落ちぶれてはいない。ただ、それだけ」
短い言葉だった。
けれど、その声音には確かな輪郭があった。
「そうか……竜は、これからどうしたい?」
また数合、打ち合いが続く。
やや重たい沈黙が流れたのち、竜が視線を天海に寄せる。
「生き延びることができれば、それでいい。欲を言えば記憶を取り戻したいところだが……逆にお前はどうしたいんだよ」
突然の逆質問に、天海は一瞬目を丸くする。
その隙を見逃さず、竜の一撃が胸を正面から捉えた。鈍い音が鳴る。
「……くっそ。不意打ちかよ」
「油断する方が悪い」
竜は肩をすくめながら、武器を肩に担ぐ。追撃の意志はない。
天海はしばらく口を噤み、静かに木刀を下ろした。
「……実はさ、ずっと考えてたんだ。加護をくれたあの子のことを」
「翼人の……?」
「ああ。名前も何もかも知らない少女。でも、俺は……俺たちはあの子に命をもらった。だから、加護を返したいんだ。礼を言いたい。……俺には、それくらいしかできないから。もし加護が強くなることで、彼女に負担がかかっているなら、それは申し訳ないし……それに、腕の件もあるし」
言葉は淡々としていたが、その響きには熱があった。
竜は、しばらく目を伏せたまま黙っていた。
やがて、彼は壁際に木刀を置き、天海に背を向けた。
「……そうか」
その背中に、冷笑も否定もなかった。
ただ、短く絞り出したような声が、訓練室に残された。
そのとき、響きのある足音が二人の耳に届いた。
部屋の扉が静かに開かれ、一人の男がまっすぐに歩み入ってくる。
「…….邪魔をする」
無骨な声と共に現れたのは、見知らぬ男だった。灰色の軍服に、いくつかの階級章が並ぶ。年の頃は四十代半ば。冷静な瞳を宿したその男は、二人の前で敬礼すらなく言葉を続けた。
「私は司令部付きの監察官、カイ・ヴァルディと申す者だ。……先日の戦闘について、正式な見解を伝えに来た」
その言葉に、天海と竜は軽く身構える。
男——カイは、淡々と状況を説明した。ダレンの行動は上層部の正式な指示ではなく、あくまで彼個人の判断によるものだという。そして彼には現在、謹慎処分が下されていると静かに告げられた。
「……それと、君たち二人についてだが、現在は観察対象の分類からは外れている。危険性なしと判断された。よって今後は一定の制限下で、自由な行動が認められる。彼の独断とは言え、結果は結果だ」
それは、二人が自由を勝ち取った瞬間であった。にも関わらず、二人の顔色は浮かないままだ。
「ここに残るもよし。餞別を受け取り安寧に過ごすもよし。或いは、詫びの印としてお前たちの願いを聞いてもいい。選ぶのは自由だ」
その言葉に、竜が小さく目を見開いた。対する天海は一呼吸おいて、口を開く。
「では、ひとつ、お願いがあります」
「……なんだ?」
「以前、私に加護を授けてくれた少女がいました。名も知らない、翼を持った子です。その加護を、返したい。……あの子に感謝を伝えたいんです。あなたなら、その少女の所在も分かるのではないですか?」
以前に比べて、遥かに流暢になった言葉が天海の口から飛び出る。
だがそれはあまりに純粋で、戦場を知らぬ者の言葉にすら聞こえた。
それでも天海の目は真剣だった。彼はここ数日、訓練もない静かな時間の中で、何度も彼女の顔を思い出していた。あのとき命を繋いでくれた光が、今も胸に残っている。
その加護が無ければ、先日の戦闘は当然ながら、森で生きながらえることなど不可能だった。
だが天海の様子とは裏腹に、ヴァルディの表情がわずかに険しくなる。
「……翼人は、我々にとって敵だぞ。それを承知で私に懇願するのか?」
場に緊張が走った。その空気を切るように、竜も口を開く。
「……今すぐでなくとも構いませんのでお願いします」
短く、けれど揺るぎない声だった。
しばし沈黙ののち、カイは低く息を吐いた。
「条件付きならば、構わない。……ついてこい。記録を残すためにも、しかるべき手続きが必要だ」
そう告げると、男は踵を返し、扉を開けて先を歩き出した。天海と竜は顔を見合わせ、無言のままその背を追った。
——静けさの裏に、何かが動き始めていた。
案内された先は、かつて霊宝を巡って血が流れたあの部屋だった。
磨き上げられた床は、あの戦いが夢だったかのように静まり返っている。崩壊していた壁も、数日のうちに修復されていた。だが、部屋の中央に据えられた黒いアームと、あの忌まわしき霊宝だけが、確かにここで起きた出来事を記憶しているかのように、じっとこちらを見据えていた。
男は、二人の様子を一瞥し、軽く手を上げて言った。
「安心しろ。今回は、何もさせんよ」
その声音に棘はなかった。むしろ、どこか穏やかですらある。
「ただ、一つだけやってもらいたいことがある。もう一度、それに触れてほしい。映像では確認したが、私も自身の目で確認したいのでな」
その言葉に、天海と竜は戸惑いつつも無言で頷いた。
まず天海がゆっくりと霊宝に近づいた。
それに反応するように、アームが霊宝を持ち上げて天海の前に突き出す。以前と同じ動作だ。
先日の件が一気に甦る中、天海がそっと手を伸ばし、優しく霊宝を握りしめる。
アームから外れ、確実に天海の手中に収まる。
依然として外見的反応はない。けれど、不思議な重みが再びじんわりと伝わってくる。
同様に竜も霊宝を握りしめ、何も変化がないことを確かめる。
男はしばらくそれを見つめた後、竜がアームに霊宝を戻したのを確認して、ゆっくりと口を開いた。
「……私が出す条件はただ一つ。それを使い神獣を討つことだ」
唐突すぎる提案だった。空気が張り詰める。
天海が息を呑み、竜が眉を潜める。
「無論、断っても構わん。そうした場合でも、君たちの身柄は保護しよう。ただし……願いは切り捨てさせてもらう」
「答える前に、これを使用したとしても、本当に神獣を倒せるんですか?」竜が静かに尋ねた。
男は即座に首を振る。「無理だろうな。戦力的に考えて」
その言葉に、竜は一歩前に出る。
「なら、条件の意味がないじゃないですか」
男は静かに視線を上げる。
「そうだな……我々の最高戦力はダレンだ。現状、彼をもってしても神獣を倒すのは不可能。仮説として……彼に匹敵する戦力が五人、それに霊宝を組み合わせれば、勝機はある。無論、それでも勝率は三割に満たないだろうがな」
「なけなしの戦力を、少しでも底上げしろということですか?」天海が詰め寄る。
男は肩を竦める。
「霊宝を扱える人間を、わざわさ使い捨てになどするものか。……戦力は、呼び寄せればいい。――翼人との、共闘だ」
その言葉に、空気が再び凍った。
「……それができるなら、とっくにやってるでしょ」竜が呆れたように呟く。
「そうだな。善意で動いてくれるとは思っていない」と男は続けた。「だから、そう仕向ける。神獣をリーフ共和国に誘導し、都市を戦場にする。今まで神獣の行動原理、及び生態系の不明点が多く、奴を扱うことは不可能だと思っていた……だが聞いた話によれば、神獣は君たち二人を執拗に狙っていた。であれば、作戦の組み立ても幾分かは可能というものだ」
言葉の意味を噛みしめるように、天海は俯く。
男は構わず続ける。
「君らの弁が正しければ、誘導はできる。無論、命懸けとなるがな。――選択肢は与えてやった……後はお前たちが決めろ」
長い沈黙のあと、天海が顔を上げた。
心に浮かぶのは、条件の成否ではなく、名も知らない彼女の存在感だった。
「やってみせます」
静かだが、決意のこもった声だった。
竜も頷く。「寧ろ、それが俺の望みです」
瞳に闘志を宿しながら発せられた竜の言葉に「ーー竜……」と天海が目を丸くした。
「そうか……作戦内容は後日、別の者から通達させる。それまでは好きにしろ」
対するカイは顔色を変えることなく、そのまま部屋を後にした。
霊宝を部屋に残しままの退室。危険性がないと判断したのは本当なのだろう。
「正直、お前が賛同するのは意外だった」
扉が閉まり、男の姿が見えなくなった後、天海が静かに呟いた。
「お前と一緒にするな。答えは同じでも、プロセスが違う……俺は、生き残る選択をしただけだ」
呆れ気味に返答し、天海に背を向けて歩みを進める。
「先に戻る」
そう冷たく言い放った竜は、そのまま退室してしまった。
一人残された天海は、同じくポツリと置かれたままの霊宝に視線を向けた。
触れてもいないのに、その威圧感が天海の手にじんわりと伝わってくる。
嫌な感じはしない。けれど、気持ちの良いものでもなかった。
それをしばらく感じたのちに、天海も静かに部屋を後にしたのだった。




